第一章 生きるっていうのはカロリーを消費することだ #7

 僕はランタンを持って、地下をうろついていた。

 およそ長い滞在に耐えられるほど快適なイメージはなかったが、このインチキ下水道は、じめじめしたり、腐臭がしたり、水が流れていたりということはない。まったくの無臭、静寂さで、響く音といえば僕の足音くらい。空気はひんやりと澄んでいて、人やものの往来もない。車がニアミスして通り過ぎることもない。歩き煙草をする人間もいない。そもそも、僕しかいない。灯りが手元のランタンだけ、ということを除けば、散歩道としては相当快適だった。

 下水道の構造自体は、時々右や左に逸れる分岐路、或いは十字路で成り立っている。必ずしもまっすぐな管ではなく、ところどころぐねぐね曲がっているし、急な下り坂があったりゆるやかな上り坂があったりする。また道の交差地点も秩序がなく、容赦なく斜めに逸れていたりするので、脳内マッピングはほとんど意味をなさない。こんな暗闇の迷路の中で、黒野クロという黒ずくめな女の子を探すのは不可能に思える。

 それでも、少なくとも地上にいるときのような不安はなかった。僕には黒野を探すという目的があり、それに向かって具体的に歩みを進めているうちは楽天的でいられた。

 暗がりに飽き始めた頃合いに、排水口が見えてくる。覗いてみると町のどこか、切り抜かれた風景がある。コントのように話す人々が見える。数年前になくなったはずのお店を探すおばあちゃん、いっしょにあくせく探すおじさん。なかったことが判明して、ゲラゲラ笑い合っていた。明らかな私有地に不法侵入して虫を探してる少年たち。地主に怒られてまで掴んだものが蝉の抜け殻でげんなりしていた。ファーストフード店の角の席で、外国人に外国語を教えてもらっている女の人。最終的には野球の話で盛り上がっていた。日本語で。

 知っていたはずなのに、知らなかった景色にいちいち出会う。そこに僕は安心感を覚える。そこに僕が関わっていなくてもいい、という気楽さだった。僕はやがて、立場も忘れて次の排水口が現れるのを楽しみにしている自分に気がついた。

 これはよくない。僕は黒野に会いに来たのだ。そう思いなして、僕は次に見えた角を右に曲がる。

 そして、はたと足を止めた。

「あっ」

 曲がった角の少し先に、黒野クロがいた。彼女は排水口を覗いているところだったが、僕の声と灯りに反応してこちらに顔を向ける。地下の闇の中、排水口から漏れる地上の光にあてられて、白い面が神秘的に浮かんでいた。

 そして、黒野はやおら背中を向けると、ダッシュで逃げ出した。

「え、あ、黒野!」

 黒いセーラー服の後ろ姿は、一瞬で暗闇に溶けて消えてしまう。僕は拒絶されたようでちょっとショックを受けて立ち尽くし、それから理不尽を感じると、すぐに後を追って走り出した。名付け親に向かってなんだその態度は。

 黒野はランタンを持っていなかった。なのに、僕だったら三秒で壁に激突するところを、全くそんな気配もなく駆け抜けている。夜目が利くらしい。猫なのか? 僕が頼りにできるのは、真っ黒なローファーが地面を踏む音だけだった。幸い、僕の耳は部活で鍛えられているのか、それとも下水道が静かなためか、問題なくどこにいるのか把握することができた。

 と、思った直後、足音が聞こえなくなったので僕は焦る。部活で鍛えられていたのは腹斜筋だけだったかも知れない。でも、遠ざかっていったというよりは、ぱっと消えた感じだった。もしかして、地上に出てしまったのだろうか。でも、彼女はマンホールを開けられないと言っていたし──。

 とか思いながら、足音の聞こえた方の角を曲がったら、黒野が壁に手をついて、ぜえはあ息をついていた。

「バテただけかい」

 まあ、全力疾走だったから、運動不足気味なら無理はない。でも、なんだか心配になるくらいの息の荒さだ。身体が弱いのだろうか。傍に寄ろうとも思ったけど、また逃げられたら嫌だと思い、ちょと離れたところで落ち着くのを待った。

 黒野はしばらくの間、息を整えつつ僕をじっと見ていたが、やがて何かを思いついたように言った。

「なんだ、あんたか」

「あんたかって……僕だってわかる前から逃げるなんて、誰だと思ったんだよ」

「わかんない」

 黒野は僕の持ったランタンを見て、目をしぱしぱさせた。確かに、普段は灯りも持たずに真っ暗闇の中にいるのに、こんな明るい光を放つものを持った人間が来たら、誰だか判別もできまい。それは怖がらせたこっちが悪い。

「そっか。驚かせてごめん」

 謝ったのに黒野は反応せず、その場に突っ立って僕の持つランタンを見つめていた。目を悪くしないのかと心配になった時、素早い動きで僕の手からそれを奪い取った。

「わ!」

「これ、あたしの」

 黒野はそう言って、ぎゅっとランタンを抱え込む。それだけなら、まあ可愛らしい仕草といっても良かったのに、煌々とした灯りのせいで、その白い顔にホラーでよく見るみたいな影が差して、すごく怖かった。いや、ビビってる場合じゃない。

「僕のだよ」

「違う。あたしの」

「えーっと、それ、君のなの?」

「いまはそう」

「じゃあ、そのうち返してくれる?」

「たぶん」

「たぶんじゃ困るな」

「メイビー」

「英語で言ってもだめ。あとで返して」

「……」

 黒野はランタンを抱えて、黙りこんでしまった。取り戻そうと手を伸ばしたら「や!」と言って身をよじる。子供みたいだ。それか、猫みたいに──本当に猫なのか? いや、そんなことはどうでもいい。僕は灯りがないとこの下水道を歩けない。生殺与奪の権利を黒野に握られてしまったのだ。

 取り戻さないと、と僕は慌てたものの、あれこれと取り返すための考えを巡らせるうちに、何故か落ち着いてきてしまった。まあ──黒野に命を預けても、いいか、別に。

「わかったよ。持ってていいよ。代わりに、僕もついてくから」

「うん。一緒に行こ」

 黒野は真顔ながらも、ちょっとご機嫌に言って歩き出した。僕はやれやれ、と思いながら、その後ろを往く。なんだろう。こういうの、悪くない気がする。誰かに導いてもらう、この感じ──。

 僕たちは下水道を進む。どこへ進むのかは知らない。闇はどんどん深くなっていく。なのに、僕は不安じゃなかった。心を重くしていた地上の憑き物が、地下の壁に吸われていくような感覚さえした。

「あのさ」

 僕は口を開いた。なんだか、彼女のことを知りたくなった。

「黒野って、実は猫だったりする?」

 いきなり本質を突いてみたいような気分だった。黒野は僕をちらっと一瞥すると、すぐに前に向き直って言った。

「にゃー」

 いや、鳴いた。すかさず、脳内の中のクラウン氏が「猫である」と断言する。そうかなあ。見た目は人なんだけどな。見た目だけは。なんだか、彼女が猫だとか猫じゃないとか思うことが不毛に思えてきた。今後、このことを考えるのはやめよう。

「……普段はなにしてるの」

「歩いてる」

「何するのが好き?」

「寝る」

「暗いのに怖くないの」

「ふつう」

「えっと……ここに住んでるの」

「うん」

「家賃は?」

「一兆円」

「おぉ……」

 やけくそ気味にふったネタだったのに、ちょっと感動した。

「面白い?」

 今度は逆に、黒野が訊いてきた。僕は面食らった。

「一兆円? うん、面白い、と、思うよ」

「ギャグだった?」

「うん、まあ……ギャグかな」

 下水道の維持・修繕費が年間一兆円っていう注釈があってこそだと思うけど、まあ、そういうことにしておこう。

「あたし、笑いたいの」

 黒野がぼそっと言った。ふいに出てきた、しんみりとしたその一言に、僕は胸が突かれる思いがする。

「どうして?」

「笑えないから」

「そっか──って、前会った時、普通に笑ってたよね?」

 僕が突っ込むと、黒野は僕に顔を背けて、肩を震わせる。

「ふふ……」

「あ、ほら、笑ってるよね!」

 指摘しながら回り込むと「何のことですか?」と言わんばかりの真顔が、僕をじっと見つめる。深夜の日本人形みたいでめちゃくちゃ怖かった。

「ギャグだった?」

「ギャグというか、ボケというか……」

「あたしたち、ギャグだ」

「存在がギャグみたいに言うのやめてね」

 僕は呆れた風に言いながら、黒野が笑ってくれたことは結構嬉しかった。ほんのちょびっとでもいい、笑いそうもない子が笑っているのを見るのは、ギャップも相まって心が和む。それが、僕との会話の中でとあれば、尚更だ。お笑い芸人は、こういう気持ちをデカくした人がなるものなのかと思った。じゃあ、道化師は? クラウン兜坂氏のことを思い浮かべたけど、あの人の話しぶりからは誰かを笑わせようという感じはしなかった。

「クラウンさんとはどうやって知り合ったの?」

 僕は訊いてみた。今日、僕がやってくるまでこの下水道には、黒野とクラウン氏しかいなかったはずだ。それ以前の状況がどうなっていたのか、気になった。

「わかんない。でも、兜坂は、あたしに協力してくれてる」

 どうせ答えは沈黙だろうと思っていたら、黒野は案外、素直に答えた。

「協力って、例の探しものの?」

「うん。あたしは、場所を探してる」

 とりつく島のない雰囲気の黒野にしては、意思を感じられる台詞だった。今度は、探しものを「場所」だと言い切っている。

「場所って、どんな場所? 僕と何か関係がある?」

 以前に僕から「探してるものの匂いがする」と言っていたのを思い出しながら、僕が問いを重ねると、黒野は立ち止まってしまった。少し遅れて僕も足を止め、彼女と向き合う。黒野は相も変わらず、真顔としか表せない面持ちで、窺うように僕を見る。

「……わかんない」

 答えをためらうような間があった。それから、言いあぐねるように声の切れ端を漏らすと、つっかえつっかえ、訴えるように言う。

「でも、その場所はどこかに、きっとある。あたしはそこを、探してる」

 僕は黒野が、ふざけたり、おためごかしで言っているとは全く思わなかった。彼女の願いは、行きたいと思った場所へたどり着けるというこの下水道の都合のいい仕組みと平仄ひょうそくが合う。どこだかわからない、何かもわからない行くべき場所を見つけるために、この女の子はひとり、暗い下水道をさまよっている。そんな光景が浮かんだ。

 僕はなんとか、彼女の助けになりたいという気持ちでいっぱいになった。

「その場所、僕も一緒に探してもいいかな」

 すると、黒野は背中を丸めて、ランタンをお腹に抱え込む。

「だめ。そこはあたしだけの場所」

 そして、いじけたように言った。なかなか独占欲が強いな。僕は言葉を選び直す。

「言い方間違えた。その場所を探すの、手伝えないかな」

「どうやって?」

「……わかんない」

「……」

 あゝ、ディスコミュニケーション。ふたりは沈黙に落ちる。

「言い方間違えた。えっと、何か僕にできることはないですか?」

「じゃ、一緒に行こ」

「うん」

 即答だった。さっきまでのコミュニケーションエラーは何だったのか。まぁ、まぁ、芳しい返事が得られたので苦しゅうない。僕は殿様気分で、すたすたと歩き始めたお姫様の後についていった。

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