水面に雫

 「いらっしゃい」



 扉を開くと開店したばかりの徳之間は、まだ座席に空きがあった。とはいえ、すでにテーブルには客がいてこの空間に閑古鳥が鳴きに飛んでくることはなさそうだ。


 宇海と雫は約束していた通り、ショッピングを楽しんだ。宇海の額の傷はもうほとんど目立たなくなった。手には雑貨と服が入った紙袋。プライベートでもつい雑貨を見てはアイデアを練ろうとするところが職業病というものだが、せっかくなので帰りに徳之間で食事をしてから帰ることにした。宇海は京都に来たばかりで知っているお店がほとんどないため、一度みんなで訪ねた徳之間に行きたいと雫に言った。以前歓迎会で訪ねたとき、料理がおいしくてお酒も飲みやすかった。前回は他の社員がいたことで気を遣ったものだが、雫とふたりきりならすでに友人に近い感覚で話すことができる。



 「今日はふたりかい?」



 カウンターから隆治が珍しい組み合わせのふたりに声をかけた。



 「商品企画部としてじゃなくて、友達として後輩とショッピングに行ってきたんです。テーブルでもいいですか?」


 「ええで。ゆっくりしてってや」



 隆治はクールなタイプかと初見では感じたが、とても話しやすく人情味のある人のようだ。


 宇海と雫がテーブル席につくと、店員の湊が水を持ってきて、「注文は決まってる?」と彼女たちに訊ねた。


 そのとき、宇海は視線を湊に投げつけた。あの日の夜、彼女を救った仮面の男の声にそっくりだったから。体型もよく似ている。どこかで会ったことがあるような気がしたのは、歓迎会の日にここで彼を見たからだった。



 「えーっと、俺の顔になんかついてる?」


 「あ、いえ、すみません」



 突然睨みつけるように見られた湊は困惑したように頬を掻いた。考えてみれば声が似ている人なんてこの世にたくさんいるし、体型だって彼のような標準の体つきの人は他にもいる。偶然そのふたつが似ているだけで、肝心の顔は仮面で見えなかった。それに、仮面の彼は標準語を話していた。関西弁の湊とはまったく口調が異なる。



 「お腹空いたから親子丼にしようか。あと、焼き鳥も頼む?」


 「いいですね」



 宇海と雫はそれぞれ親子丼と焼き鳥ももをタレで注文した。無論、ビールも忘れずに。湊はカウンターにいる隆治に注文を伝えると、自らも調理場に入って冷蔵庫から食材を取り出した。やっぱり似ている。傷の手当てをしてくれたとき、仮面の男から微かに醤油のような香りがした。あれが焼き鳥のタレからくるものだとしたら……。



 「そういうことね」



 向かいにいる雫が何やら含みのある笑みを浮かべて宇海を見つめた。何が嬉しいのか、楽しそうに頬杖をついて視線を横に向けた。その先では湊が親子丼の調理をしていた。



 「なんですか?」


 「宇海ちゃんの狙いは相波くんだったか」


 「そ、そんな。違いますよ」


 「動揺しちゃって」



 動揺したのはそういう意味ではなくて、本当にただ湊と仮面の男が同一人物である可能性について考えていただけだ。彼が目当てで徳之間を選択したわけでもないし、ただこの時間を楽しみたいと思っていた。はずなのに、雫の一言で変に意識をしてしまう宇海がいることもまた事実。



 「連絡先の交換くらいならしてもらえるんじゃない?」


 「いきなりそんなの無理ですよ」


 「きっかけは自分から作らないと。よかったら手伝おうか?」



 宇海は必死に頭を振って否定した。連絡先を交換したからといって、彼に「仮面の男ですか?」と訊くわけにはいかない。



 「会ったことのある人に似てるってだけなんです」


 「初恋の相手とか?」


 「そういうのじゃないんですって」



 ふたりが話に夢中になっていると、テーブルにジョッキがふたつ置かれた。湊が持ってきたのだが、話に盛り上がっていた彼女たちは彼が近づいていたことに気づかなかった。



 「生中ふたつね。なんか楽しそうやな」


 「ねえ、相波くんって彼女いるの?」


 「こんな自由人に惚れてくれる女の子なんてどこ探してもおらんわ」


 「そっかー。結構モテそうなのに。ねえ?」



 宇海はわざとらしく話を振ってきた雫に対して、「そうですね」と気持ちのこもっていない相槌を打つことが精一杯だった。その様子を見て悪戯に笑う雫と、困った表情をする湊、楽しかったはずの時間が壊れていく。完全に崩壊することはないけれど。


 湊は空気に耐えられなくなったのか、「そろそろ親子丼できるから、もうちょっと待っててな」と調理場へと駆け込んだ。


 彼が去ったテーブルでは、宇海が雫にからかわないでと小声で責めた。こんなことで湊と顔を合わせることすら気まずくなったら、もうこの店にも来ることができなくなってしまう。この京都で行きつけの店を作っておいて、友達が遊びに来たときは連れてこられるようにしておきたい。



 「相波くんに彼女はいないって」


 「だから、違いますって」



 雫に勘違いされているようだが、宇海にとって湊は特に気になる存在ではない。あの日の夜の仮面の男が本当に彼だったらお礼を伝えたいとは思うが、そもそも仮面で顔を隠すということは正体を隠したいということだ。もし彼が仮面の男と別人だった場合は、宇海が変な妄想をする変わった人間だと思われてしまう。とにかく今だけでもこのことは忘れよう。刑事にだって知っていることはすべて話した。


 宇海は湊から視線を外して、目の前にいる先輩との時間を楽しむことにした。

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