第二章 言葉に頼らないアドバンテージ #9

 家に帰ると、僕の部屋に当たり前のように黒野がいた。ベッドに寝そべってぽーっとしている。心なしか力なく、ぐったりしているようにも見える。

「黒野、ただいま」

「ん……」

 黒野は視線だけ僕に向けると、手でベッドの表面を軽くかりかりした。ここに来て、ということらしい。僕がそこに腰掛けると、黒野はもそもそと近づいてきて僕に身体をくっつけた。以前、お腹を撫でてあげたからか甘えたがりだ。

「黒野、安藤のことだけどなんとかなりそうだ。黒野が背中押してくれたからだよ。ありがとう」

「うん……伊月が頑張ってるとこ、見てた」

「え? どこから?」

 僕の頭に安藤の家の周りにいた野良猫たちの姿が思い浮かぶ。

「排水口」

「あ、そっか……そうだよね」

 そうだった、黒野は猫じゃない。人の姿をしている。今更だけど、黒野はいつでも僕のことを見られるのだと思い知った。

「都月のトラン、あんまり聞こえなかった」

「そうだね、安藤がトップで僕はセカンドだったから」

「……あたしは伊月の音の中にいたい」

 僕はドキッとした。いつもの黒野らしく平坦な声音だけど、真に迫る言葉だった。

「やっぱり、そこが君の探している場所なんだね」

「……わからない」

「黒野がわからなくても、僕はそう信じて頑張るよ」

 僕が告げると、黒野はきゅっと目を細めた。

「うん……頑張って、伊月」

「名前、間違ってるけどね」

 僕が突っ込むと、黒野はくすくすと笑った。柔らかい笑いだった。

 僕はいつまでも、その笑い声の中にいたいと思った。


「と、いうわけで、復活しました」

 次の日の昼休み、顰蹙金管バンドの面々に囲まれて、安藤が照れくさそうに復帰宣言をした。わーっと、メンバーが温かい拍手を送る。

「ママ……お母さんとも話し合って、ほんとは県大終わったら、部活辞めるつもりだったけど、続けられることになった。みんな、協力してくれて、本当にありがとう」

「そうだったの! も~、ホントに良かった~……」

 トロンボーン横島が気の抜けたように安藤にすがりついた。

「平林君が声かけてくれて、本当に良かったよお……」

 ホルン阿部がほっと胸をなで下ろす。実際に、バンドメンバーの招集に走ったのはトロンボーン平林だったから、何の間違いもない。なので僕がしたり顔でいたら、平林は「いやいや」と手をぶんぶん振った。

「今回のことを持ってきたのは伊庭だよ」

「うん……伊庭が声をかけてくれたから、私もみんなにお願いする勇気が出せた」

 安藤も同意してくる。呉が唖然と僕の方を見た。

「なーんだお前、その主人公ムーブは……ソロもなんか知らんけど、めっちゃ上手くなってるしよ、なんだお前マジでお前」

 黒野が僕の演奏を聴きたがっていると聞いてから僕はソロの解釈を掴み、良い感じになりつつあった。

「うん、さっきの合わせ練の時のソロ良かった。なんかエロかった」

 チューバ小比類巻も真顔で好評してくれるけど、その感想はなんか誤解を生みそうだからよして欲しかった。

「そんな部員思いながら、伊庭もなんか役職推せばよかったなあ」

 次期部長の横島が悔しそうに言うのに、「ほんとだねえ」と阿部がはんなり同意したり、「いやだから、俺は散々言っただろ」と呉がやんやと言ったり、「あたしは見抜いてたけどね」と小比類巻が古参面したりし出す。僕は愛想笑いしかできなかった。

「あはは……まあ、僕はちょっと家のことでいろいろあるからさ」

 そう言うと、その場がちょっとだけ、だけど、すん、となった。言ってから、しまった、と思ってしまった。僕の家の事情もほんのりとみんな知っている。その環境に甘えて、つい簡単に口にしてしまったが、周りにとって家庭の問題はそうポンポンと出てくるものではない。

 そう、もう重大な問題は解決したんだ。こんなところで水を差しちゃいけない。

「ちょ、ちょっと飲み物買ってくるね」

 僕は急激にミルキーなパック飲料が飲みたくなることで急場を凌ぐことにした。階段を降りて、一階にある自販機で目的のものを買って、一気に喉奥へ流し込む。柔らかな甘みが口いっぱいに広がった。

「逃げることないのに」

 声をかけられる。見ると、安藤が階段を降りてきているところだった。

「……気を遣わせたくなくって」

「そういう態度が余計に気を遣わせるんだけど……」

 安藤は「まぁ、別にそれはいいや」と自販機で僕と同じ飲み物を買った。

「改めてだけど……今回のことは本当にありがと。伊庭の両親の話、聞いたら……自分の親が生きてるのに悩んでて申し訳ないなって思って、踏ん切れた」

「いや、頑張ったのは安藤だろ。僕は見てただけだよ」

「暴走しかけた呉のこと、止めてくれたじゃん。あと……トランペットを壊さないでいられたのも、伊庭のおかげだし」

「え?」

 ぽかんとする僕に、買った飲み物を両手で包み込みながら安藤は言う。

「実はさ、一度ママに怒られて、一度ほんとに頭に血が上っちゃって、つい、手に持ってたペットを地面に投げつけそうになったことがあったんだよね」

 僕にはその出来事に心当たりがあった。排水口から覗いて、初めて安藤の家庭を見た時のことだ。あぁ、とつい知ってるような相づちを打ちそうになって、僕は慌てて呑み込んだ。

「その時にさ……投げるな! それは部活の備品だから! って、いかにも伊庭が言いそうなこと聞こえてきた気がして。そしたら、なんか馬鹿らしくなっちゃって……トランペットも可哀想に思えてきて、投げられなくなっちゃった」

 安藤は小さく笑う。うわ。聞こえていたのか──と言いかけて、なんとか思いとどまる。

「いや、それは僕、関係ないじゃん」

「まあ、ね。でも、私は……伊庭と一緒にまだ、部活続けたかったのかもなって思って……」

 そこで安藤は一旦言葉を止めると、ぎゅっと絞り出すように言った。

「あのさ、伊庭がこういう話、嫌いなのは知ってるけど……誰か、好きな人がいたりする?」

 僕は思わず固まった。どうしたんだ突然、と混乱したが、この流れだと──そういうことになる。

 でも、僕の頭に浮かんだのは別の女の子の姿だった。過去の憧れの幻影。可愛い笑顔。ミステリアスで甘えたがり。何故かギャグが好き。そして、僕の気持ちにどこまでも寄り添ってくれる。

 ここまで僕を信頼してくれた安藤に、僕は嘘を吐く勇気が出なかった。

「……いるよ。長いストレートな髪の子」

「……そっか」

 安藤はウェーブのかかった自分の髪の先に触れながら言った。

「……なんか、ごめん」

 気まずい空気が降りかけて、僕は謝る。すると、安藤は慌てたように僕へ向き直った。

「ううん。いや、うっかり訊いちゃっただけで何もないよ! あ、伊庭もさ、何かあったら絶対に言ってね。あんた、きっと私以上に抱え込むタイプでしょ。私、必ず、助けになるから」

 迫るように言われて、僕は救われた気持ちになる。

 ただ、それは同時に、次は僕の番だと言われているようなものだった。

「……うん、わかった。そうするよ」

 安藤のように、僕は向き合えるだろうか。

 作った笑顔を貼り付け、うなずきながら僕は思ったのだった。

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