表の世界
京都のとある場所に存在する焼き鳥屋『徳之間』は、連日賑わう。仕事帰りの会社員や大学生のグループにも人気の名店。営業時間は午後六時から日付が変わって午前二時まで、予約は一切受け付けず、席が空いていなければ諦めるか、順番を待つかの二択のみ。開店前にはすでに客が訪れ、玄関前には列ができる。
時計は午後五時五十八分を指した。
紺色の鉢巻を頭に巻くのが隆治のスタイルで、強く締めた鉢巻は彼の心のスイッチを入れる。
四十歳になり、白髪が目立つようになってきた。これまでは白髪染めで黒に染めて若く見せようとしていたのだが、もうそんなこともどうでもよくなってきた。あいつがありのままでいいんじゃないか、と言うものだから、その言葉に妙に納得したのだ。
普段は二名で店を回すのだが、今日はもうひとりの従業員が遅れてやってくる。彼のもうひとつの仕事は不定期にあり、そのときは隆治がひとりで店を回すしかない。
「そろそろ開けるか」
扉を開けると五名の客が待っていた。隆治は暖簾を掛けてそのグループを店内に招き入れる。
「私たちが一番乗りみたいね」
スタイルのいい女性が先頭を切って空いているテーブルに着いた。彼女たちは常連であり、かれこれ数年通い続けてくれている。
「いらっしゃい。いつもより人数が多いな。何かあったんか?」
隆治と彼女たちの関係は店主と客だが、すでにそんな垣根は飛び越えた仲になっていた。グループをまとめる立場の彼女は犬養渚といい、部署のリーダーだ。全員が揃って来店することは珍しい上に、彼女の部署は確か四人だったはずだ。
「新しい仲間が入ったのよ。広幡宇海ちゃん。だから今日は歓迎会」
渚の視線の先で若い女性が隆治に頭を下げた。
あいつと同年代だろうか。表の世界で真っ当に生きてきたまっすぐな眼差しをした女性。かつての彼女も、こんな風に笑っていた。どれだけ時間が経とうとも、忘れることはない。
「そりゃめでたいな。なら、一杯目は俺の奢りや」
「さすが大将」
この店が愛されるのは、隆治の確かな腕と客の気持ちに寄り添う性格が理由だった。それに加えて、女性人気が高い理由が他にあるのだが、今はその人物はいない。
珍しく開店しても渚のグループ以外は来店がなかった。この時間はひとりで接客から調理まで担当する必要があるので、むしろその方が有難い。
ビールをサービスして、隆治は焼き鳥の注文を受けて準備していた串を焼き台に並べた。その日の天候や気温で火力と焼き時間を変える。それらは隆治が経験から導いた直感で決まる。だから、焼き鳥だけは必ず隆治が担当する。誰かに理論付けて説明しようとしても、彼自身が言語化することはできなかった。
その後、数組の客が入って店内は賑やかになった。商売は大きくしたくないとのこだわりがあって、徳之間は広くない。そのため、外で待つ客が増えて、それを見た人たちの間で「常に行列ができる店」として噂が広がった。その結果、今の人気を獲得したわけだが、隆治はそれ以上何も望まなかった。
午後八時、渚たちはまだ陽気に飲み続けていた。隆治は調理の間でさえ客をよく観察する。わずかな変化をも見逃さないように。
「お待たせ」
店の裏から青年が紺色のTシャツを着て、下半身にエプロンを巻きながら颯爽とカウンターに現れた。彼がもうひとりの従業員、
焼き鳥を調理する隆治が横目で湊を見て訊ねた。
「仕事は片付いたか?」
「問題なし」
「そうか」
湊は笑顔に切り替えてカウンターを飛び出すと、真っ先に渚のテーブルに向かった。隆治と同じく、常連である渚と湊はよく会話をする仲だった。
「渚さん、いらっしゃい」
「あれ、相波くん、遅刻?」
「ちょっと用事あってな」
「そうだ、紹介しておく。私のチームに新しい仲間が入ったの。広幡宇海ちゃん、相波くんと同い歳じゃないかな」
湊が宇海を見ると、彼女は微笑んで頭を下げた。
「相波くんはこのお店の看板息子で、女性人気がすごいのよ」
「そんな言葉聞いたことないけど、光栄です」
湊は笑って宇海に「よろしく」と挨拶をした。湊は他のテーブルを見て回ったが、他に常連の姿はなかった。どうやら今日は一見の客がほとんどらしい。
「湊、焼き鳥あがった。運んでくれ」
「あいよ」
渚たちに「ごゆっくり」と挨拶をした湊はカウンターから焼き上がった焼き鳥の皿を持って他のテーブルに運んだ。
賑やかな店内、明るい照明、客の楽しそうな顔。すべてがこの世の表を映す鏡。一歩外に出れば、暗闇があるというのに、彼らはそんなものが存在しないかのように毎日を生きる。
この生涯をそのまま歩み続けられればどれだけ幸せなことか。
しかし、この世には存在する。光の裏に影があるように、コインに表と裏があるように、明るい光があれば暗い闇が存在する。
そして、その狭間の白でも黒でもない世界に生きる人間が。
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