第一章 生きるっていうのはカロリーを消費することだ #9
それから、黒野は排水口の前で立ち止まらなくなった。そうすると、僕がついてこなくなると思ったからだろうか。確かに、僕とはぐれないためには良い手段だと言える。現に黒野は定期的にこちらを振り返り、僕がちゃんといることを確認できている。
問題点がある。ひとつには、本来の目的である黒野の行きたい場所探しが全くできていないこと。ただ下水道を早歩きをしている二人組になっていること。そして、黒野は自分の体力のなさを自覚していないため、あっという間に疲れ果てて、ぐでーっと地面に寝っ転がってしまった。
「黒野、これじゃ本末転倒だよ……」
流石に僕も疲れて、横に座りこみながら言った。これじゃ、永遠に下水道をさまようことになる。
黒野は仰向けに寝返ると、深く呼吸を繰り返しながら僕を見た。怒ってるのか怒ってないのか、よくわからなかった。それにしても──黒野の無防備にお腹を向けている格好、どうにかならないのだろうか。塗り忘れたみたいに白い肌をしているから、黒いセーラー服とスカートの切れ目というものがどうしても目立ってしまう。
黒野は僕に向けて、ふらふらと手を伸ばした。どうしたのかと見守っていると、そのまま僕の手を掴む。さっき、僕が排水口に伸ばした手を掴んだ時とは、比べものにならないくらい弱々しい握力だった。
「撫でて」
そのまま、黒野は僕の手を導いていく。あろうことか、セーラーとスカートの狭間へと。
「いやいやいや」僕は急いで手を引っ込めた。「何セクハラさせようとしてんの!」
「セク?」
「次からそこで止めないでね。そんな無防備に男に触らせようとしちゃだめってこと」
呉みたいなむっつりもいるのだから、ちゃんと教え込まないと危ない。
「どうして?」
「……こういうのはちゃんと好きな人同士でしなくちゃ」
「あたしはあんたのこと好き。あんたは……あたしのこと嫌い?」
なんてパワーのある質問なんだ。あと、電車から守ったくらいでチョロすぎやしないか……と思ったけど、字面だけなら妥当な気もする。
僕は考える。僕は黒野のことをもちろん嫌いじゃない。けど、好きなのか? 好ましいと思ってるし、仲良くもしたいけど、「好き」というのは僕の中で強い言葉だ。呉の言う通り、僕はプラトニックを求める性分だった。
「嫌いじゃないよ。仲良くしたいと思ってる。でも、段階っていうのがあるよ、やっぱり」
「段階?」
「まずは一緒にご飯食べたりっていうか」
「ごはん……?」
「そう。それで、お互いのこと知っていって、それで……ね?」
言っててバカみたいに恥ずかしくなる。まるで僕が黒野を口説いてるみたいじゃないか。
「そう……」
黒野は残念そうにお腹をしまった。そう、今はそれでいい。僕はほっと胸をなで下ろす。
しかし、黒野はこんなところで暮らしてて何を食べてるんだろうか。ちらっと見えた感じでは、黒野のお腹は脂肪も筋肉もほとんどついてなかった。ガリガリといっていい。クラウン氏が放っておくとは思えないが、僕はちょっと心配になった。
「んくぅ~」
黒野は大きく伸びをすると立ち上がった。それから、さっきまで大事に抱えていたランタンを、あっさりと僕に差し出してくる。
「次はあんたが行きたい場所を探していいよ」
「え?」
一応、受け取るには受け取ってから、僕は途方に暮れてしまう。そもそも、僕が下水道にやってきたのは、黒野の顔を見るためだ。だから、僕が行きたい場所なんてもうなかった。
僕はもう──どこにも行きたくなかった。
「一緒に行っちゃだめ?」
僕が硬直していると、黒野が小首を傾げて言った。その窺うような上目遣いに、僕は自分の考えを改めた。
「いや……そんなわけないよ。一緒に行こう」
そんな健気に言われては断れない。そもそも、僕は黒野を探してここに来た。それなら、黒野と一緒にいればいい。行きたい場所がなくたって、それで十分じゃないか。
今度は僕の方が先に立って、下水道を歩き始めた。振り帰ると、黒野は僕のすぐ横にちょんと着いてきている。なんだか黒野と初めて会って、初めて線路の上を歩いた時のような清々しい気分がした。決められた道であるレールとは全く対極にある、どこに通じているかわからない下水道を歩いているのに滑稽だな、と思った。
僕たちは快適に歩き回った。どうしてか、排水口が全然現れないので立ち止まる機会も少なく、することと言えば、黒野がヘバっていないか確認するくらいだ。僕の歩くスピードはさして速くないので黒野も平気そうだった。
そして、そう、排水口が全然出てこないのだった。これじゃさっきと変わらない、単に下水道を歩き回る二人組である。
「何も出てこないな……」
「もう、夜になるから」
僕のぼやきに、黒野は当然のようにそう返した。
「夜だと出てこないの」
「排水口も夜は眠る」
「排水口が? 人じゃなくて?」
「人は知らない」
謎かけみたいだったが、僕は少ししてから意味を理解した。さっき、安藤の一幕があった後、排水口の外側が暗くなった。あれはオチがついて、見るべき出来事がなくなったからああなったんだろう。僕たちが見ていないところで、あちこちオチがつき、次々と眠りにつくように排水口から光が消えていく。排水口の眠りなんて、面白い表現だった。
そう思いながら歩いていたら、淡く光の差す排水口が見えた。久しぶりの排水口に黒野が小走りで覗きに行く。毎回、最初だけは興味津々なのだ。
僕は保護者みたいな気分で、あえてゆっくり歩きながら心の中で三カウントを始める。
一、二、三……四……五……六──って、おいおい、ゆっくりやっても十カウントまでいっちゃうよ。
「あった」
黒野は傍へ寄ってきた僕に、なんてこともないように言った。僕は愕然として、嘘だろ、と口にしかけた。
「えっと、何が?」
「あたしの探してる場所」
僕はランタンのない方の手で顔を押さえた。
「あの、こういうのは物語の後半で、もっとエモい感じで見つかるものなんじゃないの?」
「?」
「いや、ごめん……」
イノセントな目で見返されて、僕は反省した。予想以上にあっさりと目的が達成されてしまうことに、驚いただけだ。まあ、実際、こういうこともありえるのかも知れない。
それで、黒野が探している場所とは一体どこだったのか。謎を解き明かすべく、僕は排水口の中を覗いた。
これまでしてきたように、何の気もなく、何の心の準備もなく。
そして、それを後悔した。
排水口の向こう側は、僕の家の居間だった。
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