第一章 生きるっていうのはカロリーを消費することだ #5

「ウオオオオオオオオオオオオオオオオ!」

 僕は吠えた。筋肉がうなりを上げて、器具を押しのける。アホみたいに重い、だが、押しのけられないほどでもない。ギリギリの負荷が僕の闘争心をかき立てた。

 全身の筋肉が血を噴きそうなくらい滾っている。限界だ。崩れ落ちそうな肉体に、僕の心は冷酷に指示を出す。ラストもう一回。

「ウワアアアアアアアアアアオオオオオオオオオオ!」

 その日のノルマをやりきって、僕は膝をついた。ぜえぜえと呼吸を繰り返して、酸素を肺の奥まで取り込む。それからスポドリの容器を手に取り、バケツに注ぎ込むようにドカドカと喉の奥に流し込んだ。

 なまじ吹奏楽器をやっているせいで、肺活量の豊かな僕はバカみたいにでかい声が出せてしまう。周りのトレイニーたちも僕のバカ大声に感化されて、負荷を上げてドワーーーー! とか、ヤーーーーー! とか叫び散らしている。マジでうるさい。苦情を言いたいところだが、元はといえば僕のせいだった。大人しくやりたい人には本当に申し訳がない。

 僕は疲労困憊でトレーニングスペースを出て、シャワー室へ向かった。服を脱いで、汗を洗い流す。熱いとも冷たいとも言えない温度の水が、全身を伝って流れ落ちていくのを感じながら、僕はただひたすらに呼吸を整える。

 身体を動かすと、嫌な気持ちが吹っ飛ぶとか、余計なことを考えないで済む、と言う人もいるけど、そしてその気持ちもわかるけど、僕は身体を動かして疲れると、とことん嫌な気持ちになるタイプだった。疲れることの苦しさに伴って、父のこと、部活のこと、そしてこれから先のことなど、多種多様な不安のちゃんぽんが止めどなく頭の中に湧いてくる。どんよりと落ち込んでしまう。昔から疲れることは嫌いだったから、そういう体質なのだろう。

 鉛板を頭の裏側に張り付けられたような気分でシャワー室を出て、個人用の貸しロッカーを開けると、荷物と楽器のほか、銀色の棒状のものが目に付いた。クラウン氏からもらったオープナーだった。またの名を、啓蒙の杖。受け取ったあの日から、ジムのロッカーに入れっぱなしにしていたのだった。

「死にたくないのに死にたいのさ……」

 それを見た途端、線路に上がった時の非日常感と共に、クラウン氏の嘯いたタイトルを思い出す。

 ──わたしと共に世界を笑いたくなったら、それを使って、その辺のマンホールを開けてみてください。

 世界を笑う、か。今の僕には笑う力も残されていない。日々をやり過ごすのに精一杯だ。でも、だからこそ、試してみようという気になった。こんな世界を笑えたら、ギャグだといって下らないものにできたなら、どんなに楽なことだろう。

 それに、黒野という少女のこともあった。僕は何故か、彼女のことが気にかかっていた。結局、彼女は何者なのか。本当は猫なのか。何を探しているのか。それは僕と何の関わりがあるのか。普段は何を思いながら、何をして過ごしているのか、クラウン氏とはどういう関係なのか──って、少女漫画の主人公かよ、と愕然とするくらいの想いぶりだった。

 僕は一応、荷物はロッカーに置きっぱなしにして、啓蒙の杖a.k.aマンホールオープナーだけを持って、ジムを出た。案の定、じろじろと見られた。子供に指さされて、「キーブレード!」とお母さんに言っていた。まず色が違うね、と僕は心の中で突っ込みを入れておく。

 マンホールは注意してみると、町のどこにでもあった。三つくらい同時に視界へ入ってくる場所もある。人目のつくところで開けるのは羞恥心があって厳しい。ぐだぐだと歩き回って、結局、線路近くの裏道にあるマンホールを開けることにした。黒野と初めて会った場所の近くだった。

 僕はオープナーを両手に持ってマンホールに臨む。すごく緊張した。マンホールなんてありふれたものだけど、その中に実際に入る権利を持つ人は一握りしかいない。多くの人にとっては未知の世界だ。そういう意味では、ワンダーランドに踏み込もうというのだ。

 マンホールのフタには小さな穴が空いていて、そこにオープナーの先端、くいっと曲がったところを差し込み、テコの原理でフタを押し上げる。誰から説明を受けたわけでもないけど、きっとそうだろうと僕は想像して、その通りにやってみたが思ったよりも硬い。トレーニングじゃないんだから、と呆れながら、僕はオープナーにかける力をぐっと強めた。

 突然、オープナーの抵抗がなくなり、カンッ、という派手な音とともにマンホールのフタが吹っ飛んだ。フタはカンカンカン、とまるでビール瓶みたいな軽い音を立てて数回バウンドすると、コロコロとローリングして、小銭口に吸い込まれるように塀と塀の間を通り抜けていってしまった。

「えー……」

 フタがどっかいってしまって、僕は呆然とする。閉められないじゃん。もう行くしかないということなのだろうか。まぁ、もとよりそのつもりだったから、良いんだけど。ただ、このままでは誰かが落っこちてしまうかも知れないので、そのあたりにあった三角コーンを工事中っぽく見えるように置いておいた。

 僕はマンホールの奥をのぞき込む。夕方で日が随分と傾いていたのもあって、中は塗りつぶしたように真っ暗だった。どうなっているのか見通せない。というか、こういうのって上り下りするためのハシゴみたいなのがついてるイメージだったんだけど、この縦穴にはそういうものは見当たらなかった。運悪く、そういうマンホールを引いてしまったのだろうか。

 いや。僕はクラウン氏の言葉を思い出す。

 ──最初は勇気がいるでしょうけど、誰もが通る道……誰もが落ちる縦穴なので、頑張って下さい。

 誰もが下りる縦穴、ではなく、誰もが『落ちる』縦穴、と言っていた。

「……」

 マンホールは暗い面で僕を覗き込んでいる。一応、スマホのライトで照らしてみたが、黒色無双でコーティングでもされているのかってくらい見えない。水音も聞こえない。中に飛び込めば、『不思議の国のアリス』な感じになるのかも知れない。或いは、ただ乾いた下水道に叩きつけられて、足首を挫くだけか。

 確かに勇気がいる。僕は生唾を呑み込んだ。引き返すか? 何事もなかったかのように。それもひとつの手だ。どこかへ行ってしまったフタも、ほとぼりが冷めれば帰ってくるだろう。きっと全部、元通りになる。

 でも──どのみち、待っているのは道化だ。

 僕はクラウン氏と再び会いたいと思ってしまった二%のカスタマーだ。

 腹を決めて、マンホールの縁に立つ。オープナーをその辺に放り投げる。からんからん、と甲高い音が辺りに鳴り響く。

 僕はぎゅっと息を止めると、両足を揃って踏み出して、飛び降りた。

 そして、すぐに着地した。

「あっさ!」

 浅い。穴の暗さに対して、穴の深さが低すぎる。正味、高さは一メートルくらいしかなかったんじゃないか。あまりにも浅すぎて、僕はずっこけてしまった。

「おや……」

 顔を上げると、そこにはぽつんと書き物机と椅子が置いてあって、クラウン兜坂氏が本を読む格好で視線をこちらに向けていた。

 というか、あれ? 僕は少し混乱して、辺りを見渡した。何故か、結構広い空間にいる。落ちたのはほんの一メートル程度だと思ったのに、天井はそこそこの高さがある。四メートルくらいはありそうだ。幅も奥行きも車が行き交えそうなくらいある。おしゃれなランプっぽい照明もついていて、シックな空間に仕上がっていた。

「これはようこそ、わたしの道化に」

 クラウン氏が立ち上がりながら、言った。本は持ったまま、出迎えるように両手を広げる。なるほど、僕が電車に轢かれても、ただただ吹っ飛んで、陸橋の側面にめり込む程度で済んだのと同じような感じで、マンホールの下の空間が突拍子もないスケール感になってしまったというわけか。別に、何も「なるほど」でも「というわけか」でもないが。

「さて、伊月クン、さっそくですが君の考えていることを当ててみせましょう」

「伊庭都月です」

 早速、名前を半分ずつ間違えている。なのに、クラウン氏は特に気にした様子もなく、思考読みを披露してくれた。

「ずばり、この場所、家賃いくらだろう……でしょう」

「違います」

「一兆円です」

「小学生かよ」

「とんでもない」クラウン氏は首を振った。

「この国は、下水道の維持に毎年一兆円近く費やしているんですよ」

 ぐぬぬ、と僕は足を引っかけられた気分になった。

「でも、あなたが払っているわけじゃないでしょ」

「そう。わたしは皆様の支払っている税金によって、この場所に住んでいられる。ありがたいですね。ま、ここは下水道であるような、ないような、そんな場所ですけれども」

 確かに、意匠は下水道だが、汚水も流れていないし、腐臭もないし明るい。下水道ではないといえばそうだけど、まあ、下水道といっても差し支えないような気がする。

「それで、何の用ですか?」

 クラウン氏は椅子に座り直し、本を開き直してから言った。いや、今までのやりとりは挨拶だったのか。僕は面食らった。

「何の用って、クラウンさんが良かったら来てって言ったから来たんですが……」

 オープナーを渡す代わりに、詳しい説明を切り上げたんじゃなかったっけ。クラウン氏は思案するように斜めを向き、やがて僕の方をまっすぐに見て言った。

「ふむ。では、クイズです」

「え?」

「アイルランド出身の劇作家サミュエル・ベケットの戯曲『ゴドーを待ちながら』で、ラストにゴドーは来たでしょうか。或いは来なかったでしょうか」

「しらねー……」

「では、答えが来るのを待ちながら、次の問題」

「帰り道はどこですか?」

「あっ、後ろにありますが、帰らないでくださいね。君が来てくれたのが嬉しくて、ついクイズを出してしまったんです。そう、言うなれば、嬉クイズですね」

「そんな嬉ションみたいな」

「ええ、もちろん、わかってますよ、伊月クン。下水道ネットワークは津々浦々、人の生活圏ならどこにでも通っている。その上に住まう人たちのことは、何でもかんでもお見通しです。まさに君は助けを求めている、そうではないですか?」

 クラウン氏ははっきりと僕を見て、はっきりと訊いた。こういう核心に迫る時だけは、はっきりしおってからに。

 しかし、もろに突きつけられると、少し返答に困った。助けを求めているかどうか。求めているとも言えるし、求めていないとも言える。どっちとも言える。でも、突き詰めて考えてみれば、僕が求めるのは具体的な助けではなかった。借金を肩代わりして欲しいとか、ストーカーを撃退して欲しいとか、地球を襲う隕石を破壊して欲しいとか、そういうものではなくって──具体的な助けみたいなものはいらないが、なんとなく全般的に苦しいので、それを紛らわして欲しいというだけのことだった。

 色々と考えを巡らせる僕に、クラウン氏は言う。

「わたしはあらゆる意味で君の力になれる、当面はそれだけを覚えておいて下さい。だからこそ、クロを通じて君との接触を試み、この道化の舞台に上がってもらったわけです。ただ、わたしの道化をどう使うかは、君次第でしょう」

「道化をどう使うか……?」

「人類は笑いが大好きですから、昔からおかしさを生むためにありとあらゆる手法が開発されてきました。君が電車に轢かれて無事だったのは『誇張』によるものです。他に例えて言えば、花火と一緒に打ち上げられても黒焦げで済む、なんてマンガでよく目にしますね」

 そのお陰で、僕は無事だったというわけだ。いや、お陰かどうかはよくわからないが……。

「というわけで、早速『覗き見』に行ってみましょうか」

 クラウン氏は踵を返して歩き出した。すると、ライトがふっと消え、回りがにわかに暗くなり始める。クラウン氏の居場所だけ、ライトが点灯するようになっているらしい。置いて行かれると、文字通り辺りが暗黒になってしまう。僕は慌てて、その後を追った。

「覗き見? って思い切り犯罪なんじゃ……」

「風呂場などを盗み見るようなニュアンスがあるからでしょうか。しかし、ある意味ではドラマや映画も、警察の会議の様子とか、学校での様子とかを盗み見ているものだと思いませんか? 漱石の『吾輩は猫である』も猫による生活の覗き見でしょう。それと一緒ですよ」

 覗き魔が自分を正当化するための詭弁にしか聞こえなかったが、多分、クラウン氏の世界観では真実なのだろう。道化師だから、スクリーンを見るように現実を眺めることができる。道化師だから、っていう理由もよくわからないが、そこは考えてはいけない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る