第19話


「今日も残業なのね」

「ご、ごめん。でも代わりに休日は頑張るよ」


 夫はいつも日付が変わる頃に帰宅し、食事と入浴が済んだら就寝。疲れが癒やされる間もなくすぐ出社。家は帰って寝るだけの場所だった。

 それでも、たまにある休日は娘に付きっきりで遊んでくれた。控えめに言っても溺愛していただろう。イクメン、良い父親と呼べる夫だった。

 しかし、玲美亜が気に入らなかったのは、そこである。


「私だけのものだったのに……」


 初めて自分を愛してくれた人。

 自分が一身に浴びていたはずの愛を、娘に奪われてしまった。

 ねたみそねみ。

 娘が自分似なのも、余計に忌々しかった。

 産んだ時から違和感だったのだ。

 子供のくせに、自分の体の一部だったくせに。

 生を受けた瞬間、夫を奪った泥棒猫。

 娘が成長するほど母性は抜け落ちていく。何故自身に仇なす所有物に無償の愛を注がねばならないのだ。

 元より足りなかった優しさは、あっという間に底を突いた。

 

「あ、あなたが悪いのよ!」


 最初はちょっとした仕返しだった。

 所構わず泣き喚き、食事をよこせと強請ねだり、汚れたオムツを替えろと要求する。迷惑をかける度、叩いてみた、つねってみた。余計に泣いた。うるさい。だが、清々しい。絶対逆らわない相手を一方的にいたぶるのは楽しかった。

 ちゃぶ台を支えに掴まり立ち。押し倒してみた。

 両手を前によちよち歩き。足を引っ掛けて転ばせた。

 部屋の中を走り回る。「近所迷惑だ」と思い切り蹴飛ばした。

 暴力を振るうほど、娘の体の至る所にあざが刻まれていく。夫には「お転婆てんばさんでよく怪我けがをする」と誤魔化ごまかしておいた。鈍臭かったので簡単に信じてくれた。

 が、勿論もちろん、そんな子育てで娘に好かれるはずもなく。


「パパだーいすきっ!」

「そうか。パパとっても嬉しいぞ~」

「でも、ママきらーい」

「どうして嫌いなんだい?」

「だってこわいんだもん」


 なんて父子のやり取りもあった。

 娘は余計に夫への好意を示すようになった。気を良くした夫もそれに応え、親子の時間を増やしていく一方。

 おかげで玲美亜は、より疎外感を覚えるようになった。

 完全に逆効果だった。

 育児は辛いだけの苦行。何故母親になってしまったのだろうと後悔ばかり。

 そんなある日の夜、事件は起きた。


「お風呂に入りなさい」

「はい」


 三歳になった娘との入浴時。

 厳しくしつけているので、「嫌い」と言いながらも指示は聞いてくれる。何でも自分でやりたがる第一次反抗期という時期らしいが、の成果でそれらしき兆候は見られない。玲美亜にとって都合の良い子に育っている。かつて自分が受けた、独りよがりの教育をそのまま実行している。などとは、微塵みじんも気付いていなかった。


「ちゃんと湯船に浸かるのよ」

「はい……」

「返事が小さいのよ!」


 気を抜くとすぐにコレだ。

 良い子の返事を教えているというのに。

 娘の頭頂部を鷲掴わしづかみにすると、未成熟な顔を水面へと叩きつける。「ぎゃあ」とやかましく泣き出すのでもう一度水面へ。罰として少し長めに沈めておく。


「髪を洗うから、静かにしていなさい」


 子育て中は落ち着いて風呂にも入れない。

 洗髪の時間くらい余裕が欲しい。綺麗な黒髪が傷んでしまうではないか。

 と、愚痴ぐちを内心呟きながら、ゆっくり頭皮をマッサージし、シャワーで丁寧に泡をすすぐと、浴槽で娘が浮いていた。


「……え」


 うつ伏せの娘が、ぷかぷか海月くらげのように漂っている。

 水面から出た背中と蒙古斑もうこはんのある尻に、小さな波が何度も打ちつけている。

 泣かない、騒がない、息もしていない。

 ――やってしまった。

 その後、帰宅して事態を知った夫が通報。病院に搬送されるも娘は息を吹き返さず。死因は溺死。体中の痣から虐待の疑い有りとされ、玲美亜は逮捕されるのだった。


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