第一章 生きるっていうのはカロリーを消費することだ #8
黒野は早足と言える速度で下水道を歩き回り、度々現れる排水口を覗いて回った。しかし、どの排水口の出来事にも関心を向けず、三カウントもすると再び歩き始めてしまう。そのため、結構なハイペースで移動することになり、思ったよりも黒野との道行きは大変だった。
「……」
やがて、黒野はその場でしゃがみ込むと、ランタンを抱えて寝っ転がってしまった。疲れたような虚ろな顔をして、ぜえはあと大きく呼吸し始める。黒すぎる容姿が暗い空間に馴染んで、まるで地面が生きているみたいだった。
「いや、君が先にへばるのか……」
再会した時も、全力疾走してすぐに息を切らしていたので、体力は全然ないのだろう。ランタンは黒野が大事に抱えているので、彼女が回復するまで僕は動けない。スマホで暇を潰そうにも、荷物はジムのロッカーだ。どうしたものかと思ったら、少し歩いたところの分岐の向こうに排水口の光が見えた。あのくらいなら、灯りなしでもいけそうだ。
「あそこの排水口覗いてくるよ」
僕がそう告げると、黒野は寝そべったまま視線だけで見返してくる。その様子に僕はなんか、ドキッとした。いや、何でだよ──これ以上、正体不明の衝動を覚えないためにも、僕はそさくさと排水口へと急いだ。
排水口とは言うもののデザインが排水口なだけで、実態はただの覗き穴だ。だから、水が流れてくることもないし、排水の必要がないところにも生成される。
その排水口が通じていたのは、これまた部活仲間のユーフォニウム呉の家の防音室だった。まさかの知り合いふたりめだ。
呉はユーフォニウムを吹いている。知らないメロディだった。レッスンにも通っているらしいから、そこで取り組んでいる曲だろう。うまいな。僕は舌を巻く。高校から始めたというのに、呉の上達速度はえげつない。
「悪くはないな」
そこへ、僕の知らない男の声が言った。角度的に見えにくいが、お父さんがいるらしい。
「悪くはないって、良くもないとどう違うんだ?」
呉は譜面台にぶら下げたハンカチを取って、管の唾を抜きながら挑戦的に言う。呉父はうーん、と唸った。
「わからん。永遠の謎だ」
「そーっすかぁ」
手厳しく言われても、呉は大して気にしていないようだった。考えてみると、僕も華礼に同じようなことを言われてるけど、それで気にしたことはない。指摘してくれることはだいたい事実だし。華礼のことは信頼しているのであっさりと受け入れられる。良好な関係って大切だな、と思った。
「部活はどうだ?」
「ぼちぼちかな……県大の審査員が当日寝不足じゃなきゃ、ブロック大会行くのはキツそう」
呉父の、食卓のお父さんみたいな質問に、呉は華礼と同じことを言う。やっぱぼちぼちなんだな。その答えに、呉父は溜め息をついた。
「だから全国常連の高校を選んでおけばよかったのに」
僕は自分の手が強ばるのを感じた。それは誰に向けられたものではなかったのだろうが、僕個人に向けられた非難のような気がした。
「バカだな。逆だよ逆」
しかし、そんな僕を勇気づけるような軽いノリで呉は言った。
「全国常連の部活なんかキツいの目に見えてるから、俺、絶対入らなかったって。今の高校くらいの温度感だったから、入ろうと思ったし、楽器も面白れー、って思えたの。あと、まだ県大止まりって決まったわけじゃねえし。こういうのは困難な方が燃えるんだよ!」
僕はじーんと来てしまった。やっぱり呉は良い奴だ。もっとモテてもらわないと困る。
「困難な方が燃える……か」
呉父は意味深に繰り言をしてから、真面目な調子で続けて言う。
「ならひとつ聞いておきたいんだが、トランペットのソロは、地区大と引き続いてあの二年生がやるのか?」
僕は身を固くした。嫌な汗がどっと噴き出てくる。なんだ、このお父さん……地区大会まで来るとか。そこじゃないんだろうけど、敢えてズラしておかないと聞いていられなかった。
「ああ。俺とタメの奴がやる」
「なんだか曲の解釈がなってない気がしたな。一般論だが、良かれ悪しかれ、ソロは顔だ。今のままじゃ、あのソロは評価に影響を与える。それはどう思ってるんだ」
呉父の容赦ない言葉に、僕は身を竦ませる。そうだ、全体としての演奏がどんなに良かったとしても、僕がソロをしくじれば「良かったけどあのソロは何?」という印象になるだろう。
呉は何と答えるのだろうか。僕は壁になった気持ちで、返答を待った。
「あいつは頑張ってる。きっと県大ではものすごい進化してるさ」
なんでもないように、呉は言った。
あいつは頑張ってる。そうか、僕は頑張っていたんだな。そう思うと胸が熱くなり、肩の憑き物が取れて軽くなったような気分になった。
「でも、許せないことがひとつだけある」
しかし、僕のホットな気持ちも、呉の低い声に水を差されたように冷え込む。
許せないこと。なんだろう。下手くそ過ぎるとか、イキッてるとか言われたら、その他、僕のケアしようもない悪口を言われたら、立ち直れなくなりそうだ。
壁の向こう側で息を詰める僕にも十分聞こえる勢いで、呉は言った。
「金髪の姉ちゃんと放課後ワンツーマンレッスンは羨ましすぎるだろうがよーッ!」
「えぇ……」
僕は心の底からなんとも言えない気分になった。というか呉って、そういうのに対しては、ストイックぶってなかった? 音楽一筋なんじゃなかった?
「年上好みか。血だな」
しみじみと呉父が言った。なんか生々しくなるので、あなたがしみじみと言わないで欲しかった。
──なんて、オチもついたところで、僕は排水口から離れた。変に緊張したり、脱力したり、ちょっとしたジェットコースターに乗った後みたいだった。
黒野のいるところまで戻ると、彼女は女の子座りをして、暗がりの方を見つめてぼうっとしていた。僕も同じ方へ視線を向けてみたが、その先に何があるというわけでもない。さっきまであんなに大事に抱えていたランタンもその辺にほっぽり投げて、虚空を見るのに夢中だった。怖すぎる。
とりあえず、ランタンを返してもらおうと思って、僕は地面に転がっていたそれを手に取った。その瞬間、黒野がピクッと反応し、すかさず両手をバッと伸ばすと、ランタンをぐいっと引っ張って僕の手から奪取、ラグビーみたいにお腹の下にホールドした。
「や!」
「わかったよ……まだそれは君のだよ」
僕が認めると、黒野は「ほんと?」という風に顔を上げ、そさくさと立ち上がって、僕の顔をまじまじと見た。
「じゃ、行こ」
黒野は短く告げると、再び歩き始めた。呉の部屋の見える排水口とは逆の方向だった。僕はそのあとに続く。
それから、さっきと同じように排水口が見えたら覗いて、三カウントで立ち去るというルーチンが始まった。相変わらずのハイペースである。
「覗くのは全然、興味ないんだ」
僕は訊いてみた。
「ある」
黒野はむっつりと答えた。
「三カウントくらいしか見ないじゃん」
「そこが行きたいとこじゃないなら、興味ない」
「なるほど」
黒野は効率重視派らしい。時間のないビジネスマンみたいにキビキビしている。
「これ、どれくらい続けてるの」
「わかんない」
「ざっくり何ヶ月くらい、とか……」
「一兆年」
「なっがっ」
「ほんとだよ」
僕は咄嗟に横を見た。黒野は真顔で僕を見返した。
「ギャグじゃないの?」
「わかんない」
それから、僕たちはいくつもの場面を見た。塾の面談前で緊張する中学生。服屋の店員の連絡先が知りたい男。ドリンクバーでオレンジジュースとコーヒー混ぜちゃう子供。楽器を電車に忘れたバンドマン。原稿用紙を丸めて捨てる作家。マイクミュートのまま喋りまくる生配信者。屋外でトランペットを吹く女子高生──って、ちょっと待って。僕は三カウント経っても、その場から動けなかった。
そのトランペット女子高生は、同じパートの安藤だった。県大で部活を辞めると宣言していた彼女は、おそらく自分の家の庭で、愛想が尽きたと言っていたはずの楽器を一生懸命吹いている。コンクールの課題曲。周りは田んぼや雑木林になっていて、他の民家はない。野良猫か飼い猫かが数匹、その辺りに寝転んで、安藤の出す音色を関心もなさそうに聞いている。その様子に、安藤がペットショップでバイトする、と言っていたのを思い出す。
と、そこへ、軽自動車がやってきて、庭へと入ってくる。駐車場と兼ねたスペースのようだった。びっくりした猫たちが逃げて行っても、安藤は構わずトランペットを吹き続ける。
「なに、あんた、まだ音楽なんかやってんの」
車から出てきた母親らしい女の人は、開口一番にそう言った。
「どうせろくにできもしないくせに、こりないね」
「だから──県大終わったら辞めるって、言った」
安藤はトランペットを下ろすと、起伏のないのっぺりとした声で答えた。安藤母は胡散臭そうに顔をしかめる。
「そう言って遊んでばっかり……バイトは探してんの」
「……探してる。でも、まだ見つかってない。そんな余裕ない」
「何で? 夏休み中に見つけるって約束したよね」
「……」
「ほんとさ……ちょっとは家のこと、考えられない? あんたが呑気に高校通えてるのは誰のお陰だと思ってるの?」
「……だから、行くつもりだった私立は諦めたじゃん。お金だって、前のパパから振り込まれてるのに……ママは働かないでほかの男の人に貢いでばっか」
「はん……親に向かって、なんて恩知らずな物言いなの」
「高校の間くらい、私の自由にさせてくれたっていいじゃん」
「未成年のガキに好き勝手させるほど、世間様は優しくないんだよ。高校で学んだことなんて、将来何の役に立つわけでも無いし、とっとと社会に頭突っ込んで、金回りの良い男でも捕まえる方法学んどきな」
「……クソババア」
「──」
パチン、と音がした。安藤母が手をあげたのだった。パーカッションが鳴らすクラッシュシンバルよりもずっと控えめな音量なのに、束の間、呼吸を忘れさせるほどの鋭い響きがあった。
「あんたのためを思って言ってんのに」
そう告げて、安藤母は家の中に戻っていった。よその家の事情だからいまいちわからないけど、僭越ながら、僕にはどのあたりが安藤のためを思っているのかわからなかった。そうして、どうすればいいのかもわからなかった。本当なら、見ず、聞かず、三カウントも待たずに、そのまま立ち去るべきだったのだろう。オチがつこうとつかまいと、覗き見は結局、悪趣味でしかない。それはわかっていたが、わかる以上のことができなかった。
安藤は撲られた頬を抑えながら、もう片方の手に残った楽器を見つめていた。その目には、悔しさが満ち満ちていた。今にも、感情の圧に耐えかねた眼球がプチッと弾けて、黒々とした液体が流れ出しそうだった。楽器を握る手もわなわなと震えている。怒りが行く先を求めて、その掌へと続々と集結している。
投げる、と僕は直感した。何故なら、僕が安藤と同じ立場だったら、投げると思ったからだ。そうすることで、ほんの一瞬だけ、解放感を味わうことができるはず。
果たして、安藤はトランペットを高々と振り上げた。
迷いのないフォームだった。そのまま楽器が地面に叩きつけられれば、金輪際、正しい音を出さない、ただの真鍮で出来た管になる。
「投げるな!」
僕は叫んだ。「だって、それは部活の備品だから──」と、安藤に苦く笑われそうなことを口にしながら、排水口の隙間に腕を突っ込む。いや、突っ込もうとしたが、できなかった。突っ込む寸前に、横から伸びてきた手に、手首をがっちり掴まれて動かせなくなってしまったのだ。
見ると、黒野が昏い瞳で僕を見ていた。
「どうして一緒にこないの」
彼女の息はあがっていた。肩が揺れている。黒野は例によって三カウントで立ち去り、少ししてから僕がいないことに気がついたのだろう。それから探し回っていたのだとすれば、可哀想なことをした。
「……いや、見たくないものがあって」
僕は変な言い訳をした。実際、混乱していた。動揺していた。安藤が部活を辞めるもう半分の理由があれだった。あんな場面、本当は見たくなかったのに、見られずにはいられなかった。そんな心境を無理に説明しようとして、バグった台詞になってしまった。
「そういうギャグ?」
黒野は訊いた。普通、見たくないものがあったら、足早に通り過ぎるものだ。そうとられても仕方がないかも知れない。
「ギャグじゃない。現実だよ」
僕はそうとしか言い様がなかった。
黒野はむっとしたように僕を凝視していたが、やがてくるりと踵を返すとすたすたと歩き出した。どう見ても不機嫌な背中をしていた。
僕は排水口の方を見る。向こう側は塗りつぶしたように真っ暗になっていた。オチはどうなったんだろうか。トランペットは無事だったのか? それともまともな音がでなくなってしまっているのか? 真相は次の部活の日になるまでお預けだった。
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