世の清掃

 ティーチはしばらくして目を覚ました。どうして俺はこんな場所で寝ていたんだ。苛つきを収めた後に思い出したのは、あの仮面の男だった。これまで半グレを束ね、力ですべてをねじ伏せてきた。それが女でも老人でも、動物でも例外はなかった。この力を前に相手が誰であっても彼に屈した。しかし、突然現れたあの男は圧倒的な力でそんな男を失墜させた。


 周囲を見回したが仮面の男も人質にとった女もいない。気を失ってからどれだけの時間眠っていたのかもわからない。右手首には手錠がかかっていて、それを雨樋に繋げられていた。力を込めて破壊しようとしても、手首に鉄が食い込んで痛みが走るだけ。



 「ふざけんな!」



 どれだけ叫んでも手錠は壊れない。こんな路地を通る人間はいないし、ティーチが助けを求めたところで厄介ごとに巻き込まれたくないと避けられるだけだ。


 あの日のことを思い出した。あれは交通事故だった。よそ見をして車道から少し軌道が外れたところにガキどもがいただけで、俺は何も悪くない。そう、あんな場所にぼーっと立っていたあいつらが悪いんだ。


 ティーチは舌打ちをして雨樋を蹴った。それでも、その雨樋はびくともしなかった。持っていたナイフは地面に転がっているが、拘束されている状態では手を伸ばしても届く距離にない。苛立ちがさらに募っていく。



 「惨めに足掻くな。最後くらい潔くあってほしいものだ」



 暗闇の中こつこつと革靴が地面を打つ音と共にスーツ姿の男が現れた。それは先ほどまで追ってきた男とはまた違う誰か。落ち着きというべきか、はたまた冷徹か。その人物の周りだけ空気が凍っているようだった。



 「なんなんや、お前ら……」



 動揺が混ざった声は僅かに震えた。こんなに情けない声を出したことは人生で一度もなかった。



 「貴様のようなゴミクズにでも名乗らないのは失礼にあたるか。我々はアッシュディーラー、清掃業者のようなものだ。そして、日々を真面目に生きた高校生の人生を壊し、将来有望な青年を地獄に落としたゴミを処理するためにやってきた」



 淡々と語るスーツの男は白い左目でティーチを見つめた。決して睨んでいるわけではないのに、まるで鋭い刃物を眼前に向けられているような威圧感があった。ひと突きですべてを奪い去る鋭利な視線にティーチは思わず唾を飲んだ。



 「知るかよ。あんな場所で突っ立ってる方が悪いんやろ。運が悪かったんや」


 「そうだな。あの場所に彼らがいなければ、お前のようなクズから被害を受けることもなかった。本当に運が悪いことだ。そして、それは貴様も同じだ」



 スーツの男は冷たい笑みを浮かべると、ティーチに近づいて腹を蹴った。突然の攻撃に膝を折った彼の顔面をさらに蹴った。ティーチは負けじと男を睨め上げて威嚇した。そのときに見た男の顔からは笑みが消え、その表情は背筋が凍りそうなほどに無だった。



 「誰に喧嘩売ってんのかわかってんのか? お前くらい一瞬で殺せるんやぞ」


 「ほう、やってみるがいい。楽しみだ」



 そう言って男はさらにティーチの顔を蹴る。何度も何度も、ティーチが動かなくなるまで、そして最後にぐったりと垂れた頭を踏みつけた。骨がコンクリートとぶつかる音が虚しく壁に跳ね返った。一度大きく深呼吸をした男は足元に視線を落とす。



 「おっと、失敬。気づかなかった。だが、こんな場所にいたお前が悪い。だったよな?」



 すでに意識を絶った彼は何も反応することなく、力なくただ頭を垂れていた。まだ息はあるが、それはすでに虫の息。手錠に吊られた右手を高く上げ、肩は不自然な角度に曲がり、身体は伏している。


 何度も蹴られた顔は腫れ、時間が経てば紫に変色するが、それはゴミがゴミらしく汚れるだけだ。どんな見た目であれ、もう心配することはない。この世から処分されてしまえば誰も一度捨てたゴミのことなど思い出さない。



 「やっと無機質なゴミらしくなったじゃないか。さて、回収しよう」



 暗闇からふたりの男が現れた。彼らも同じくスーツ姿であるが、素顔を晒しておらず、ひとりは白、もうひとりは黒の仮面を被っている。彼らは持っていた鍵で手錠を外し、鉛のように重くなった身体を引きずって歩く。これで依頼は完了、アッシュディーラーとしての任務は終わり。ティーチを連れたふたりは暗闇に消えた。


 依頼人の青年の願いは届いた。あとは我々との契約を守りさえすれば、彼はこれから先の人生を再び前に歩くことができる。本来であれば対価をいただくところだが、何よりも大切な脚を失った今、これ以上何を奪えると言うか。


 やはり、彼の仕事ぶりは賞賛に値する。相波湊、まだまだ働いてもらわねばならない。いずれ真実を知るそのときまでは。


 空を見上げると綺麗な星空が広がっていた。暗闇にいるからこそ見える小さな光がある。こんな綺麗な空を眺めながら飲む酒は格別だろう。できることなら隆治の店で一杯あおりたいものだが、きっと店主に追い出されるだろう。



 「おとなしく帰りましょうか」



 虚しくため息をついた男はティーチが消えた暗闇へと歩みを進めた。これからゴミを処分しなければならない。


 そして、この世は綺麗になっていく。

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