オモテ

裏返し

 見慣れた景色だけど、以前と大きく違って見える。それは、視線が低くなったからなのか、精神的な問題なのかはわからない。


 亮は昨日病院を退院した。足はリハビリをしながら少しずつ回復を待つことになるが、脳や身体の機能には問題が見られないため、日常生活に戻っても構わないという主治医の判断だった。


 轢き逃げの件は新聞やニュースでも報道され、全校生徒が知っている。車椅子の車輪を手で回しながら進む彼を憐れむ視線が集まる。サッカー一筋の青年はもうサッカーができない。その事実を知って周囲の生徒たちはかける言葉が見つからないようだった。


 残念ながら校舎にエレベーターはない。亮のクラスは三階にあるが、そこまで自力で上がる手段はなく、彼は一階の別室から教室の様子をビデオ通話機能で確認して授業を受けることになる。先生方が十分に悩み抜いた末に導いた解決策だとわかっているし、とても感謝している。だけど、その場にいることができないという事実が、彼に居場所がないと明示するようで辛かった。



 「亮、おはよう」



 廊下の先から届いた声の主はサッカー部の仲間だった。彼は親友であり、サッカー部の仲間であるいつき。亮はまっすぐに新しい居場所に向かうはずだったが、樹は車椅子の後ろに回るとハンドルを握って亮の背中を押し始めた。



 「どこ行くん?」


 「サッカー部なんやから、グラウンドに決まってるやろ」


 「もうサッカー部におっても意味ないわ」



 この足で地面を蹴ってボールを操ることはできない。亮は昨夜、拒否する手を納得させて退部届を書いた。失って初めて何気ない日常が輝いていたことを知った。廊下を抜けてグラウンドに出ると、サッカー部員たちが集まっていた。顧問やコーチの姿もある。もうすぐ授業が始まる時間だというのに、こんなところで何をしているのだ。だが、これはいい機会かもしれない。鞄の中にある退部届を提出しよう。


 仲間の力で回転する車輪、自分の足で進むことができないから、亮は視線を膝の上の鞄に落として中から封筒を取り出した。退部届。こんな小さなものが、これからの人生を大きく変えると思うと何もかもどうでもよくなってくる。


 サッカー部員たちは無言で亮を見る。その中にはマネージャーもいるが、ひまりの姿はなかった。彼女はひと足先に退部したのかもしれない。酷いことを言った。きっと傷つけたはずだ。サッカー部は彼女にとって嫌な記憶になった。だとしたら、本当に申し訳ない。



 「亮、俺ら決めたから」



 亮の背後で車椅子を押していた樹が言った。亮は振り返らなかった。樹の気持ちは有難いが、何を言われても心が動くことはない。


 もう、どうでもいい。このまま流されるままに生きていく。それがこれからの俺の人生だ。



 「絶対に全国大会へ行く。亮と一緒に。そうしたら、約束破ったことにならんよね?」



 背後から聞こえた声が突然女性のものに変わった。そして、その声は一番聞き慣れたもので、一番聞きたかったもの。


 亮は上半身を捻って振り返った。


 樹が持っていたはずのハンドルを握っていたのは、ひまりだった。亮が別れを告げたあの日から、彼女は一度も病室に現れなかった。もう、関係は終わったと思っていた。



 「全国行ったら、私と付き合ってくれるって、そう言ってくれたよね。亮はまだ約束破ってないから」


 「でも、この足じゃ……」


 「選手だけが戦うわけやない。サッカー部全員で戦うの。私たちマネージャーも、応援に来てくれる人たちも、みんな戦ってる。亮だってまだ戦えるはず」


 「怒ってないんか? あんなこと言ったのに」



 恐る恐る訊ねたその質問に、ひまりの表情は曇った。怒りと悲しみ、その両方が彼女を襲った。そのときは苦しかった。しかし、ひまりは自分の気持ちに正直になって気づいたことがあった。



 「私はサッカーをする亮が大好きやった。けど、サッカーをしてたから亮を好きになったわけやないよ。私は亮が好き。私が好きな亮なら、最後まで諦めない。だから、私はそんな亮を支えたい」


 「なんやねん、それ。もう告白してるやん」



 樹の指摘で頬を赤らめるひまり。樹は亮の膝にあった退部届をそっと手に取った。そして、それを握ってポケットに入れた。


 やっと笑えた亮は、自然に流れる涙を抑えることができなかった。この涙は悲しみから来たものではない。苦悩を洗い流し、前に進むためのエール。ひまりは後ろから亮を包むように彼に両手を回した。部員たちは決意を胸にその姿を見て拍手を贈り、窓を開けて校舎から様子を見ていた生徒たちからも励ましの歓声が敷地内にとどろいた。


 謎の男が病室に現れて、自分のこれからがどうでもよくなっていた亮は報復を依頼した。契約には決して他言はしないという条項があったので、誰にも話すつもりはない。轢き逃げをした犯人は今頃どうなっているだろうか。然るべき罰を受けていてほしいが、結果を知りたいとは思わない。負の心を捨てて、愛する人とここにいる仲間と一緒に、最高の学校生活を送ることができそうだから。

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