コイントス
隆治は閉店後の徳之間で日本酒を嗜むことが日課だった。閉店作業を終えた湊は一足先に退勤した。隆治は数時間前まで賑わっていた店内を見渡して、今日もよく頑張ったと自らを労う。ただ、今日は普段よりも客足が悪く、売上も立たなかった。
この店を始めたのは三年前、当時はこの仕事だけで食っていけるとは到底思えなかった。収入源は他にもあるが、それは表には出せないものだ。それでも、稼がないと生きていけない世の中で、なんとかもがいて生きてきた。
それが今となっては、店先に行列ができるほどの名店と評されるまでになった。非常に光栄で有り難いことだが、これがいつまで続くかはわからない。もうひとつの仕事もいつかは終わりが来る。いや、むしろ終わりが来る日を心待ちにしている。そのときは、もうこの世に思い残すことはない。
「そろそろ時間か。もっと早くできないもんかね」
隆治は日本酒の瓶をカウンターの奥に戻すと、従業員以外立ち入ることができない店舗の奥の通路からさらに奥の扉の前に立った。ここから先は湊ですら入ることはない。引き戸を開けると、その先は真っ暗闇で何も見ない空間が広がる。明かりがなくとも何度も入ったこの部屋の中で何がどこにあるかは熟知している。パソコンの電源を入れると、スクリーンが光を放って小部屋を照らした。
パソコンが起動するとひとつだけデスクトップに表示されるアプリをダブルクリックした。画面が真っ黒に変わり、記号やアルファベットが画面いっぱいに広がる。コンピュータ言語というものらしいが、隆治には到底理解できないものだ。外部に情報が漏れないように何重にもセキュリティがかかっているという。
それから三十秒ほどでアプリが開き、画面に男の姿が映し出された。スーツ姿の中年の男で、グレーの髪、左目が白く義眼を入れているように見える。対照的に右目は真っ黒だ。
「お待ちしていました」
「待ってたんはこっちや」
時間を指定してくるのはいつも向こうだ。隆治はその前に酒を嗜んでほろ酔いになってから顔を出す。
「気分がよさそうですね」
「酒でも飲まんとやってられん」
「いつかご一緒しましょう」
「断る」
「それは残念です。楽しい時間を過ごせると思うのですがね」
隆治もこの男がどこの誰かを知らされていない。仕事上での付き合いはあるが、親しくなるにはリスクが大きい。仕事の内容が危険なものだから。
「で、どんな仕事や?」
「男をひとり拘束していただきたい。ターゲットはある半グレ集団のティーチと呼ばれる男です」
「そいつは何をしたんや?」
「未来ある高校生を車で轢いて救護せずに逃げました。サッカー部に所属する被害者は将来プロになれるほどの才能を持っていますが、今回の事故でその望みはほぼ潰えました。ティーチが乗っていたのは盗難車でナンバープレートも偽造。警察は捜査を続けていますが、犯人に辿り着く可能性は低い」
轢き逃げへの報復。警察が動いているとなれば、いつも以上にリスクが大きい。
被害者、もとい依頼者についての情報は基本的に教えられない。必要以上に感情移入することは仕事の妨げになる上に、個人的に同情して依頼者に関わることは許されていない。
「報酬は五十。いかがですか?」
「安ないか?」
「彼なら朝飯前の仕事でしょう。五十でも色をつけた方です」
アッシュディーラーは舞い込んだ依頼を成功率の高い執行人に仲介する。有り難いことに隆治の依頼成功率は高く、彼らから評価されている。その分仕事が舞い込む頻度が高い。
彼らは依頼者から報復に対する対価を受け取るのだが、高校生が五十万円を簡単に出せるとは考え難い。親が金持ちならあり得なくはないが、そもそもそれほど裕福な家庭が法に触れそうなことに手を出すだろうか。
「なんで拘束なんや? 警察に引き渡した方が早いやろ?」
「事情があるのです。そして、それはあなたに関係のないことです」
「まあええ。その仕事、受ける」
「助かります。早急に動いてください。警察に先を越されると厄介です。詳細は追って伝えます」
男がオンラインのビデオ通話を終えると、画面は真っ暗になった。その光によって色を持った空間は再び黒に塗り潰された。
警察が犯人に辿り着く可能性は低いと言ったにも関わらず、急いで実行するようにと彼は焦りを見せた。ただ拘束をするだけでその後、ティーチという犯人がどうなるのかはわからない。
隆治は考えることをやめた。与えられた仕事を遂行するだけで報酬は手に入るのだ。ターゲットの行く末に興味はない。何より、他人を不幸にした人間がどうなろうと知ったことではない。
隆治はスマホで一通のメッセージを送信した。その相手は湊。依頼が終了するまで、彼は徳之間にいる時間が減る。湊は徳之間での仕事を表、アッシュディーラーの執行人の仕事を裏と表現する。表か裏、いつでもコインはどちらかの面しか顔を見せない。
さあ、裏の仕事の始まりだ。
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