幕開け

 宇海はオフィスに出勤することを躊躇った。オフィスビルに入りエレベーターで目的の階に到達し、株式会社レイテストアイテムのプレートが掲げられた扉の前にいるのだが、なかなか一歩が踏み出せない。なぜなら、額に目立つガーゼが貼られているから。昨日定時に退勤した後、彼女はある事件に巻き込まれた。一歩間違えば、今頃命がなくなっていたかもしれない。そう思うと恐怖が蘇った。


 いつまでもこの場所で立ち止まっているわけにはいかない。宇海は覚悟を決めていつも通りに扉を開けてオフィスに足を踏み入れた。



 「おはようございます」


 「おはよ……。え、どうしたの?」


 「これは、えーっと」



 最初に挨拶を返して宇海の異変に気づいたのは雫だった。彼女はすぐにデスクを離れて宇海のもとまで駆け寄った。隣にいた哲也も何も言わずにこちらを見ると、眉間に皺を寄せる。


 これだけ目立つ白いガーゼが額に貼られていては、髪型で工夫しようにも隠しきることはできない。頭を打ったので救急病院で治療を受けたが、脳に損傷はなく軽症で済んだ。出血はすぐに止まったものの、切り傷が完治するまでは少し期間を要するため、ガーゼを貼ってそれを隠したのだった。傷が薄くなってくるまでは病院で渡されたガーゼを交換しながら消毒をする必要がある。



 「ちょっと転けちゃって」


 「顔から転けたの? 頭打たなかった? 病院行った?」


 「はい。軽い切り傷で済みました。全然大丈夫です」


 「そっか、びっくりした。気をつけてね」



 さすがに本当のことは言えなかった。昨日の出来事はニュースにならなかった。インターネットで検索してみてもそれらしいものは見つからず、わかったことはティーチと呼ばれたあの男が半グレの有名人だったことだけ。真偽が不明な数々の悪事が書かれてあったが、少なくとも彼が裏社会の人間であったことは間違いない。彼を追っていたスーツの男も、宇海を救った仮面の男のことも、何もわからないままだ。こんなことを話せば、頭を打っておかしくなったのではないかと心配されるだろう。


 渚と恵介は席を外しているのか、バッグはあるがオフィスにはいなかった。宇海は仕事の準備のためデスクにつくと、パソコンを立ち上げてバッグからメモ帳を出して机上に置いた。


 始業五分前、渚と恵介が同じタイミングでオフィスに現れた。ふたりがデスクについて宇海を見たとき、先ほどの雫とまったく同じ反応を示した。宇海は再び同じ説明をして、大きな怪我でないことを強調しておいた。


 その後は怪我について触れられることもなく、普段通りに仕事が進んだ。まだまだ知らないことはたくさんあり、毎日が勉強。午前の仕事が終わり、昼休憩の時間になった。昼食は外に行くこともあれば、コンビニでサンドイッチなどを買ってきてオフィスでとることもある。



 「宇海ちゃん、お昼どうする?」


 「何か買って来ます」


 「じゃあ、一緒に行こうよ。私もオフィスで食べるつもりだったから」



 雫は何かと宇海を気にかけてくれる。教育係としてだけでなく、よきお姉さんとしても頼れる存在だ。額のガーゼが目立つので、宇海が外での食事を躊躇っていることを彼女は察してくれた。


 渚はリーダーとして打ち合わせや会議が多く、昼休憩は基本時間をずらしてとる。恵介と哲也は毎日ふたりで外食に行くようだ。


 宇海と雫がオフィスを出ようとしたとき、ちょうど廊下である人と会った。その人は外で動くことが多いようでしわが入ったスーツを着ており、革靴は履き込まれていて柔らかくなっているように見えた。そして、その人物を宇海は覚えていた。



 「広幡宇海さん、ですね」


 「あのときの」



 雫は宇海に「誰?」と視線で語りかけたが、簡単に説明はできない。



 「警察の者です」



 男は胸ポケットから警察手帳を出して、それを宇海に示した。そこには檜山光輝と名前が書かれていた。彼は身長が高く、体格もいい。刑事としての雰囲気を兼ね備えている。



 「突然すみません。昨日の件で少しお話を伺いたくて」


 「仕事が終わった後でもいいでしょうか?」


 「わかりました。お仕事は何時に?」


 「六時頃には終わると思います」


 「では、仕事が終わってからで結構ですので、このカフェに来ていただけますか?」



 光輝から指定されたのは偶然にも昨日立ち寄ったカフェであった。宇海が「わかりました」と返事をすると、光輝は頭を下げて廊下を去った。昨日宇海と光輝が顔を合わせたのは事実だが、彼に名前や連絡先は一切教えていない。顔を見ただけで宇海を特定するとは、警察はすごいものだ。感心していると隣で話を聞いていた雫が説明を求めてきた。


 怪我をしたのは、ただ転んだだけだと嘘をついていたことが知られてしまった。心配になるのも仕方ない。



 「昨日、本当は何があったの? せめて私にだけでも教えて」


 「誰にも言わないでください。心配かけたくないので」



 雫は廊下を進みながら宇海の話に耳を傾けた。


 まるでドラマや映画のような展開に驚いてはいたが、額の傷と刑事が会いに来た事実によって宇海の現実離れした話を疑うことはなかった。あの偶然によってこれから巻き込まれるかもしれない出来事に不安を覚える宇海であった。

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