悪運

 宇海が京都支店の商品企画部に異動してから一週間が経過した。まだまだ覚えるべきことはたくさんあるが、毎日の基本的な業務はひとりでこなせるようになってきた。リーダーの渚をはじめ、他の社員たちもいい人ばかりで働きやすい環境であることに安心した。


 一日でも早く部署の一員として貢献できるようになることが目標だ。



 「広幡さん、ちょっといい?」



 斜め向かいの席から話しかけられて見ると、雫が席を立った。デスクでは他の社員が仕事をしているため、場所を移して話したいことがあるのかもしれない。彼女はこの部署では宇海に次いで若く、ようやく後輩ができたことを喜んでくれているようだった。仕事中でも教育係としていろいろ教えてくれる人だ。そして何より、容姿は幼くて可愛いのに仕事をテキパキとこなす姿に憧れを持った。


 宇海は雫を追って席を外すと、オフィスを出て自動販売機のある休憩スペースまで歩いた。


 雫は「どれがいい?」と訊ねて硬貨を入れると、宇海に好きなものを選んでいいとボタンを押すように言った。ちょうど何か飲みたい気分だったので、有難く炭酸飲料を選んだ。



 「ありがとうございます。いただきます」


 「私も同じものにしよっと」



 雫は続けてボタンを押し、お釣りを受け取った。プルタブを開けると炭酸の弾ける音がして、ふたりは強い刺激を喉に感じながら冷たいエネルギーが流れ込む感覚を楽しんだ。



 「どう? 仕事には慣れてきた?」


 「まだまだです。わからないことだらけで」


 「まあ、そうよね。一週間で全部できたら誰も苦労しない。困ったらいつでも相談して」



 雫は渚から宇海の面倒を見るように頼まれたようだ。仕事は自分ができるだけじゃなくて、誰かに教えられるようになって一人前だと言われる。リーダーの立場として雫にその経験をさせたかったのだろう。



 「よかったら今度一緒に出かけない?」


 「お出かけですか?」


 「うん、ショッピングとか食事とか。職場の先輩とそこまで仲よくなりたくない子もいるから、無理にとは言わないけど」


 「そんなことないです。京都に来てから友達もいなくて。ぜひお願いします」



 雫は「よかった」と笑う。最近は職場の人間関係とプライベートのそれをはっきりと分けたい風潮が強い。飲み会なども参加したくない若者が増えていると聞くし、宇海もどちらかといえば最近の若者の部類に入る。



 「仕事だけじゃなくて、プライベートでも困ったことがあったら教えてほしいの。私も何かあったら相談させてほしいな。私のことは雫って呼んでくれていいよ」


 「嬉しいです。私も宇海って呼んでください」


 「じゃあ、予定はまた連絡する」


 「はい」



 宇海は雫と一緒にオフィスに戻った。ふたりの姿を見て何かを察したのか、渚は何も言わずに微笑んだ。サブリーダーの恵介は熱心に企画書を作り、口数が少ない哲也は戻ってきた宇海を一瞥してすぐにパソコンに視線を戻した。




 ──時間は進み、終業時間が訪れた。


 他の四人は定時に仕事を終えることは稀だが、まだ異動してきたばかりの宇海に任された仕事は少なく、彼女は基本的に定時で退社していた。ひとりだけ先に帰ることは申し訳なく思うが、いつもそんな考えを察してか渚は「私たちもすぐに帰るからもう上がって」と声をかけてくれる。実際彼女たちがその後すぐに仕事を終えていることはおそらくないが、宇海は言葉に甘えて先に帰らせてもらっている。


 会社を出た宇海は時間があるので、近くにあるカフェに寄ることにした。世間的に終業時間であることも相まって客は多かった。中でゆっくりできればと思ったが、残念ながら席が埋まっていたのでコーヒーを買って歩きながら外で飲むことにした。


 たまには散歩もいいものだ。しばらく歩くと次第に空は黒に塗りつぶされていき、ところどころに宝石のような光が顔を覗かせ始めた。都会の大阪よりも京都にいる方が夜空は綺麗に見える、気がする。コーヒーを飲み終え、空になった紙のカップを捨てるゴミ箱を探していると、公園の入り口にゴミ箱が見えた。本来は購入した店で捨てることが望ましいが、随分と歩いて離れてしまった。ゴミを収集する誰かに申し訳なさを感じながらカップを捨てた。


 そろそろ自分の部屋に帰ろうと歩き始めたとき、背後から誰かが走ってくる足音がした。ランニングでもしているのかと気にせずにいると、その人物は宇海の肩を掴んだ。


 驚いて振り返ると、左頬に古傷があり首にタトゥーが入った強面の男にナイフを向けられた。突然のことで身体が硬直し、悲鳴すら上げられなかった。



 「止まれ! ティーチ!」



 さらにそのティーチと呼ばれる男を追ってきたスーツ姿の男が酷く息をあげて立ち止まった。宇海は首に腕を回されて首元にナイフを向けられ、人質にされてしまった。



 「その人を解放しろ。お前はもう逃げられへん」


 「うるせえ。近づいたらこの女殺す。いいか、動いたら刺すぞ」



 タトゥーの男に拘束されたまま操り人形のように足を動かして次第に距離を空けていく。スーツの男はこちらを睨みつけたまま、それ以上動くことはなかった。


 誰か、助けて。

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