第一章 生きるっていうのはカロリーを消費することだ #1

 生きるとは、カロリーを消費することだ。

 僕は電車に吹き飛ばされた後でも直帰せずに、習慣通りジムに寄ってカロリーを消費してから家路についた。

 ジム通いといっても、ボディビルに凝ってるわけではなく、去年の秋頃から体重が急激に増えてしまって、からかわれるやら心配されるやらで酷い目にあったので、今年の初めからお年玉の中から予算を確保して通うようにしたのだ。ここでがっつり身体を動かして、半年くらいでなんとか元の体型に戻し、そのまま習慣として続けている。

 僕の家はありきたりな住宅街の中にあった。都心まで一時間までの駅から徒歩十五分。近くのスーパーまで徒歩十分。コンビニも徒歩十分。典型的なベッドタウンの中の、売れ残り物件を運良く拾い上げたらしかった。なので、住宅街の中でも一番不利な立地にある。

 時間は十九時を回っていた。夏という季節のせいでまだ空は明るい。夕方といっても差し支えない雰囲気だった。

「あら、都月くん」

 疲労感からぼてぼてだらしなく歩いていると、買い物帰りの近所のおばさんに声をかけられた。木田きださんという。ご近所付き合いの模範生みたいな人で、この一辺のご家庭のことは大体把握している。当然、うちも例外ではなかった。

「あ、どうも」

 木田さんとは幼い頃からの付き合いなのでフランクに接する。

「こんな時間まで部活? 大変ねえ。あれ、部活じゃなくてジムかな? 長いこと続いて偉いよねー。あ、ジムといえば、うちの旦那が通いたがってるんだけど、駅前とかにあるところってどうなの? パーソナルとかがいいのかな? 食事も気を遣わなきゃなんでしょ? それって面倒じゃないの?」

「えーっと……」

 大体お喋りな人はカードゲームみたいに、出せる手札をばらまいてターンエンドするものだから、どれからどうやって答えればいいのか迷う。

「目的によるかな。痩せたいだけならその辺のでいいんじゃない」

 木田さんは、っはー、という風に斜め上を向いて唸った。

「そっかー。でも、旦那は根気ないからさ、どうせ三日坊主になるからやめろって言ってんの」

「あー、まあ、面倒ではあるね……」

「その点、うちと違って、伊庭さんちは凄くて羨ましい。お父さんは銀行員で、お母さんは大学の先生でしょ? それでお兄さんは医学部で、都月くんは楽器やってる。もー、なんて完璧なご家庭なんでしょ。うちの娘はエービーシーもわからなくて、駅前の居酒屋でバイトしてんのに」

「はは……」

 コメントに困って、僕は愛想笑いをした。木田さんは伊庭家を理想の家庭だと見なしていて、ことあるごとに褒めてくる。ありがたいことに本心なのだろうけど、毎度のことなので反応に困る。ちなみに、兄貴は医学部じゃなくて薬学部だ。

「お父さんはまだ当分、単身赴任なの? 寂しいよねえ。海外だっけ? 外国にも日本の銀行の支店があるなんてびっくり。夏休みで会いにいったりはしないの?」

「部活があるし、片道で二日はかかるからないかなあ」

「二日! そんなに! 地球って広いんだぁ。えーっと、ごめんね、あたし記憶力がないから……なんて国だっけ?」

「トルクメニスタンのアシガバート」

「そうそう、盗る癖にスターな足長バードね!」

 絶対にわかってないイントネーションだけど、僕はわかっていることとした。

「あの……何度も言ってるけど、母さんまだ単身赴任をよく思ってないから、絶対にこの話出さないでね。あとあんまり、この話題は他の近所の人には言わないで……」

 僕が神妙にそう言うと、木田さんはすごい楽しそうにウィンクして、サムズアップした。

「オッケー、オッケ。ほんとご両親仲がいいんだねー。ま、確かにトルトルスターなんてよく知らない国、旦那が行っちゃったらあたしも心配しちゃう。うん、だから、オッケ、オッケー」

 ノリノリだった。木田さんはよその家庭事情が大好物なので、こういうのには喜んで協力してくれる。裏を返せば、裏切って僕に嫌われたら内部情報が入ってこなくなる、ってことなんだろうけど、木田さんがそこまで気を回しているかはわからない。

 木田さんと別れて、僕は家に帰った。母は風呂に入っていた。台所に行くと、二人分の料理が並べて置いてあった。僕と父の分だ。僕は部屋に持っていって、スマホで適当な動画を流しながら食べた。ふと思いついて、クラウン兜坂氏のチャンネルを検索してみたけど、全然引っかからなかった。嘘を吐かれたらしい。

 食器を戻しに台所へ戻ると、居間では風呂から上がった母がくつろいでいた。

「都月、冷蔵庫にゼリーあるから食べていいよ」

「ゼリー。もらい物?」

「なんとなく買ったの。帰ってきたらパパにも教えてあげて」

「……」

 思わず押し黙ってしまう。母の様子を窺うとちょっと不思議そうな顔をしていて、それから僕の表情を見ると、やれやれ、というように溜め息を吐いた。

「まーだ喧嘩してるの?」

「……うん」

「もう、ずるずると一年くらいでしょ? よくそんなに怒り続けられるよね。まったく、間に挟まる私の身にもなってよね」

 僕はなんとも言うことができずに無言でいた。母は付箋にゼリーのことを書いてテーブルに貼り付けると、欠伸をして、ゆらりと立ち上がった。

「それじゃ、私、寝るから」

「ん……」

 母はめちゃくちゃ早く寝て、めちゃくちゃ早く起きるタイプの人だ。日が昇ったくらいに家を出て、知り合いがやっているというめちゃくちゃ開店時間の早いカフェで翻訳の仕事をする。木田さんは大学の先生だと思い込んでいるが、正確にはフランス語講師で、大学に限らずいろいろな場所で授業を持っている。なのに母本人は自分を翻訳家だと思っているので、木田さんと話すとそのギャップのせいでコントみたいになる。

 僕は冷蔵庫からゼリーを出すと、居間のソファに座って食べた。みかんの果肉がゴロゴロ入ったゼリーで、口に入れると濃厚な柑橘の甘みが口の中に広がる。

 見もしないテレビのバラエティを聞き流しつつ、ぼーっと母のフランス文学の蔵書が並ぶ本棚を眺めていると、『笑い』というタイトルの本を見つけた。著者はアンリ・ベルクソン。クラウン兜坂氏の話の中に出ていた。哲学か。僕は興味本位に開いてみたが、豆粒みたいなフォントがぶわっと視界に広がり、二ページでウエーッとなって、元の位置に戻した。

 やがて、僕はゼリーを食べ終えると、「パパへ 冷蔵庫のゼリー 食べていいよ」という母のメモをテーブルから剥がして、ゼリーのゴミと交えて捨てた。ゴミ箱の底には、錠剤の空になった容器だけが落ちていた。

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