私の嫌いな男

オークラ

私の嫌いな男

「ぅあー、やっと解放されたあ」


 そう言って、私の隣を歩く小田は大きく伸びをした。ぐん、と上に伸ばした腕とともに、ブレザーの裾も伸び上がる。制服のズボンに通したベルトがちらりと見えてふと、腰の位置高いな、と思った。そしてそう思ったことを悟られないように、私は固く口を引き結んだ。


 中間考査最終日、放課後。付き合ってもうすぐ二週間になる小田と一緒に帰ることは日常になりつつあるが、私の元来の性格からか素直な表情を見せることにはまだなんとなく躊躇いを感じてしまう。「かわいいのは見た目だけ」陰でそんな風に噂されている私に告白してきたのだ、素直じゃないことぐらい覚悟の上だろう。そう考えるのはさすがに高飛車がすぎるだろうか。しかし今のところ、そんな私に小田が気を悪くする様子はない。にぎやかで軽い男に見えるけれど、根が寛大なのだろう。


「てかさ、化学難しすぎん?全然わかんなかったんだけど」


 鞄を持ち直した小田は、ぱっとこちらを向いてしゃべりだした。眉根を寄せ、唇をとがらせている。私のと違って、小田の表情筋は忙しい。


 私に向かって話すとき、小田は絶対に目を合わせてこようとする。長い睫毛に縁どられたその奥二重の瞳から、私はいつも視線を逸らす。ひとたび小田の澄んだ瞳を見つめれば、交わった視線を通して、私の気持ちがありのままに伝わってしまう気がして。目を合わせないまま、私は答える。


「…別に、私はそうでもなかったけど。あんたがバカなだけじゃないの」

「まじかよ。あれ解けるとかお前の頭どうなってんだ」

「なんなのその言い方」

「悪ぃ悪ぃ、褒めてるんだって」


 ワックスで軽く整えられた黒髪をがしがしと掻きまわしている。私が侮辱するようなことを言ったって、些細なことに突っかかったって、小田はいつも平然としている。それどころか、すぐに下手に出て私の機嫌をとろうとしてくるのだ。さすがに私だって、それに対して何も感じないほど驕った性格ではない。


 だけど私は、困ったように笑う小田がひどく優しい目をしていることを知っている。小田は、こんな態度も含めて私に好意を寄せているのだと、自惚れてもいいのならそう感じてしまう。何度だってそのことを確認したくて、その瞳に見つめられたくて、私はどうしてもこんな対応をやめることができないのだ。


 機嫌を損ねたフリをして私は足を速める。ふたりで並んで歩くときはいつも、小田が小柄な私の歩幅に合わせて歩いてくれていると知っているけれど、それでも私は小田を容赦なく置いていく。


「ごめんって」


 懲りずにそんなことをできるのは、小田がすぐに追いかけてくるとわかっているからだ。あっという間に追いついて隣で揺れた鞄には、男子高校生の所有物にしてはいささか可愛すぎる、水色のウサギのキーホルダーがついている。同じような白いウサギのキーホルダーは、私の鞄にもぶらさがっている。ウサギが好きなのは小田ではなく私だったはずで、それなのに私と一緒になってわざわざ似合わないものを鞄につけている、そんなところにすら小田の性格が見え隠れしている。


 なおも顔を向けずにいると、小田は私の態度なんて気にならないかのように話を続けた。


「なんつーか、おまえ…拗ねるとかわいい顔するからさ、つい揶揄いたくなるっつーか」


 カッと顔に熱が集まる。小田はすぐそういうことを言う。微塵の躊躇いもなく。少しは言われるこっちの身にもなってくれ。理不尽な怒りを覚えながら、私はさらに歩く速度を速めて言う。


「拗ねてない」

「あーじゃあそれもごめん!」

「じゃあってなんなの」

「悪かったって」

「謝ってほしいなんて思ってない」

「…うえぇ~?じゃあもう、どうしたらいいんだよ」


 弱りきったようにそう言って、私の顔を覗き込んでくる。そこで私が足を止め顔を向けると、小田は急に視線が合ったことに驚いたのか目を丸くした。その様子をひとつずつ目で追いながら、私は口をひらく。


「…冗談。どうもしなくていい」


 それから、ゆっくりと微笑んでみせた。周囲の人々に羨ましがられる顔のパーツが最大限、緩く、やわらかく弧を描くように意識しながら。気が強くて、わがままで、そんな私の魅力なんて親から譲り受けたこの外見しかないから、それを使って少しでも愛らしいと思ってもらえるように。すると小田は私の望む通りの反応を見せる。丸くした目をさらに大きく見開いて、眉を軽く八の字に下げて、日に焼けた頬を薄く染めて。


 その表情が何よりも私を満たすから、私はずっと小田のことを「嫌い」でいる。我ながら面倒くさい性格のせいで、いつだってそういう風に振る舞うことを選択してしまうのだ。


 小田がおずおずと腕を伸ばし、私の肩に触れた。そのままぐっと抱き寄せられる。身長がニ十センチ以上違うので、私の体は小田の腕の中にすっぽりと収められてしまう。背中に腕を回すべきか、少し考えて、やっぱり自分の鞄の持ち手を握りしめておくことにした。


「こんな簡単に捕まっちゃっていいの」


 頭の上から小田の声が聞こえる。心なしか、口調がいつもより弱々しいような気がした。続けてため息がひとつ降ってくる。


「心配だなぁおまえ。普段つれないのに変なとこ隙だらけで」

「……わ、私、空手黒帯だから大丈夫だし」

「ははっ、なんだそれ。どーゆー意地の張り方なの」


 肩口に小田が顔を寄せてくる。首が熱いのは小田の体温を感じているからだろうか。耳元で小田が囁いた。


「…やっぱおまえ、笑ってるときがいちばんかわいい」


 ほら、そんなセリフをまた、恥ずかしげもなく口にして。すでにいっぱいいっぱいになっている私をよそに、小田は少し声を落として、内緒話でもするように続ける。


「…今日さ、俺んち来ねえ?……親、留守にしてんだけど」


 目に入った小田の首筋が赤くなっていた。言われたことの意味を理解して、心臓がさらに鼓動を速める。さんざん女慣れした言葉を吐いておきながら、こんなときだけはにかんだ様子を見せるのだから、この男は本当に始末に負えない。でも、今、私の胸がどくどくと高鳴っていることも、さっきからずっと顔が熱くて仕方がないことも、本当はこう言われる日をずっと待ち望んでいたことも、絶対に小田に知られるわけにはいかないから、私はただ無言で頷いた。


「やった」


 小さく笑って再び私と目を合わせた小田の顔には、まだ赤みが残っていた。私を包み込んでいた腕の力を緩め、小田は不意にブレザーのポケットからスマホを取り出した。「もう五時か」そう呟いて鞄にしまう際、ちらりと見えた待ち受け画面は元カノとのツーショットである。つい一か月ほど前まで付き合っていたらしい、吹奏楽部の子。「行こっか」小田はくるりと踵を返した。その鞄で揺れるキーホルダーは、元元カノからの贈り物である。


『んー、好きになっちゃいけないタイプだったんだろうね』

『すごい思わせぶりなんだけどね、あれ、たぶん全部演技なの』

『彼女のことなんかアクセサリー、ヤれたらいいくらいにしか思ってない』


 その贈り主である紀和子は、二カ月の交際の後に小田と別れたとき、電話越しにそう話していた。水色のウサギは紀和子が手芸の腕を活かして作った編みぐるみで、小田の誕生日に贈ったものだと聞いた。ちなみに、私の鞄についている白いウサギは既製品で、小田と付き合う前に雑貨店で見つけて買ったものだ。


 小学生の頃から知っている紀和子と、二週間前から付き合い始めた小田では、信頼に天と地ほどの差がある。だから紀和子が言ったことが真実なのだろうということも、小田の私に対する態度が偽物なのだろうということも、わかっている。

 だけど、ここまで来てしまったらもう、戻れない。


 人ってどうして、惹かれてはいけない人ほど魅力的に感じてしまうんだろう。そういえば最近流行りの曲にだって、どうもそんな歌詞が多い気がする。そういうもんなんだろう、きっと。そう考えた私の心はすでにどこか投げやりで。


 水色のウサギを横目で見やりながら、小田の横に並んで歩いた。


***


 小田の家に着くと、すぐに自室に案内された。「飲み物とか取ってくる」そう言って小田は出て行ったので、私は壁際のベッドの縁に腰かけて小田の部屋を観察する。本棚、勉強机、椅子、ローテーブル。その他にはあまり物のない片付いた部屋だ。机の上には教科書が立ててあり、椅子の背もたれには、部活がらみのものだろうか、大きめの巾着袋のようなものが引っかけてある。本棚に並ぶのは何冊かの参考書と、週刊少年誌。ベッドのヘッドボードには小型のライトと目覚まし時計と――見覚えのある、小さな熊の編みぐるみ。青くて細い毛糸でできたそれにはほつれも汚れもなく、片付いた部屋にごく自然に溶け込んでいた。


 脇に置いていた鞄からスマホを取り出す。少しでもコンパクトになるようにとカバーを外してカメラアプリをひらき、録画を開始した。レンズがベッドのほうに向くように目覚まし時計に立てかけ、スマホが編みぐるみの陰になるように位置を調整する。何か置いてあるのははっきりとわかってしまうが、注意して見なければ気が付かないだろう。準備を終えた私は、ベッドの縁に座り直して小田が帰ってくるのを待った。


 がちゃりと音がして部屋のドアがあいた。「お待たせ」入ってきた小田が飲み物とお菓子ののったトレイを、ローテーブルの上に置く。それから私のほうにやって来て、同じようにベッドの縁に腰かけた。


「なに見てたん」

「別に、何も」

「そっか」


 いつものように小田が話を続けないので会話が止まる。珍しいと思って横を向くと、ちょうど小田も伏し目がちにこちらを見やったところで、ぱちりと視線が交わった。小田がおもむろに薄い唇をひらく。


「なぁ。ここ、何する場所かわかってる?」

「ここ?」

「今おまえが、座ってるとこ」


 小田がベッドについた片手を軽く動かすと、シーツが擦れて音をたてる。それから小田はずい、と体ごと、私のほうに座る場所を寄せてきた。突然縮まった距離にどきりとした次の瞬間に、片手で肩を引き寄せられる。そっと耳元に顔を近づけた小田は、私が今まで聞いた中でいちばん甘くて優しい声を囁いた。


「ほんとに大丈夫なの。こんなに無防備で」

「……」

「…襲われちゃっても知らねーよ?」

「……熊を」

「ん?」

「あそこにある熊を、見てた」


 ヘッドボードの編みぐるみを指さすと、小田もそちらに目を向けた。


「あれ、誰にもらったの」

「あぁ、あれ?親戚から、ちっちゃいときに。子どもっぽいのはわかってるんだけど、捨てるに捨てられなくて」


 嘘だ。小さいときにもらった編みぐるみが、あんなにきれいな状態で今まで残っているはずがない。


 変かな?そう言って小首を傾げてみせた小田と目を合わせた。ゆっくりと目を細め、口角を上げてみる。小田も私に倣うように優しく微笑んだ。その黒い目を自分の目に縫い留めたまま、私は口をひらいた。


「鳴瀬紀和子にもらったんでしょう?」


 もともと静寂の広がっていた部屋が、静まり返った。部屋の中にあった何もかもが、いっせいに動きを止めたかのようだった。目覚まし時計の秒針の音だけがやけに大きく響いて聞こえる。小田は動かなかった。顔の筋肉のひとつすら動かさなかった。


「…あー、そうだっけ?」


 微笑んだ顔のまま口をひらき、また閉じる。それからふいと目をそらし、天井を仰ぎ見るようにしながらがしがしと頭を掻いた。それは典型的な男子高校生のがさつな動作だ。多くの人の中にある「小田」の動作。


「誰にもらったとか、正直覚えてないや」

「……」

「気にする系?元カノとか。あーでも見るからにお嬢様だもんな、おまえ。そのへん潔癖ってか、地雷だった?」

「責任とか、感じてないの?」

「何に?あれを捨ててないことに?」

「違う、紀和子に」

「紀和子…ああ、あのそばかすのやつか。思い出した」


 わかっていた。こいつが最低な男だってことくらい、紀和子よりもずっと。小田と付き合った女子がことごとく酷い目にあっているという噂は、以前からまことしやかに流れていて。こちらを向かない小田の目を横から真っすぐに見据えて、私は言った。


「紀和子、学校来てないの。もう三カ月も」

「……」

「あんたと別れてからよ。本人は何があったかなんて話そうとしないけど」

「……」

「責任、感じないの?」


 小田は微動だにしなかった。宙を見つめるその顔は怖いくらい無表情だ。私も身動きせずにただ返答を待った。この沈黙が小田に少しでも圧力を感じさせていればいいと思いながら。


 「小田くんと付き合うことになったの」紀和子がそう告げたあの日に、止めておけばよかった。そう何度も後悔し、自分に責任を感じているのは他でもない私だ。紀和子をあんな風にした小田がろくでもないやつだということはわかっている。それでも、今の紀和子の様子を知ったなら少しでも心を痛めてはくれないかと、そうして小田が行いを改めることが紀和子にとって救いにならないかと、藁にも縋る思いで私は思ったのだ。


 小田の首が九十度回り、顔がこちらを向いた。そして無表情だった顔はぐにゃりとゆがみ、薄い笑みに形を変えた。


「あーそっか。『そういうの』気にする系か」


 目じりを下げて、口角を上げて。今日の放課後「一緒に帰ろ」と私に声をかけたときと同じ、優しい微笑みを浮かべて小田は続ける。


「紀和子と仲良かったんだ。知らなかった。優しいのな」

「…ねえ、聞いてるんだけど」

「責任?どうだろう。うん、ちょっとは感じてる。心配だよな」

「はあ?あんたほんとに」

「なぁ」


 なんの不自然さも感じさせない動きで、小田の手が私の手を包み込んだ。私のと比べると倍くらいにも大きく見えるその手は、乾燥していてじんわりとあたたかい。そのまま、下から覗き込むような形で小田が目を合わせてくる。


「俺、智美のそういう優しくて友だち想いなとこすごい好き」


 薄い唇から、甘い声が漏れた。


「紀和子、心配だな。今度さ——」

「触んないで」


 小田の言葉を遮って、私はその大きな手を振り払った。なんだ。なんなんだこいつは。


「手が汚れるから触んないで」


 小田と出会ってから初めて口にした本心だった。それでいて私の頭はやけに冷静だ。ただ頭だけでなく、全身が急に熱を失ったようだった。制服の下の両腕には鳥肌が立っている。私の言動が完全に想定外だったのだろう。目を丸くした小田は、間の抜けた変な顔で固まっていた。


「紀和子の名前も、もう呼ばないで。あんたみたいなやつが口にするだけで汚れるから」

「……」

「私帰る。あ、洗面所の場所だけ教えてくれる?手、洗いたいの」


 そう言って鞄を肩にかけた。白いウサギのキーホルダーが揺れる。大嫌いな男のいるこの空間から早く立ち去ってしまおうと、扉のほうを向いて立ち上がる。


 …つもりが、立てなかった。


 後ろから小田が、私の肩をつかんでいた。さっきより熱い手の指が肩に食い込んで、痛い。シーツが擦れる音がして、背後に生暖かい人の体温を感じた。そのまま、後ろから抱きすくめられる。


「あーあ。一回流してあげたのに、なんでわかんねえのかな」


 頭の後ろから小田の声がする。さっきまでと口調は変わらない。だけど肩に回った腕の力は強くて、身をよじろうにもびくともしなかった。


「離して」

「ちょっと調子乗りすぎじゃね?自分のことなんだと思ってんの」

「離してよ」


 返事はなかった。そのかわりにぐいと引っ張られて、乱暴に力をかけられたと思ったら目の前には天井と小田の笑顔があった。押し倒された。頭の奥が一瞬でさっと冷たくなる。


「ねえやだっ!離してよ!」

「黙っといたらいいじゃん、見た目だけはいいんだからさ。それに免じて、そのクソみてーな性格にも付き合ってあげてたのに」


 片手でまとめた両手首を、頭の上に押しつけられた。なんとか腕をあげようともがいていると、もう片方の手で肩を押さえつけられる。上からのしかかられているから、足は膝から下がわずかに動くだけだ。本格的に身動きが取れない。


「それなのにここで友だち想いアピって。我慢してた俺がバカみたいじゃんねえ?」

「離してっ、てば」

「でもいーよ、許してあげる。俺優しいからね。ほら、だから俺が満足できるようにせいぜい頑張って?わかっ——」


 ごん、と鈍い音がして小田が言葉を止めた。私が頭突きを食らわせたのだ。ぶつけた額がじんじんと熱を持っている。「——ってえ」小田が片手を離して額を押さえたおかげで、肩が動くようになった。やった、これで抵抗できるかも。


 そう思ったのも束の間で。


「——てめえ、ふざけんな」


 目の前の小田の顔から笑みが消えた。黒い目はまるで底のない穴みたいで、いっさいの表情を失った顔は白くのっぺりとして見えた。視界の隅で小田が拳を握った。振り上げられた拳は微塵の躊躇いもなく私の顔に向かってきて——


 止まった。私の左手につかまれた自分の腕を見て、小田はぱちりと瞬きをした。思いきり引いた私の手首はするりと小田の手を抜けて拳を止めた。がちりと捕らえられた右腕は小田が力を込めても動かない。これは別に小田の力が特段弱いからではない。


 小田が虚を突かれているあいだに弾みをつけて膝を曲げ足を引き抜く。曲げた膝をそのまま全力で小田の下腹部あたりに打ち込んだ。「うっ」かなり強く入ったようで、呻き声をあげて小田が丸まる。体にかけられていた力がなくなったので、私はその下からするりとすり抜けた。ベッドの上から降りようとすると足首をつかまれそうになったので、容赦なく蹴とばしておく。小田がそれ以上反撃を加えようとしてくることはなかった。


「……てっめえ、何すんだよ」


 丸くなった体から低い声が聞こえる。


「言ったでしょ、私空手黒帯って」


 今のは単なる護身であって空手とは何の関係もないのだが、嘘ではないのでとりあえずそう告げておく。ベッドから降り、ヘッドボードに置いていたスマホに手を伸ばした。録画を止め、撮れた動画を確認する。うん、これなら使えそう。それからふと思いたって、熊の編みぐるみも手に取った。


「ちょっとは反省した?」


 うずくまったままの小田の顔を覗き込む。顔をあげた小田は虚ろな瞳で私を睨みつけた。


「…お前、こんなことしていいと思ってんのかよ」

「あんたが言う?」

「俺、しゃべるからな。お前にやられたって。全部」

「別にいいけど。動画持ってんのはこっちだし」


 そう言ってスマホを揺らして見せる。


「…撮ってたのかよ」

「うん」

「お前が殴ってるとこも写ってんだろ」

「そんぐらい編集でどうとでもなるよ」


 小田が拳を振り上げたところで映像を切ってしまえば、見た人はまさか組み敷かれている華奢な女が反撃したなんて思わないだろう。これをSNSに貼って、あとは明日私が眼帯でもして学校に行けば完璧。小田が付き合って二週間の彼女に暴行を加えたという事実が出来上がる。


「それに」


 スマホと編みぐるみを鞄にしまいながら、私は正面から小田を見据えた。


「まだ殴ってはない」


 そう、まだ殴ってはいない。「体、起こせ」言いながら小田の肩を引き上げ、乱暴に壁に寄りかからせる。抵抗する様子も見せずされるがままの小田を、頭から爪先まで観察しながら私は考える。本当は、幾人もの女子をたぶらかしてきたその「イケメン」な顔面に拳を叩き入れたい。でもやっぱり顔は駄目だ、外から痕が見える。それで言ったらやはり鳩尾だろうか。そう考えて私は小田の腹に渾身の一発を入れた。「ゔ」小田が呻いてがくりと首を落とす。三カ月前からの目標をとうとう達成したというのに、たいして心は晴れなかった。


 目的を果たした私は、そのまま小田の家をあとにした。少し歩いたところにあった公園で手を洗った。


***


 小田の家に着いたとき夕焼けの見えた空は、外に出ると、青みがかった紫色に覆われていた。西のほうに目をやると、まだわずかにオレンジ色が残っている。三カ月間私の中にあった物語はひとつ区切りを迎えたが、小田の家にいた時間自体は案外短くて、なんだか変な気持ちになった。


 紀和子は小学校からの幼馴染だった。昔からのんびりとした性格で、小さいときから気の強かった私の後をいつもついてきていた。常に仏頂面の私と違い、いつだってやわらかな笑みを浮かべていた紀和子。彼女のそんなところは小田と付き合うようになってからも変わらなかったけれど、ある日を境に、紀和子は家から出てこなくなった。


『かっこよくて優しいんだけどね、いわゆるクズなんだよねぇ』


 何度も何度もかけた電話にようやく応えた紀和子は、冗談めかした口調でそう言った。


『持ち物も元カノのばっかりでさあ。私も柄にもなく対抗してみちゃったけど』

『やっぱり、好かれてたわけでも、大事にもされてたわけでもなかったみたい』


 なんでもないように言うその声は穏やかで、でも固くて、わずかに震えていて。


『ねえ、智美』


 そこに救いを求める響きがあったかどうか、私はもう覚えていない。


『誰かを傷つけることに何の躊躇いも感じない人って、ほんとにいるんだね』


 ぽつりとそう漏らして、紀和子は電話をきった。ツー、ツー、という電子音だけが、私の耳の奥にいつまでも残った。


 復讐が何かを変えるとは思っていない。私がしたことを紀和子が望んでいたかなんて知らないし、仮に望んでいたとしても穏やかな彼女は口にしないようにも思う。そもそもこれが復讐になるのか。動画が、私の「ケガ」が、小田に残る痣が、これからどう作用するのか。完全に上手くいくとは思わない。でも別にいい。親友を傷つけた小田のことが、私は大嫌いだ。ずっと。一生。死ぬまで。それだけがただ、確かなこと。


 立ち止まって、ウサギのキーホルダーを鞄から外した。さらにチェーンの部分を外してから鞄の中にしまい、かわりに小田の部屋から持ち去った編みぐるみを取り出す。きちんとそろった編み目をいくつかまとめて爪で引き出し、そこにさっき外したチェーンを通す。出来上がったそれを、鞄のウサギがいた場所に付け替えた。キーホルダーにするには大きいが、邪魔になるほどでもないだろう。鞄を肩にかけ直して歩き出す。揺れた編みぐるみを、私は手のひらでそっと包み込んだ。

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私の嫌いな男 オークラ @okra_ocl

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