正義の仮面
「いいか! 動くなよ!」
ティーチは人質にとった宇海を強引に連れ去った。首に回された腕に力が入り、宇海は満足に呼吸ができないまま走らされた。
苦しい。
足がもつれながらも宇海はなんとか走り続けた。立ち止まればその場で殺される。
「叫んだら殺すからな」
首が締まった状態では呼吸をするのがやっとで、叫びどころか小さな声すら出せそうにない。つい数分前まで優雅に散歩をしていたはずなのに、どうして命の危機に瀕しているのだろう。コーヒーなど買わずにまっすぐ家に帰ればよかった。そんな後悔を今更しても何も変わらない。
しばらく走った先で路地に入り、ティーチは入念に人がいないことを確認した。腕の力が弱まったと同時に宇海はこの状況から逃れようと走り出すも、すぐに服を掴まれて再び捕まってしまった。
「助けて!」
首が解放されたことでようやく出た声も誰かの耳に止まることはなかった。周囲には誰もいない。目に映るものはすべてが闇だった。
ティーチは宇海の背中を突き飛ばし、その勢いで彼女は額を壁にぶつけて地面に倒れた。視界がぼやけ、顔を暖かいものが駆け下りる感覚があった。そっと顔に触れると手に黒いものがべったりとついた。
もう駄目だ。私はここで殺される。
ティーチは宇海の視線の高さに合わせるために顔を覗かせて笑った。悪を悪と思わない卑劣で冷たい笑み。路地に迷い込む僅かな光が手に持った刃物に反射して鈍く光る。
「お前のおかげで逃げ切れたわ。お礼にここで殺したる」
最後に見るのがこんなやつの笑顔だなんて、最悪の幕切れだ。宇海はゆっくりと目を閉じると、無意識のうちに涙が溢れた。
雫とショッピングに行きたかった。商品を企画したかった。家族にも会いたいし、まだまだやりたいことがたくさんある。死は思いもよらないタイミングで訪れるもの。
次に聞こえたのは、何かの衝突音と男の唸り声だった。宇海がゆっくり目を開けると、そこにはもうひとつの人影があった。それは先ほどいたスーツの男とはまた違う誰か。目を凝らすと、その人物は仮面を被っていた。左側は白、右側が黒、色が混ざり合うように変わっていく不思議なデザインのものだ。
「お前、何もんや」
「高校生を轢き逃げしたのはお前で間違いないか?」
仮面の男が穏やかな声色で訊ねた。ティーチはその男を睨みながら「ああ、そんなことあったな」と悪びれもせずに白状した。そして、こう言った。
「あいつら死んだか?」
その高校生を知らない宇海でさえ怒りが湧いた。人の命をなんだと思っているのか、と。このティーチという男にとって、他人はモノでしかない。
「そうか、お前で間違いないんだな。安心しろ、殺しはしない。俺はな」
仮面の男は警棒を伸ばして、ゆっくりとティーチとの距離を縮めていく。その姿は悪を成敗する正義の使者のようだった。まるでアニメや映画のように、彼はティーチが振り回すナイフを警棒で弾いて、その刃物を折ってしまった。
ティーチは柄だけになったナイフを投げ捨てて拳を握った。大きく振り抜いた拳は空を切る。素人が見てもふたりの間には明らかな実力差があった。
警棒がティーチの腹部に突き刺さると、返す刀で首元を殴打した。糸が切れた人形になったタトゥーの男は後頭部を壁にぶつけて倒れた。
「罪を償う必要はない。それ以上の地獄を見てこい」
仮面の男はティーチの両手首と雨樋を手錠で繋げて逃げ出せないように拘束し、宇海を見た。
この様子を見られた口封じのために殺されるのではないか。宇海の脳裏を大きな恐怖が襲う。だが、逃げようにも足に力が入らない。
「お願い、やめて……」
近づく男から逃れるように身体を倒すと、それに追いつくように仮面の男は宇海の額に手を伸ばした。
「動かないで。ハンカチ持ってる?」
「え? えっと……」
男は宇海の視線を追って彼女のバッグに手を差し込みハンカチを探ると、そっとそれを額に当てた。
「押さえて。しばらくすれば血は止まるけど、頭を打ったなら病院に行った方がいい」
「は、はい。ありがとうございます」
タトゥーの男も怖かったが、仮面の男も同じほどに恐ろしい。そのはずなのに、目の前にいる彼からは温かみを感じる。そして、彼の声をどこかで聞いたことがあるような気がした。微かな醤油のような香りも宇海を安心させた要因のひとつだ。
「ここで見たことは忘れて。誰にも言わないように」
仮面の彼はそう言い残してその場を去った。暗い路地で気絶したティーチとふたりで残された宇海はなんとか命が助かったことを実感した。気持ちが落ち着くと足に力が入るようになり、立ち上がることができた。
警察に通報すべきだろうか。宇海はスマホをバッグから取り出したが、仮面の男に言われたことを脳内で復唱した。
ここで見たことは忘れて。
この事件に関わるな、という脅迫のようだが、彼は出血した宇海を手当てしてくれた。それに、結果的に命を救われた。
ならば、彼の言う通りにしておくべきかもしれない。
宇海はハンカチで額を押さえて、覚束ない足取りで路地を抜け出した。ただの何気ない街灯が希望の光に映る。
そうだ、病院に行くように言われたんだっけ。
宇海の脳内は仮面の彼の言葉で満たされた。
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