第一章 生きるっていうのはカロリーを消費することだ #6

 しばらく、僕はクラウン氏について、下水道を歩いて行った。一歩一歩、歩くに従って、後ろの灯が消え、前の灯がつく。一応、分岐路やら十字路やら、理屈に沿って道はできているようだが、僕には位置感覚がさっぱりわからない。はぐれたら終わりだと思って、僕はクラウン氏の近くを進むようにしていた。

 と、急にクラウン氏が立ち止まったので、僕はその背中に激突してしまった。

「わっ!」

 僕は吹っ飛んだ。異常な体幹だった。曲がりなりにも鍛えていて筋肉量のある僕を、立っているだけで吹っ飛ばすとは。

「おや、失礼。わたしは無敵なので、触れたものをみな、吹っ飛ばしてしまうのですよ」

 そう言って、クラウン氏は僕を起こしてくれた。わたしは無敵なので、とか、僕も一度は言ってみたいフレーズだなと思った。

「あれが覗き穴です」

 改めて、並んで横へ立った僕に、クラウン氏は鉄格子のようなものを指さして言った。覗き穴というが、まんま排水口だった。下水道視点で覗き込むのは、すごく変な感じがする。

「さあさあ、どうぞどうぞ」

 クラウン氏に促されて覗き込むと、向こう側は屋外だった。ふたりの男女が歩いている。男の方は誰だかすぐにわかった。部活仲間であるトロンボーン平林だった。コーラス部の彼女と歩いている。ふたりとも笑顔だった。平林もあんな顔をして笑うんだ──と僕は心がギュッとなった。なんだこの不毛な感情は。彼女の方は全然知らないが、可愛い子だった。

「おかわいいことですね」

 クラウン氏が言った。僕はその横顔に非難の眼差しをぶつける。

「やっぱり悪趣味では」

「まあまあ」

 カップルはこれから夕飯を一緒に食べにいくところなのか、しきりにイタリアンの話をしている。と、その時、一匹の蛙がふたりの前に姿を現した。どこかの田んぼからすっとんできたんだろう。

「ひゃあっ!」

 なんて、女の子みたいな声を出したのは、意外にも平林だった。彼女の方はというと、逆に「わー!」と目を輝かせていた。

「カエルくんだ!」

 カエルくん。

 気が付いたら、カエルくんは彼女の掌の上でゲコゲコ喉を膨らませていた。すごい。彼女には全然、苦手意識がないんだ。一方、平林の方はてんでダメだった。顔が引きつっている。身体が地面に対してものすごく斜めになっている。平林は都会っ子だから、コンクリートジャングルに生息していない生態系が全部苦手なのだ。彼女はそんなことも知らないらしく、ほら、かわいいね、とカエルくんを平林に差し出している。

 さあ、どうするんだ、平林。彼女の手前、醜態を晒すわけにはいかないぞ。僕は固唾を呑んで見守る。

 そして、そこで起こった光景に、僕は目を見張った。

 平林は彼女にキスをしたのだ。彼女は目をまん丸にして、その掌に載っていたカエルくんは、びっくりしたのか、ぴょーんとどこかへと跳んで行ってしまった。

 これには僕はうなった。平林の、カエルに触りたくないという気持ちが、本当はキスをしたいけど踏み切れない、というこれまでずっと抑えていた気持ちを上回ったのだ。苦手なものを前にするという圧倒的に不利な状況を覆した上、したくてもできなかったことをあっさりとやりのけてしまうとは、すごい。

 彼女は顔を真っ赤にすると、ぱっと目を背けてしまった。平林はちょっと決まりが悪そうに俯いて、ぼそっと言った。

「ごめん、つい」

「ううん……」

 彼女は満更でもなさそうだった。

 僕はうっかり、いいなと思ってしまった。踏み出す勇気を持ちたいと思うことも、それがお互いに通じているということも。それができない僕は嫉妬がましく恋の話を避けるのだ。

 なんて自己嫌悪に入りかけていたら、クラウン氏が僕の前に出てきて手を掲げてみせる。

「──っていうオチです」

「それ、いる?」

 クラウン氏の無粋すぎるセリフに、僕は思わず突っ込んだ。なんか、前にもこういうことをやったような気がする。

「コントですからね、オチをつけなければ締まりが悪い」

「いや、コントじゃないからね」

 まるで道化のパワーで、平林の恋のABCが一歩進んだような言い草だ。というか、まだAにも達してなかったんじゃないか。昼間は見栄張ってたらしい。

「大体、こういう感じで、市中で何が起こっているのかを知れるというわけです」

 鉄格子から離れた後、クラウン氏が言う。僕はげんなりした。

「嫌な知り方ですね」

「一応、過去の出来事の再演も見ることができます。再現ではなく再演、時が戻るわけではないので悪しからず。まあ、その時、その場所に、居合わせた役者が生き物を含めて全員、下水道にいる必要がありますがね」

 クラウン氏は、説明しつつ手を広げてみせる。そこにはさっき、トロンボーン平林の唇を伝導したカエルくんがいた。カエルくんはゲゲゲ、と甲高く鳴くとぴょんと一跳び、排水口から外の茂みへと消えていってしまった。これでもう、あのファーストキスはたぶん永遠に再演不可能になってしまった。なんだかロマティックだったが、そもそも何で再演する必要があるのか、僕にはわからなかった。

「……ていうか、覗き見することで、僕の何が助かるんですか?」

 カッコつきで『覗き見』なんて言うものだから、特別な何かがあるのかと思いきや、本当にただの覗き見だった。下水道ネットワークの物理的なハッカーになり、現実世界の情報をぶっこ抜きまくったとしても、僕の生活が改善するとは思えなかった。

 すると、クラウン氏は真面目な顔をして、両手の親指と人差し指で四角を作って、僕をフレーミングした。

「覗き穴が見せるのは、定点観測ではなくエピソード、地上という舞台で演じられる、生の人間によるコントです。この地下道を巡ることは、その辺を散歩するよりも多くの発見を君にもたらすでしょう」

 トロンボーン平林の例しか見ていない僕には「ほんとか?」という所感しか持てない。

「こんな暗いんじゃ、地上を散歩してる方がマシなような……」

 僕は辺りの暗闇を見渡す。この人にくっついて、あちこち覗いて回るくらいなら、僕は一人でお天道様の下を選ぶ。

 すると、ドゥイン! とクソ重たいエレクトロキックみたいな音が鳴って、僕は思わず飛び上がった。クラウン氏が、そうだったわ、と手を打つ音だった。指パッチンといい、何でいちいち音量調整間違えたみたいにクソでかいんだ。

「そうでした、この下水道はわたしにしかライトがあたらないのです。ゲストはこのランタンをお持ち下さい。地上に戻る時はその辺に置いてってもらえれば大丈夫です。わたしが書き物机の上に戻しておきますので」

 無駄に驚いた心臓を抑える僕に、クラウン氏はランタンを差し出した。キャンプに持っていくようなものではなく、魔法学校に置いてありそうなアンティークなデザインのものだ。これは雰囲気があってなかなか悪くない。

「というわけで、ここからは自由に歩いてもらって構いません。お好きに探検してみて下さい。君が求めているものが見つかるはずです。わたしはだいたい、先の書き物机のところにいるので、ご用命であればそちらまでどうぞ」

「……えっと、書き物机のところってどこですか」

 最初に入った部屋だということはわかるが、暗さと狭さのせいで、方向感覚はとっくに死んでいる。僕は今更ながら、不安になってきた。

 しかし、そこは流石のクラウン氏、何でもないような顔をして即答する。

「どこでも構いません」

 あまりの適当さに僕は引いた。

「えーっ……道案内として最低ランク……」

「いえいえ。この下水道自体、構造が常に変わっています。脱構造建築なのです。地形が地上と連動しているわけでも、地図があるわけでもありません。地下ですらありません。高層ビルの最上階へもアクセスできます。重要なのは、君がどこへ行き、何を見て、何を思いたいか。それだけです。なので、どこでも構わないのです」

「行きたいと思ったところに、なんか知らないけど行けるってことですか?」

「はい、その通りです。そうでなければ、わたしもとっくに迷子です」

 めちゃくちゃ親切な設計をしている。是非、地上の方もそうなって欲しいものだ。

 しかし──僕は特に、行きたい場所も覗きたいものも思い当たらなかった。場当たり的にぶらぶらしても良いのだろうけど、こんな景色も何もない下水道では、行き止まりこそなくても、精神が行き詰まるのが関の山な気もする。

 と、そんな時、僕は彼女のことを思い出す。黒野クロだ。「また会お」と言っていたし、せっかくの機会だ。顔くらい見ていきたい。

「黒野も地下のどこかにいるんですか?」

 僕は訊いた。確か前にクラウン氏が、黒野はひとりではマンホールを開けられないとかぼやいていた気がする。ということは、普段はここで過ごしているのだろうか。

「黒野……ああ、クロのことですか。ええ、彼女のいたい場所にいるはずです」

 そのぱっとしない返答に、僕は嫌な感じを覚えた。

「……いたい場所って、どこですか」

「それはわかりません。いつもあの子の方から、わたしのもとへやってくるもので」

「道化パワーで居場所がわかったりとかは……」

「道化を魔法か何かと思ってないですか?」

「思ってますけど」

 随分前から思考停止をしている身にもなって欲しい。

「まあ、彼女の縄張りをうろついていれば、そのうち見つかるんじゃないでしょうか」

「縄張りって野良猫じゃないんだから」

「え? 猫ですよ」

「でも、人じゃないですか」

「はぁ。まあ、それはこの際、どちらでも良いのでは」

 クラウン氏はのんびりしたことを言うが、本当にどちらでも良いのだろうか。結構、重要なことじゃないか? 未だに黒野のことははっきりしない。

 と、そこでクラウン氏は、ンッンッンーッ! と無駄に特徴的な咳払いをした。

「さて、先ほど出したクイズの答えがやって来ましたね」

「答え?」

「戯曲『ゴドーを待ちながら』で、ラストにゴドーは来たでしょうか。或いは来なかったでしょうか」

 そういえばそんなクイズを持ち出された気がする。まだ生きていたのか。僕の答えは「しらねー」だ。普通、パネラーのやる気がなかったら、なかったことにしたくなるものなんじゃないのか?

 クラウン氏は「正解は──」と、誰も楽しみにしていないのに引っ張りに引っ張って、やがて答えを発表した。

「ゴドーは来ない、でした!」

「そうですか……」

 確かに来なさそうな雰囲気はしたけども、こんなに興味のないことはない。せめて、飴玉の一個でも賞品にしておいてくれ。

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