裏の世界
午後十時を回り、客は誰もいなくなった。平日ということもあり、明日に仕事を控えている会社員は飲み会を早めに切り上げたようだ。
新人の歓迎会としてやってきた渚や宇海のグループも満足して帰った。とはいえ、本当に楽しんだのは渚を含めた先輩たちで、新人の宇海は気を遣って疲れていたように見えた。だが、渚が上司としても人間としても信頼されていることを湊と隆治は知っている。
湊は食事が終わったテーブルの片付けをしながら隆治に話しかけた。
「あの新人さんも常連になってくれたらええな」
「好みのタイプか?」
「売り上げ増えたら俺の給料も増える」
「それを決めるのは俺や」
今日はもう客が来ないかもしれない。普段であれば平日でも日付が変わる時間あたりまで客がいないことはないが、珍しく客足が少ない日だった。暇なら暇で業務があるので、こういうときは客がいるときにできない掃除や備品の管理を行う好機だ。
と、思った瞬間に扉が開いた。
「やってますよね?」
顔を覗かせたのはスーツ姿で強面の男だった。その後ろから華奢な女も覗き込むように顔を出す。大変な一日だったのか、彼らの表情に元気がないように見える。
「やってるよ」
「この時間に客がいないなんて珍しいですね」
入ってきたふたりは店内の珍しい光景を見渡しながら向かい合ってテーブルに着いた。彼らは京都府警の刑事で、檜山光輝と鴻池志穂。あることがきっかけで徳之間の常連になったのだが、隆治と光輝の出会いは決していいものではなかった。
「私は親子丼で」
「俺も同じので」
志穂の注文に被せるように光輝も同じものを頼むと、湊が手際よく冷蔵庫から鶏肉と玉ねぎを取って鍋に火をかけた。出汁に特製の醤油だれを加えて具材を煮込む。
客が少ないとき、焼き鳥以外の注文は湊が調理することが多い。具材は隆治が切ってあるし、出汁と特製の醤油だれも事前に準備されているので、誰が調理しても大きく味が変わることはない。しかし、火力や火にかける時間を守らないと鶏肉の硬さや卵の加減に差が出るため、湊にしか出せない特製の親子丼が完成する。
「なんや、飯食ってないんか? 忙しかったんやな」
隆治が冷たいお茶をグラスに注いでテーブルに置くと、志穂が勢いよく飲んで愚痴を吐いた。
「いろいろ重なって、くたくたですよ」
「そりゃお疲れさん。こっちは見ての通りやから、ゆっくりしていけや」
「じゃあ串もください! ももと皮を塩で」
隆治が志穂の注文に腰を上げると、光輝も負けずに「じゃあ俺も」と再び志穂の注文に重ねた。志穂は「真似しないでください」と先輩刑事に噛み付いたが、光輝は考えることすら面倒そうに彼女の鋭い指摘を受け流した。
調理場では湊が冷蔵庫から注文のあったももと皮を二本ずつ取り出して、焼き台のそばに置いた。この徳之間は開店から毎日ふたりでやってきた。湊と隆治の間にある信頼はすでに雇い主と従業員の域を超えている。
湊は慣れた手つきで卵を鍋に流し込んで、次第に火が通る様子を確認しながら火を止める最良のタイミングを見計らった。ご飯はすでに丼に盛られており、具材をその上に載せると完成する。湯気が立つ丼をふたつ持って、湊はふたりのテーブルにそれらを置いた。
「お待たせ、親子ふたつね」
「うわー、おいしそう!」
志穂はテーブルの端に置かれた箱から箸を奪い取って、勢いよく親子丼を空きっ腹にかき込んだ。光輝はそんな彼女の豪快な食べっぷりを見てから、ゆっくりと食事を始めた。ふたりの食事のスタイルは容姿とギャップがあり、正反対だ。
「相波くんの親子は世界一おいしいよ」
「どうも」
志穂は湊が作る親子丼が大好物で、来店すれば必ず注文する。光輝はそのときの気分で変えるが、ほとんどは事件以外のことを考えたくないのか志穂が注文したものと「同じで」としか言わない。この徳之間は隆治のこだわりが強くハズレのメニューがないので、提供される料理は必ずおいしい。
「ほれ、串上がったぞ」
隆治は注文を受けたももと皮を塩で味付けした焼き鳥をテーブルに置き、再び椅子に腰掛けた。志穂はいつも食事のペースが早いが、今回は普段に増して減りが早い。刑事をしているといつ食事が摂れるかわからないので、歴が長いほどに食事の時間は短くなるらしい。光輝は落ち着いて食べられるときは、あえてゆっくり食事をするようにしている。人間らしい生き方をしたいのだと言う。
こういうときに限って電話が鳴るのも刑事の宿命らしい。光輝は明らかに不快な表情を見せて電話に出た。
「ったくもう、なんでいつもこのタイミングなんや」
光輝は文句を言いながら丼を持ち上げて残りの親子丼を口にかき込んだ。楽しみに置いてあった串も大きな口を開けてすぐに完食すると、ふたり分の会計を済ませて席を立つ。
「事件か?」
「ええ、また来ます」
「おいしかった。ご馳走様でした」
大小コンビは店を慌ただしく駆け出して、徳之間は静寂に包まれた。隆治が扉を開けて外に顔を出したが、すでにふたりの姿はなかった。
「刑事は大変やな」
遠くにパトカーの音を聞きながら、人通りがなくなった闇の世界をぼんやりと見つめて欠伸をした。
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