第二章 言葉に頼らないアドバンテージ #8

 演奏の間、他のメンバーが何を考えているのかは知らない。僕は黒野のことを考えていた。黒野は僕のソロを聴きたいと言って、そのために僕のもとへとやってきた。それを考えるだけで、いつもなら知らず知らず下がっていくベルの向きも、自然と上向く。

 この曲は導入部の軽快りリズムを刻む地帯を過ぎると、ゆったりしたテンポの場面に入る。大自然を想起させるような優しいバラード調が一分くらい続いた後、いよいよ一番盛り上がる場所にさしかかる。つまり、安藤母とその恋人が帰ってくる地点だ。

 隣を見ると、安藤は澄んだ顔をしてトランペットを吹いていた。何を考えているんだろうか。

 安藤は、母親に振り向いてほしいだけだ。自分と向き合ってほしかっただけだ。話したかっただけだ。ごく普通の親子として。だから、今、安藤は言葉を封印して、自分の打ち込んできたもので勝負を仕掛けようとしている。

 通じるのだろうか。僕はどうしても、安藤が頬を叩かれた音を思い起こしてしまう。怖いと思う。でも、演奏はとっくに始まってしまっている。音楽は止められない。やるしかなかった。

 やがて──遠くから、一台の軽自動車がやってきた。

 同時に、計算通りサビといってもいい場面にさしかかった。ケルト音楽の骨頂ともいえる独特のメロディと、リズムの気持ちよさが恐怖を覆い隠した。どうとでもなれ、という気がした。このまま揃って暗い夜の海に飛び込んだって構わない。そんな陶酔感に酔いしれた。

 軽自動車は僕たちのいる庭までは入って来ず、車道に停まった。そして、中からふたりの人物が降りてくる。安藤母と、その恋人だ。ぶっちゃけて言ってしまうと、恋人の相貌はおよそカタギとは見えなかった。剃り込まれてギラギラ光る金髪、目は鋭く釣り上がり、頬には傷痕のようなものが幾条か走っている。怖すぎる。こんな人が突然、家に住み始めたらそれは逃げたくもなる──。

 ただ、僕たちは演奏中だったので無敵だった。無我夢中だったと思う。この途方もないような二人に、僕たちの演奏は届くのだろうか。そんな不安をメンバー全員が抱いていたろうが、それよりも、もっと極上な旋律を追うのに取り憑かれていた。僕はこの遅れてやってきた聴衆の存在を忘れるように努めたし、意外とそれは簡単にできた。それくらい、楽しかったのだ。

 安藤母の様子は直視できなかったものの、妨害などはしてこなかった。到着して車から降りてきたきり、黙って聞いている。

 曲は加速度的に盛り上がっていくと、やがて、シンプルな解決進行をスタッカートで鳴らし、カラっと終わった。余韻が周りの自然を奔って、遠くの青い空へと消えていく。その響きが消えたところで、僕たちはそろそろと楽器を下ろした。

 これで、立ち向かうための武器は手渡せた。あとは安藤がどう立ち向かうかだ。

 僕たちが固唾を呑んで見守る中、安藤が一歩踏み出した。

「ママ」

「ねえ、何のつもり? ちゃんと説明してくれる?」

 安藤母はのっけから袈裟斬りを仕掛けてきた。

「……これが、私の伝えたいことだよ」

 安藤はそれを真っ向から受け止めて、言い返した。

「ママはどうせ、私が音楽なんてできっこないからお遊びなんて言うんだろうけど、私はちゃんとやれてるんだよ。今のも演奏も聴いてくれたでしょ? いい曲だったでしょ? 私、吹けてたでしょ?」

「あんた……」

 安藤母は口を呆然と開けて、娘を見つめている。安藤はたたみかけるように、声を荒げた。

「私は、もう子供だった昔とは違う! ちゃんと、普通にやれてるんだよ! みんなの輪の中で、トランペットだってできてるの! だから、いい加減に、私のやりたいことを認めてよ! 私の言うことを聞いてよ! 私と話してよ!」

「普通にやれてるですって……が、ガキ風情が……生意気を言うなよ! 私だって、普通にやれてるかなんて、わからないのに!」

 突然の鬼のような剣幕に、僕は思わず身を竦ませた。

 安藤母は一気に安藤に詰め寄ると、その顔に指先を突きつけて、唾をまき散らす勢いで吠えた。

「あんたこそ私の言うことを聞いてくれないじゃないの! 音楽ができた程度でいきがってんじゃないよ! そんなのできたところで、一文にもならないじゃないの! 金が飛んでいくばかりで何の役にもたたないわ! そういうのは偉ぶってるゲージュツ家に任せて、あんたは一円でも人より稼げるようになればいいの! そういう世間だってことがどうしてわからないの!」

「わ、わからないよ!」

 安藤の反論は悲痛に響いた。僕は悲しくなった。この親子は決定的にすれ違っていた。娘はただ母親に振り向いてほしかっただけなのに、母が見ていたのはただ、お金と世間だった。

 母娘二人の議論は平行線となった。線路を構成する二本のレールがどこまで行っても交わらないように、彼女たちの意見はどこまでも伸び続ける。それは永遠にわかりあえなくなるという一触触発の危機をはらんでいたわけだが、その間、僕たちスタジオメンバーの中でももうひとつの危機が持ち上がっていた。

 呉の堪忍袋の緒が切れそうだった。

 僕たちは演奏を終えたら口を出さないと決めていた。仮に僕たちが口を出して安藤母と恋人が納得したとしても、本当の解決かはわからない。夜になって、僕たちがそれぞれの家に帰った後、孤立した安藤がどういう目に遭うかわからないからだ。

 しかし、呉がブチ切れそうになっているのはそれ以前の問題で、安藤母に「何の役にも立たない」と音楽を侮辱されたからだった。ユーフォニウムで生きていこうと決めた呉にとって、あんな発言を見過ごせるわけがなかったのだ。

 呉はこのメンバーの中では大柄でガラも悪い方だし、そんな彼が飛び出していけば、今は何を思っているのか静観している、カタギとは思えない安藤母の恋人が黙っているわけがない。大混乱は必至だ。なので、僕たちは小声ながらも必至で呉を諫めにかかっていた。

 しかし、呉にとって、安藤母は許されざる敵として認識されてしまった。安藤親子の言い合いは見てわかるほどヒートアップしていき、それに伴って呉の怒りのボルテージもみるみる上昇していく。

 決壊するのは時間の問題だった。

「ダメだ、俺、黙ってらんねえ!」

 そして、ついに呉は腹を決めてしまった。ユーフォに惚れ込み、無茶を承知で音大を志望してしまうくらいの奴だ。こうなっては止まらない。大股で一歩踏み出す。ダメだ。僕は咄嗟に呉の前に立ちはだかった。

「どけよ、伊庭」

 呉が凄んで言った。僕は動じなかった。

「ダメだ」

「安藤のためだってわかってんだろ」

「違うよ。呉は自分の名誉のために行こうとしてる」

「お前……ふざけんなよ」

 呉の目に怒気がともった。僕も言い方が悪かったと反省したがもう遅い。もう引き返せない。友達を怒らせるなんて、僕らしくない。

 どうする。どうしよう。どうしたいんだ、僕は──。

 と、嫌な汗が滲んだ時だった。間の抜けた軽い音がパン、パン、パン、パン──と鳴った。

「良いじゃない、君たちさ。青春だね」

 見ると、安藤母の金髪の恋人が拍手をしていた。安藤母も含めて、呆気に取られてみんな彼の方を見てしまう。すると、強面の恋人は小さくを手を振ると顔を背けた。

「そんなぽかんと見るなよ。恥ずかしいだろ」

 そう言って、気を紛らわすように煙草に火をつけた。白い煙がふわふわと上って、音もなく吹いた風にさらわれ消えていく。

「えーっと、君たち、高校何年生?」

「……高二です」

 僕が代表して答えると、恋人は「へーえ」と唸った。

「実は俺も、君らくらいの時に音楽やってたんだ。君らがやってる上品なもんじゃないけどさ。俺が中坊だった頃、ロックが流行ってて。これが痛快でよ。安易に憧れて、そこらで燻ってる奴ら集めてバンド始めた」

 そこで一息きって、煙草を吹かす。

「もう地獄だったぜ。楽譜も読めねえ、パワーコードしか抑えられねえ、なのに一端のミュージシャンみたいなツラしてよ。で、調子乗ってたら、半グレに機材全部パクられたり、バンド転がしの悪ぃ連中に捕まって借金負わされたり、ベースがヤクやって捕まったり、ドラムが楽屋女と駆け落ちしたり……結局、なーんも残らなかった。残ったのはギターとクソガキだけ。その後の人生、最悪だよ。でもさ……最高だった。どっかのラジオかテレビから、ギターの歪んだ音を聞くだけで、青かった魂が蘇ってきて生きる気力になったんだ。あのクソみたいな日々が無駄だったとは一ミリも思わねえし、後悔もしてねえんだ……って、あの頃の青臭さを、君らの演奏聞いて、なんか無性に思い出しちまった。言い遅れたけどよ、良かったぜ」

「しゅ、しゅうちゃん……」

 安藤母が動揺して、細い声を漏らす。恋人はばつが悪そうに頭をガリガリと掻いた。

「あーあ──部外者が何か言うのも変と思ってたけど、あまんりにも君らが青いんで、つい口を出しちまった。なあ、恭子きょうこさん、いいじゃねえか。高二ってことは、あと一年ちょっとで卒業だろ? 俺らの一年なんか一瞬で掃いて捨てるほどあるけど、若い頃の一年は嫌ってほど長くて重いんだ。それを待ってやるくらい、してやろうや」

 それは、ヤクザものの映画とかゲームで聞くような、ドスの利いた「してやろうや」だった。優しさから出た言葉だというのはわかるけど、僕はその迫力に正直ビビってしまった。

 そんな声音を向けられた安藤母は、もう、見るも耐えないくらい狼狽えて、口元をわななかせていた。

「わ、私……また、間違えちゃったのかな……ごめんね……わからなくて……ごめんなさい、わからなかった、だけなの……だから、お願い、見捨てないで……見捨てないで……」

 あんまりにも痛々しく弱った様子に、僕たちは見てはいけないものを見てしまったような気分になった。そこにいるのは、怒られている年端もいかない女の子に見えた。

 恋人はそんな安藤母を宥めるように、信じられないくらい優しい声を出した。

「ああ……怖い声出して悪かったよ。恭子さんが頑張ってるのは俺も知ってる。まあ、そりゃ、こんな金ぴかの楽器吹けるような子らにとっちゃ、世間の負け組かも知れんがさ、心根まで本当に負け組になっちゃダメだな……」

 恋人は煙草を携帯灰皿に放り込むと、じっと身を固くしている安藤に向き合った。

「恭子さんに家の事情は聞いたけど、はっきり言ってわからん。まあ、俺の頭が悪いのもあるんだろうけど、恭子さんもよくわかってないんだろうな。でも、俺たちはすごく前向きでいるんだ。実を言うと、俺も恭子さんも、人生、やり直したいなっつって意気投合した仲でさ。ふたりなら新しくやり直せるって、思えちゃったんだよな。恭子さんは、君のことをしきりに口にしてた。君との関係もやり直したかったみたいだぜ」

「……そうなの、ママ」

 安藤はあくまで、母の口から本音を聞きたいようだった。安藤母はすっかり怯えた女の子のように、泣きそうな顔で両手をかざしていた。

「ごめんね……私、何もわからなくなっちゃって……、他にどうやればいいのかわからなくて……ごめんね……バカで……ごめんなさい……だから、怒らないで……」

「怒らないから、ママ……ねえ、ママは、やり直したいの?」

「やり直したい……全部、やり直せるものなら……やり直したいよ……でも、そんな、甘えたこと言うなって、みんな言うに決まってる……」

「……私はそんなこと言わないよ。だって、今、ママの言葉でちゃんと話してくれたんだもん」

 安藤は力強く言った。やっと掴めた絆を、絶対に離さないという決意に満ちた表情をしていた。

「だから、試してみようよ。家族をやり直せるか、どうか。私も頑張るから」

 そう言って、安藤は母を強く抱きしめた。娘の温もりを感じた母は、子供のような泣き声をあげた。

「ああぁあぁああああ……」

「……フン、泣けるぜ」

 気張ったように言いながら、恋人さんはダバダバ涙を流していて、溢れて止まらないそれをかわいらしいハンカチで拭っていた。僕たちもみんな、泣いていた。呉は特に大号泣していた。

「なあ、さっきの曲さ、途中からしか聞けなかったからさ、今度は最初から聞かせてくれよ」

 やがて、男泣きから立ち直ってカッコのついた恋人さんは、軽自動車の屋根に肘をついて言った。僕たちは顔を見合わせてから、安藤の方を窺う。安藤はいい表情をして即答した。

「うん、やろう」

「チューバいないけどね」

 平林が真っ暗なタブレットを掲げてみせる。電池切れらしい。バンドメンバーの間で軽く笑いが起こる。恋人さんだけは目を剥いていた。

「え、それも演奏してたのか!」

「あ、はい」

「はー、AIってこんな進化してんだな。すげーな」

 なんて、遠い未来を夢見る少年のような瞳をして言うのだった。

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