混み合う事情

 今日も無事仕事が終わった。宇海は定時にオフィスを出発し、昨日立ち寄ったカフェを目指す。唯一真実を知った雫は一緒に行こうかと提案してくれたのだが、彼女には仕事がある。こんなことまで迷惑をかけるわけにはいかない。本音を言えば、一緒に来てほしかった。刑事とふたりで会うというのは、悪いことをしていなくても緊張するものだ。


 彼の目的はティーチと呼ばれたあの男。目立つタトゥーを入れて、その外見からまともな人間とは言い難い様相だった。結局あの男は逮捕されたのだろうか。


 例のカフェに到着したが、外からでも店内が混み合っていることがわかった。昨日と同じ、この時間に訪れると店内でくつろぐどころか、一杯のコーヒーを買うことすら難しそうだ。店の前に刑事の姿はないし、店に入って探すことも大変そうで、気が進まなかった。でも、とりあえず列に並んでコーヒーを買うことにした。彼が見つからなければコーヒーを持って帰ればいい。さすがに二日連続で人質にとられることもないだろうし、昨日飲んだこのコーヒーはとてもおいしかった。


 レジ待ちの行列に並んでから数分待って宇海の順番がやってきた。注文したのは昨日と同じメニュー。会計を済ませるとドリンクが渡されるカウンターまで歩みを進め、そこにもオーダーの順番を待つ人たちがいた。宇海は周囲を見渡してテーブル席を観察したがどこも満席で、学生や仕事終わりの女性、パソコンを開いて仕事をする営業の姿だけで、昼に会った彼は見つからなかった。であれば仕方ない。今度彼が会いに来ても、カフェに行ったことは事実だし、見つからなかったといえばそれは嘘ではない。



 「広幡さん」



 半ば安心した宇海に話しかける声があった。彼女は声の方に振り返ったが、そこに知っている顔はなかった。


 気のせいか。それにしては鮮明に聞こえた声だった。



 「広幡さん、こちらです」



 再び聞こえた声に目を凝らすと、壁際にある二人掛けの席にスーツを着た大柄な男がいた。本当に見つけてしまった。もう逃げることはできない。宇海は彼に見えるように頷くと、ちょうど提供されたコーヒーを手に取って賑やかなテーブルの間を通って彼のもとへと歩く。



 「お待たせしました」


 「いえ、仕事柄待つことには慣れてますから。わざわざお越しいただいてすみません」



 彼はジャケットから名刺を取り出して宇海に差し出した。檜山光輝。昼に見た警察手帳の名前と相違はない。京都府警の刑事課所属。少なくとも偽物ではなさそうだ。



 「それで、何をお話しすればいいんでしょうか?」


 「昨日の件です。あなたが人質にとられたとき、私は何もできなかった。まずはそのことを謝罪したかったんです。刑事として情けない。怪我は、大丈夫ですか?」



 光輝は宇海の額にあるガーゼを指差して訊ねる。



 「たいした怪我じゃないです。それに、下手に動けばあの人は何をするかわかりませんでしたから、謝らないでください」



 光輝は自分を責めたのか、表情が固かった。昨日の件を非難するつもりはない。あれは不運の出来事だった、誰も防ぐことのできない。



 「今日お訊きしたいのは、あの後のことです。犯人はティーチと呼ばれる半グレの男でした。広幡さんはどうやって逃げたんですか?」


 「どうやって……」



 宇海はどう答えるべきか考えた。仮面の男の話をすることでさらに厄介なことにならないだろうか。そもそも信じてくれるだろうか。アニメの世界にいるような正義の使者の存在なんて。



 「本当のことを教えてください。どんな些細なことでも構いません」



 光輝の決意の眼差しに射抜かれた宇海は事実を伝えることにした。刑事に嘘をついたら、それこそ犯罪者になってしまう。捜査を撹乱するようなことはできない。



 「仮面を被った男の人が助けてくれたんです」


 「仮面?」



 光輝はわかりやすく首を傾げて眉間に皺を寄せた。その反応は至極当然、宇海が話を聞かされる立場であっても同じ反応をする。



 「私もよくわかりません。ただ、『高校生を轢き逃げしたのお前か』と言っていました。殺されそうになった私を救ってくれたんです」


 「轢き逃げ……そうか。その仮面の男がティーチを連れ去ったんですか?」


 「いえ、倒した後動かないように手錠で繋いでいました。逃げないように。それで私の怪我の手当てをして、そのままいなくなりました。あの犯人は逮捕されたんじゃないんですか?」



 光輝は宇海からの質問に渋い表情を見せた。そして、苛立ちが含まれたような目でテーブルのコーヒーを見つめてこう言った。



 「ティーチは行方がわかっていません。その仮面の男が連れ去って、もしかしたらその後……」


 「彼は私を助けてくれただけです」


 「彼がしたことも犯罪なんですよ。正義のヒーロー気取っても、それはフィクションの世界の話。ちなみに、その仮面の男に心当たりは?」


 「ありません。最近京都に転勤になったばっかりで、こっちに友達もいません」



 光輝はすでに素性を調べて宇海のことはある程度知っていたらしく、「そうでしたね」と小声で言った。



 「とにかく無事で何よりでした。また何か思い出したことがあればいつでもご連絡ください。お疲れのところご協力ありがとうございました」



 もう訊きたいことはないらしい。光輝は混み合う店内で華麗に身を翻してその姿を消した。


 仮面の男、消えた半グレの男、私は何に巻き込まれたのだろう。

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