第一章 生きるっていうのはカロリーを消費することだ #10
遮光カーテンが閉められ、テレビが誰にもいない空間に向けてニュースを映している。どこかの地元イベントを取材していて、背景ではマーチングバンドによる軽快なマーチが流れている。台所では錠剤の容器が置いてあって、その傍らにはまだ帰ってきていない家族のための夕飯が用意されていた。今晩はピラフだ。母の作るピラフはいけない物質でも入ってんじゃないかと疑うくらいうまい。いくらでも食べられる。でも、今の僕は喜べなかった。
やがて、母が入ってきた。すっかり寝支度を済ませているのに、何か腑に落ちないような顔をしている。やり忘れたことがありそうで、なさそうな、落ち着かない感じ。あの日から、ずっとそうだ。母はその正体を探すようにあちこちに見渡して、テレビに目をつける。マーチングバンドの隊列が賑やかな音楽を奏でながら行進しているのを、見たくもない、というようにリモコンを手に取って消した。静けさが来る。大きな溜め息をひとつ。
それから台所に行くと、ラップのかかった料理を見つめる。二枚のピラフの皿──兄貴は大学に入って家を出ていて、母の食べた皿はもう洗って水切りのカゴに立てかけてあった。
突然、僕は胸のあたりが苦しくなった。それも比喩じゃなくて、本気で意識がぼやけるくらいのものだ。わけもわからず目を白黒させていたが、呼吸を忘れているのに気がついて、慌てて息を吸う。身体の強張りが少しだけ和らいだ。
「……」
そんな僕を、黒野が不思議そうに見ていた。置いてけぼりにしてしまっているな、と感じて僕は注釈をしてやる。
「ここは僕の家なんだ……あの人は僕の母親」
「家。どうしてあんたは苦しそうなの?」
なんて直球な質問なんだ。僕は黙り込んでしまった。幸い、黒野はじっと返事を待っていてくれた。その態度は僕を少し落ち着かせた。
「……僕のお母さんは、睡眠薬とか、不安を抑える薬を飲まないと眠れないんだ」
僕は、やっとの思いで言った。直接の答えではない、でもここから言うしかなかった。僕がそう告げたそばから、母は用意していた錠剤を呑んだ。
「毎日、悪い夢を見て、眠るのが怖いんだって」
母は薬を服用すると、わかりやすいように眠たげに目を擦ってみせる。
「悪い夢」
黒野が小さな声で呟く。僕は排水口越しに、用意された晩ご飯の皿を指さした。
「ピラフの皿、ふたつあるの見える……」
「うん」
「あれ、ひとつは僕の分で、もうひとつはお父さんの分」
「うん」
「でも、もう、僕のお父さんは死んでるんだ。だから、もう帰ってこない。帰ってこないのに、お母さんは毎日朝昼夜、お父さんの分のご飯を準備してる。何でだと思う? ……実は、お母さんは、お父さんが死んだことを、全部悪い夢だと思ってるんだ。それがあまりにも辛い出来事だったから、精神的なダメージがめちゃくちゃ酷くて、その苦しみから逃れるために、現実を夢の領域に追いやっちゃった。逆転させたんだよ。お母さんの中では、毎日夢の中でお父さんの死を認識して、凄まじいショックを受ける。それで、朝になって、目覚めて、ホッとする。なんだ夢か、ってね。そういう感じで毎日、夢オチを繰り返して……そうやって、精神の安定を保ってるんだ」
僕は一気にまくし立てるように言った。
排水口の中で上演されている無音映画の脚本をまくしたてる弁士のように。
「僕たちは何度も何度も、説明したんだよ。病院にも連れて行った。お父さんが朝起きた時にはいなくて、夜眠る時にはいないのは、起きる時には出勤していて、眠った後に帰ってきているからじゃない。死んだからだって。でも、その度にお母さんは現実を受け入れられなくて、激しく苦しんで、大暴れして、やがて眠りに就いてしまう。そうやって全部、夢の中の出来事にしてしまったんだ。お母さんがそうなった時、兄貴は彼女を妊娠させて向こうの家族と大揉めしてた。僕が助けを求めても『それどころじゃない』って怒鳴ってきて大喧嘩した。それから全く連絡がとれなくなった。叔父さんは親身だけど仕事が忙しくてかかりきり、というわけにはいかない。他の親戚は事態を全然わかってなくて、信じられないくらい頼りにならなかった。僕がやるしかなかった。僕が守るしかなかった。僕だけが……この、僕だけが」
僕は自分の顔を指さして言った。黒野はその指の示す先を、黒い眼でじっと見つめた。
「僕はお父さんが生きているという幻想を残すことにした。まあ、主にやってるのは、お父さんのために用意された料理も僕が食べることかな。せっかく準備したのに、残ってると不安になっちゃうだろ? ただ、二人分も毎日食べてたせいですごく太って、そんなに、って思うくらい友達にいじられたり、心配されたんだ。もちろん、お母さん自身にもね。これじゃあヤバイと思って、慌ててジム通いを始めて、今じゃこの通り」
僕は黒野の手を取って腹筋を触らせる。さっきと真逆だ。女の子が鍛えてる腹筋に触ることは許されている。黒野は淡々と触ったけど、その手つきは年老いた人のように温かかった。
「生きるっていうのはカロリーを消費することだ。僕はこうやって、お父さんの摂取するはずだったカロリーも消費して、お父さんが生きてることを演出してるんだよ。他には、たまたま海外旅行に行ってて、何にも知らなかった近所の木田さんへの辻褄合わせとか、お母さんのお父さん宛のメモとか、死んでるのに届くダイレクトメールを処分したりとか……これ、一度運悪く見つかっちゃって、咄嗟にめっちゃ喧嘩してるって言い訳してあるんだよね。あとは、あぁ、車検の時は困ったな。叔父さんになんとかしてもらったっけ。もともと車なんかロクに乗る機会もなかったから平気だったんだけどね」
僕はそこまで一気に喋った。黒野は無表情だった。台詞の残響が下水道に残った。
「もちろん、いつまでもこんなことを続けるわけにはいかないってわかってる。このまま偽りを続けていればきっといつか限界が来る。でも……今の僕にはそれをするしかない。いつまでも、いつまでも……僕はこうして道化を続けるしかないんだ」
「つらくないの」
そこまでずっと、何も言わずに聞いていた黒野がそう訊ねてきた。
やっぱり通じないか。僕は失望に似た気持ちで首を振った。
「つらいとか、つらくないとかじゃないんだよ。僕がやらなくちゃいけないんだよ。僕がやるしかないんだから」
「そういうのは置いといて」
黒野は手元の空気を両手で挟んで、ぽいっとどこかへ放り投げた。なんて下手っぴなパントマイム。僕は毒気を抜かれて、ぽいっと投げられたそれを目で追ってしまう。
「放り投げた……」
「あんたはつらいの? つらくないの?」
シンプルな二択、それなのに、僕は逃げ場を塞がれたような気がした。
「……つらくないよ」
「ほんと?」
黒野はじっと僕を見つめる。ランタンに照らされた白い肌でさえも黒く思えるほど、遠く澄んだ黒い瞳が僕を見つめていた。包み込むでもなく、責めるでもなく、ただ、そこに視線があった。
「……ほんとだよ」
「ふうん。変なの」
僕が黒野はちょっと曇った表情をして首をかしげた。
「あたしはつらいのに、あんたはつらくないって言う」
「どうして黒野がつらいんだよ」
「あんたが言うことを聞いて、つらい、ってなったから」
僕は思わず、目を見張った。僕は黒野に辛いと思わせてしまったのか。この生活の途方もない不条理を共感させてしまったのか、と愕然とした。
その時──僕は何か罠にかかってしまったような気がした。
共感?
黒野は共感してつらい、と思った。共感とは誰かの気持ちを自分のものとしても引き受けることだ。黒野がつらいと思ったということは、その元となる感情は僕の方になくてはならない。僕が見てはならない、僕が言ってはならない、けれども確かに息づいている感情──。
黒野はなおも、僕をじっと見つめている。生まれて初めて、その黒という色に優しさを感じた。
そうか。そうなのか。そうだった。僕はきっと、ずっとこう言いたかったんだ。
「……つらいに決まってる」
言ってしまった、と僕は思った。
これまで見ないようにしてこれた、ないように振る舞うことでなんとかしてきた感情の存在を、認めてしまった。せっかくこれまで我慢してこれたのに、この黒の女の子を相手にした途端に、だめになってしまった。
そう思った瞬間、眼球が沸騰したかのように目頭が熱くなった。同時にとても嫌な感じが胃の底からパキッ全身に走った。それは浮遊感に似ていた。地面が無くなって内臓が浮く感じ。
でも、それは、解放でもあった。
僕がこれまで、散々貯め込んできた感情の堰がぷっつりと切れてしまった。
「つらいに、決まってる、だろうが──! バカ──!」
僕は叫び散らかした。ぶわっと、一気に視界がなくなった。暗闇でなく猛烈に溢れた涙のせいで。それはことあるごとに、流したかった涙だった。鼻水だった。唾液だった。顔面がずぶ濡れになった。僕は全てを拭おうとして、惨めにも失敗して、あられもなくなってしまった。
カラン、とランタンを取り落とした音がした。光が揺らいで、視界が明滅する。
「あああああ、つらい、つらいんだ、僕は──」
つらい。そう。なんて的確な言葉なんだ。こんなにもシンプルに、的確に僕の惨状を言い表す言葉はない。この言葉ひとつ取らせるだけで、僕は泣き散らし、嗚咽を吐き、崩れ落ちるだけの人形になってしまう。
なんて情けない。しょうがないんだ。でも、情けない。恥だ。生きている恥だ。しょうもなさすぎる。何のために生きてるんだろう……僕は、何のために……。
「ふふ」
その笑い声は、僕の耳元で凜と響いた。
「やっぱり」
いつの間にかへたり込んでいた僕の隣に、同じように座り込んだ黒野が寄り添っていた。
彼女は、本当におかしそうに笑っていた。
ええ?
それが、あまりにも可愛いくて、僕は思わずポカーンとしてしまった。たったさっき噴出した嫌な感情の奔流が、僕の涙や鼻水といった液体と共に、ぴたっと分泌をやめてしまった。魔法をかけられたように。
「つらいのに、つらくないっていう、ギャグ」
そう言って彼女は笑った。
ギャグだって? この僕がどれだけの思いで今の生活をしているのか、わかって言っているのか?
衝撃で真っ白になった僕の頭の中に、クラウン氏の声がリフレインする。世界を笑いたくなったら──そうだ、僕は笑いたかったんだ。父の死んだ世界を。父のいないフリをして母を喜ばせる道化として、笑いたい……あるいは、誰かに笑ってほしかった。
そして、今、目の前で笑ってくれている女の子がいる。
その笑顔は僕の人生を張ったギャグに報いるものだった。僕の喉に詰まっていたギャグは、その飛び跳ねるような笑い声にほぐされて、胃の底へと流れていく。
「ああ……」
途端に、さっきまでつらいつらいと騒いでいた自分がバカらしくなってきた。どうしてこんなに思い詰めていたんだろう。とっとと吐き出してしまえばよかったんだ。笑いは世界を解きほぐすものなんだ、と知った。
黒野はおかしさの余韻を面白がるように、ふふふ、と笑う。
「嘘吐くなんて、変なの。気持ちなんてすぐわかるのに」
「……そうだよな。変だよな。ごめん、ありがとう、黒野」
僕はかなり楽になった。思えば、全て誰にも言わずに抱え込んできたことだった。兄貴なんか未だに音信不通だし、叔父さんや従姉の華礼は事情を知っている人たちだけど、僕は余計な心配をかけないように気丈に振る舞ってきた。人に正直に話すことができたのは初めてだ。僕の中でごちゃごちゃしていた感情に、整理をつけることができたんじゃないかと思う。
「もう、つらくない?」
黒野が訊く。僕は頷いた。
「うん、頑張ろうって気持ちになれたよ」
「よかった」
気がつけば、黒野はいつものつーんとした調子に戻っていた。けれども、僕には前よりも態度が柔らかくなっているように感じる。勘違いかも知れないけど。
ふと、頭の中に幻影が浮かんだ。僕の心の中から消えてしまった、長く黒い髪の清楚な少女の面影──その瞬間、変な緊張が僕を襲った。呼吸が早足になる。
いや、変なことを考えるな。でも──、……。
「ねえ、黒野。話を聞いてくれたお礼、じゃないけど……ご飯食べていきなよ」
「ごはん?」
「そう……その、段階を踏みたいって言っちゃったし……」
僕は立ち上がって、排水口の向こうを見た。眠りについたかのように真っ暗になっていたけど、電化製品の灯りがぽつぽつ見えるので、ただ母が寝室に引っ込んだだけのようだ。
「うちで……お父さんの分だけど。君はもうちょっと体重つけた方が良い、と思ってさ」
「いいの?」
「いいよ。僕は別に食べたいわけじゃないから……どうせなら分け合う方が良いし」
「うん。なら、食べたい」
黒野もすくっと身を起こして控えめにうなずいた。僕の胸にぱっと花火のように喜びが湧く。
「じゃあ……って思ったけど、ここからじゃ入れないよな」
目の前に家があるのに鉄格子がそれを阻んでいる。なんともむずがゆい。
と思っていたら、黒野は突然、排水口のフタをガチャガチャと揺らし始めた。その様子を見て、僕はあることを察する。
「もしかして、これ外れるの……?」
もしそうなら、大幅な時短になる。僕は黒野にどいてもらってフタを引っ張ってみた。
「ん……?」
しかし、どんだけ頑張ってもびくともしない。溶接でもしてあるみたいだ。
「ちょっと待ってよ……ウオオオオオオオ!」
こういう時、僕はどんどんムキになってしまう。両腕の筋肉を最大限に突っ張って引っ張り続ける。黒野は頑張り続ける僕を、不思議そうに見つめていたが、やがて一歩踏み出してビクともしない排水口に触れる。
「これ、押すんだよ」
そして、親切にも自分でフタを押してくれた。ポコン、と簡単に外れる。
僕は思わず笑顔になってしまった。
「ありがとう。さっきはなんでガチャガチャしたの?」
「ああしたら、いつも兜坂が開けてくれるから」
「ドア開けてもらうの待ってるお嬢様じゃないんだから」
お嬢様にしてはマナーが最悪だけど。
ともあれ、これで遠回りをしなくて済んだ。僕は靴を脱いで、開いた排水口から家の中へと入っていく。電気をつけると、そこは確かに勝手知ったる自分の家の居間だった。排水口はどうなってるんだろう、って思って振り返ったら、壁には見事な大穴が開いていて、そこから黒野がひょっこり顔を覗かせていた。自分の家に異空間がある。ドラえもんに接してこなければ、到底受け入れられない光景だったろう。
台所に置いてあるふたり分のピラフはまだ温かかった。レンチンする必要もなさそうだ。父宛のメモもないので処分するべきものもない。僕はふたつの皿とスプーンを持って、居間に戻った。黒野は椅子に座ってキョロキョロしていた。
「いただきます」
「いただきます……」
家ではめったにする機会のない「いただきます」を言って、ピラフに口をつける。うまい。相変わらず危険な調味料か、合法的なハーブでも入ってそうなうまさだ。
黒野も気に入ってくれたのか、よく食べている。でも、スプーンに乗った米の量は親指の爪程度しかない。小食なんだろうか。
「おいしい?」
僕は訊いた。黒野はスプーンを止めると、もぐもぐ咀嚼して、ごくんと呑み込んでから、こくこく頷いた。
「おいしい」
「そう、よかった」
別に僕が作ったわけじゃないのに、ほっこりした。母のピラフはうますぎると常々思っていたから、意見を言い合える相手がいるのは嬉しかった。
「これ、お母さんがお姉さん……まあ、僕からしたら伯母さんから、唯一ちゃんと教えてもらった料理なんだって。普通はチャーハンとかなのに変だよね。これでお父さんの胃袋も仕留めたって。僕も兄貴も大好きで、おかわりを巡って喧嘩してたな……」
つい、めちゃくちゃローカルな話を喋ってしまう。黒野はじっと自分の前のピラフを見つめていたが、やがて顔を上げて言った。
「あたしもこれ好き」
「そっか。一緒だね」
「一緒……ふふ、同じこと思ってる。変なの」
黒野は小さく笑ってみせる。変なところで笑う子だ。でも、僕はそうやって笑う黒野に、心惹かれていることに気がつく。。
「うん、おかしいね。同じように思うなんて……」
僕たちは当たり前のように通じ合えると思ってるけど、それって、途方もないギャグなのかも知れないな、とか考えながら、僕はピラフを口に運んだ。
と──その時はかなり和んでしまったが、しばらくして僕はめちゃくちゃ肝心なことを思い出した。
「っていうか、ここが黒野の探してる場所って、さっき言ってなかった?」
「あ、そうだった」
黒野も今更、思い出したように言うと、やおら立ち上がってうろうろとし始めた。テレビの前、母の蔵書前(フランス文学強め)、ソファをぐるりと巡って、台所に行き、冷蔵庫とカップ麺の在庫を覗き、それから僕の向こう正面に戻ってきて報告した。
「ここがあたしの探している場所か、よくわかんない。でも、半分くらいそうな気がする」
半分くらいはそうって。アンケートの選択肢じゃないんだから。
「なんか、もっとヒントはないの。こんな匂いがする場所とか……」
「うーん……疲れた大人の背広の臭い……」
「ほんとにどこを目指してるわけ?」
僕が呆れつつ言うと、黒野は別にふざけているわけじゃなかったらしくて、しゅんとしてしまった。
「ほんとにわかんないの。でも、その時が来ればわかるってことはわかる」
「その時って?」
「わかんない」
わかんないことだらけ、現実と同じだ。僕は匙を投げた。いや、正確には、僕はピラフを食べ終わってスプーンを置いた。黒野はというと、もう全くスプーンが動いておらず、ピラフもほとんど残っている。
「もうお腹いっぱい?」
「……うん」
心なしか元気もない。残したことを、悪く思ってるのだろうか。
「いいよ。どうせ僕が食べるやつだったから」
僕はそう言って、黒野の前の皿を自分の方へ引き寄せると、残りの始末にかかった。ざっくり合わせて千キロカロリー。ウォーキング五時間分の熱量だ。当然、そんな時間はないので負荷量で誤魔化す。エネルギー代謝は有酸素と無酸素で違うのだけど構ってらんない。そんな無茶が僕の日常だった。
その時、家の壁に空いた大穴から、ぬっと人影が覗いた。
「わあっ!」
僕は驚いて声をあげてしまった。黒野がさっと振り向く。注目が集まる中、壁から現れたのは、クラウン氏だった。
「おや、驚かせてすみません。排水口のフタが外れた気配がしたので点検に」
「びっくりした……」
心臓を抑える僕をよそに、クラウン氏は家の中をあちこち見渡す。
「ふむ。見たところ、伊月クンの自宅ですね。どうしましょう、今日はこのままお帰りになりますか」
このままお帰りになるというかもう既に帰っているんだけど、クラウン氏が訊こうとしているのはそういうことじゃないのはわかる。いろいろと複雑だ。まあ、夕飯時という時間だし、引き際としてはちょうど良いかもしれない。
「えっと……じゃあ、そうします。その壁の穴はどうなるんですか」
「ご安心を。左官職人を手配しますので」
「……請求先は前もらった名刺の住所でいいですか」
「高校生のくせによく心得てますね。冗談ですよ。フタを閉めれば元通りです。コントの背景セットみたいにね。さ、君も帰りますよ」
クラウン氏に声をかけられた黒野は、びくっと身体を震わせると、ばっと伏せてカーペットにしがみついた。
「や!」
「やーじゃないですよ。君、ひとりでマンホールもフタも開けられないでしょう」
「え? フタ、さっき開けてましたけど……」と僕は言う。
「それはあなたが触れたからでしょう。この子は猫なもんでね、どこでも入ってしまうからロックをかけてるんですよ」
クラウン氏は蜘蛛みたいにへばりつく黒野を引っ張りながら答える。黒野が本当に猫かどうかは置いておいて、確かにコンビニや美術館に猫が入って一騒動はあるあるネタとして鉄板だ。
「いいもん。あたしここに住む」
「あらあら。すいませんねえ、本当に、この子ったら……おほほほ」
クラウン氏はぐずる子供の親みたいなことを言って、一息に黒野を床から引き剥がして担ぎ上げた。ブチッ! と聞こえた。文字通りの爪痕を残していってくれたわけだ。黒野のやったことなので、僕は怒るに怒れなかった。
クラウン氏はそのまま、居間に空いた大穴を跨ぎ超して下水道へと戻っていく。それから、思い出したように振り向いて言った。
「あ、伊月クン、君、啓蒙の杖を道ばたにほっぽりだしていきましたね」
啓蒙の杖……ああ、オープナーか。確かに、開いたマンホールのところに置いてきた気がする。
「あ、そうですね、勇気を出すためにほっぽり投げちゃったんですけど……」
「勇気を出すために! 実にいい言い訳です。今回は特別に、おまけで、サプライズとして、夏季賞与として、アズ・スーン・アズ、もう一本差し上げましょう。ま、これは、君がほっぽったのを回収してきたわけで、別に他のもう一本というわけじゃないですが」
クラウン氏は全く意味のないことをくどくど述べると、腕を伸ばして僕の家の居間側の壁にオープナーを立てかけた。向こうにあった僕の靴も並べて置いてくれる。仲居さんかな。
「下水道はいつでも開かれています。また、いつでも来て下さいね」
「……バイバイ」
クラウン氏に担がれた黒野が、不承不承という風に手を振る。
「またね」
僕が手を振り返すと、黒野はようやく納得したような顔をして、手を下ろした。
「おやすみなさい。わたしはいつでも、君のすぐそばにいますよ」
クラウン氏はそう告げて、その辺に落ちていた排水口のフタを手に取り、向こう側から穴を塞いだ。切り取られた空間はスポッと消滅し、いつもの家の居間へと変わり果ててしまった。いや、元に戻っただけなんだけど、突然しんときた静寂に、狐に包まれたような気分になる。白昼夢だったんじゃないかとカーペットを見たら、少しハゲていたので現実のようだった。
「……」
僕はふたり分の食器を台所に持っていき、流しで洗いながらぼんやりと振り返ってみる。
確かに、僕はクラウン氏の言う通りに、マンホールへ勇気を持って飛び降りたことで、自分の気持ちを吐き出し、笑い、整理をつけることができた。
でも、僕が道化の舞台に上げられたのは、きっとそれが理由じゃない。黒野だ。
黒野の目的は、とある場所を探すことだ。それがどこかはその時になればわかるという。でも、「半分くらい」は僕の家ということらしい。黒野は最初からいやに僕に懐いていたけど関係あるのだろうか。いくら記憶を探っても、そういう幼馴染みがいた記憶はないし、これは一応断っておくと、猫を飼ったことも触れたこともない。
それなのに、クラウン氏は、何か僕に期待しているような気がする。何なんだ。謎だった。
しかし、半分くらい、か……何で黒野はそんな言い方をしたんだろう。そういえば安藤が部活を辞める理由も、半分が僕とか言っていた。僕の知らないところで流行ってるのか。
「あっ!」
その時、脳裏に電流が走った。
「荷物、全部ジムに置いてきた!」
楽器も楽譜もセットでロッカーでお留守番にしていた。部活は九時から始まり、ジムは十時に開店する。遅刻確定だった。僕はがっくり来た。まあ、これがオチってことで、この家の排水口は眠りに就くことだろう。
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