クラウン・クラウン~真鍮管と黒の少女~
城井映
プロローグ 死にたくないけど死にたいのさ
僕が黒野クロと初めて出会った時、彼女にはまだ名前がなくて、ちょうど、特別快速の電車が前の駅を出発したところだった。
その日、僕は線路沿いの道を歩いていた。夏休みの部活帰り。特に暑い日だった。
僕の所属する吹奏楽部はコンクールの県大会を控えている。楽譜や水筒の入ったリュックを背負って、家では吹くことのないトランペットを右手にぶら下げていた。
線路沿いの道なので、僕の傍らには線路が続いていて、僕が住む市ではそれに沿うようにコンクリート製の柵もどこまでも続いている。当然、立ち入りを防止するためのものなんだけど、僕はその柵がボロっと抜けているところを知っていた。雑草が繁茂していてわかりにくいものの、僕如き男子高校生なら通れるくらいの広さが空いている。毎日、その隙間を見ないふりをして通り過ぎるたびに、僕の心はざわめいた。
電車が通るタイミングで、あそこから線路に入れば簡単に死ぬことができるな、と。
もちろん、僕はそんなことはしない。でも、想像ができるということは、いつか誰かやりかねないよな、と思っていた。
その日はなんとはなしに、その柵の前で給水のために立ち止まった。トランペットのケースを置いて、その上にリュックを置き、水筒を出す。学校の冷水機で補充した水を喉に流し込む。
「……え?」
そして、僕は柵の向こう側、つまり線路の上を、少女がてくてく歩いているのを見てしまった。
太陽光線をたっぷり吸い込みそうな、全ての布地が真っ黒な長袖のセーラー服を着て、全てが真っ黒なスカートとソックスをはいた、恐らく同い年くらいの女の子だった。スズメバチの興奮しそうな真っ黒な髪が、屈託もなく腰のあたりまですとんと流れている。黒い。肌の方は透き通るような白なのに、眉や睫毛や眼が綺麗な黒色をしている分、トータルで黒の方が優っていた。
その子は、自分がどこを歩いているのかわかっていないような顔をしていた。不思議な無表情だった。あどけない顔立ちをしているのに、長い人生を歩んできたような大人びた雰囲気をまとっている。
でも、大人びた子が線路を歩くのか? 田舎にある入っても問題のないような剥き出しの路線ではない。昼間の過疎気味な時間帯でも十分に一本は走る。驚いた僕は、後先考えずに声をかけた。
「な、何してるの、そんなところで」
黒の女の子は僕を見ると、何度かしぱしぱと瞬きをしてから、短く答えた。
「見つけた」
「見つけた?」
「うん。あんたを」
あ、あんた? 大人しそうな顔に似合わない、馴れ馴れしい呼び方に僕はぎょっとする。
「だから、こっち来て」
女の子は構わず続ける。こっちって。僕は困った。
「そっち線路なんだけど」
「そこ、柵空いてるよ」
「アクセスの心配をしてるんじゃなくてね」
確かに都合よく柵は切れているけど、そうじゃない。
「危ないよ、そんなところ歩いてたら! こっちに来なよ!」
線路立ち入りなんて危なすぎるし、全ての人が憎む迷惑行為そのものだ。
しかし、黒の女の子は不思議そうにちょんと首を傾げる。
「何で?」
「何でって、電車が来たら死んじゃうからだよ」
「死んじゃうってどういうこと?」
「すっげー呑気……」
僕は呆然とする。死ぬことがわからないなんてあるのか?
彼女は幼く見えるようで大人びた雰囲気があり、実際に語り口はしっかりしているのに、言動は幼かった。見た目通りを想定して話そうとすると、頭がこんがらがってくる。
「大丈夫。電車にぶつかっても平気だから」
黒の女の子はなんでもないように言った。呑気も突き抜けたらここまでいくのか。
「平気なわけないって……」
「平気。ここは
「クラウンの舞台」
クラウンについてはよくわからないけど、確かに地面から少し盛り上げてある線路は、演劇の舞台に見えなくもない。見えなくもないだけで、それがどうした、という気持ちにしかならなかったけど。
「……」
僕は迷った。話してみた感じ、彼女の方から線路を下りてくれることはなさそうだった。かといって、このまま見逃すわけにもいかない。辺りを見渡しても人通りはなく、緊急ボタンのある踏切は遠いし、電話をしたところで間に合うかどうか。
仕方がない。腹を決めた。僕が線路に立ち入ってこの子を連れ出すしかない。
「いい? そこに行くから、動かないでよ……」
僕はそう言った。電車が来た時にここへ入れば、と何となく想像してきた柵の間から、本当に中へ入ることになるとは思いもよらなかった。もちろん、線路を歩くつもりなんて毛頭ない。彼女をとっとと危険な場所から下ろす。それだけだ。誰にも見られませんように。
僕は背高く伸びる雑草をかき分けると、柵の間を抜けた。
ざり、と靴の裏が、線路の周辺に敷かれた小石たちを踏む。ごろごろとした感触が足裏に広がった。
真っ黒セーラーの少女は、僕が線路に侵入するのをじっと無表情で見ていたが、僕がおっかなびっくりレールに足をかけるところまで来ると、くるっと身体の向きを変えた。
「こっち」
そう言って、枕木の上をステップするように歩き出す。
「ちょ、ちょっと待って!」
彼女と距離が開いて、僕は焦った。とっとと線路から引きずり下ろす作戦に深刻な危機が訪れたのだ。ここまで来たら、自分だけ下りるのも、その場に留まるのも決まりが悪い。僕は彼女の後を追うしかなかった。
「枕の木」といいつつがっつりコンクリートで出来たそれを踏みしめながら、僕は少女の後を追う。彼女の着ている黒いセーラー服は、墨汁に浸したかのように真っ黒で、その布地の上をストレートの黒い髪が歩みに合わせて揺れて、陽の光を反射した細やかな線がきらきらと明滅していた。
それは不思議な光景で、やもすれば別世界に誘われているのではないか、という錯覚に陥っていたかも知れなかったが、あいにくと僕は必死だった。誰かに見られたら、電車が止まったら、そういう可能性ばかりが頭を掠めていて、状況を冷静に見られなかった。ただ、彼女に追いつくことだけを考えていた。
「捕まえた!」
「あっ」
必死こいた甲斐あって、僕は黒セーラーの少女の白々とした腕を捕まえることができた。予想していたよりも一回りくらい細っこい腕で、なんだか悪いことをした気になる。
「さ、早く下りよう」
それでも心を鬼にした僕は、彼女の腕を引きながらレールに足をかける。しかし、彼女は一歩たりとも動かなかった。
「下りられないよ」
黒セーラーの少女は、僕を無表情で見つめて言う。その悠長な態度に僕は思わず大きな声を出した。
「な、なんでだよ!」
「舞台に上がったら、オチがつくまで下りられない。それが道化の鉄則」
道化の鉄則──?
いや、それよりも確かに、どれだけ頑張って線路の外に出ようとしても、磁石の同じ極が反発しあう力に似た何かが働いて押し戻されてしまった。僕は背筋に冷たい何かを感じ、本当に冷たい汗って出るんだと思った。
「な、何だ、これ……嘘だろ……」
「うん、嘘」
「いや、嘘じゃないって! ほら、全然外行けないもん!」
「ふふっ」
「何わろてんねん」
僕が怒って言うと、黒セーラーの少女は真顔に戻った。一秒前まで笑っていたとは思えないくらいの無感情な面持ちだった。
素がこれなのに、あんな普通に笑うんだ。この子みたいなキャラは、もっと物語の中でも大事な場面、例えば初めて心を許すようなところで初めて感情を見せると思っていたので、僕は反射的に出たベタな突っ込みでその笑顔を潰したことにショックを受けた。
「えっと……ごめん。その、動揺しちゃって」
なので、僕はつい謝った。彼女は大きな瞳でじっと僕を見つめて言う。
「ギャグだ」
「ギャグ?」
「線路から出られないギャグ」
「僕は真面目なんだけど」
「じゃあ、あたしも真面目にする」
「うんうん、線路の上なのに偉いね……」
真面目な顔つきになった彼女に、僕は投げやりに言った。
「って、悠長してる場合じゃないって。その、道化がなんだのはよくわからないけど、電車が来る前にオチとやらをつけないと」
「安心した状態になれないね」
「オチをつけなきゃ落ち着けないね……じゃなくて! 線路の上なのにマイペースだね!」
「うん」
線路の上でシンプル肯定しないで──と言いかけて僕は口を噤む。もはや、線路の上なのに、と言えば何でもギャグとして通じそうだった。違う、いま口にするべきはこんなことじゃない。ここから脱出する術をこの子から引き出さないと。
僕は頭の中にある全てをひっくり返して、こねくりまわす。
「……ねえ、さっき舞台の上って言ったよね? ってことは仕掛けた誰かがいるわけだよね!」
「うん」
「えーっと、その人はどういう流れがお好みなの?」
彼女は指を差すというごく単純な仕草で、それを端的に示して見せた。
「こういうの」
見ると、電車がもう、すぐ目前まで迫ってきていた。
思い出したように、電車の走行音が僕の耳に飛び込んでくる。それは、柵の外で聞くよりも遙かに暴力的な音量だった。
瞬間、恐ろしい冷たさが僕の皮膚を覆い尽くした。
「わ」
悲鳴を上げる時間すらなかった。電車に撥ねられないために考え詰めた結果、電車の接近に全く気がつくことができなかったのだ。そんな本末転倒なことがあっていいのだろうか。そして、これをギャグと片付けることも──。
「危ない!」
僕は咄嗟に、電車に背を向けて黒セーラーの少女を庇うように立った。何の意味もない行動だとは思うけど、こうする以外にできることがないと脊髄が独断したのだった。
車輪がレールを擦る、甲高い金属音が猛々しく響く。引き裂かれた空気の波が、注射をする直前の消毒用アルコールのように僕の背中をふわりと撫ぜる。
激突する──その寸前、僕は黒の女の子をぎゅっと抱きしめた。
「ギュム」
黒の女の子は、突然に口を塞がれた時の声を出した。まさに出しどころだった。
それから、僕たちは電車に轢かれた。まったく容赦のない轢き筋だった。
バガーン! とすごい音がした。一両三十トンと乗客の重みが、僕と彼女の憐れな身体を蹂躙した。視界に星が散った。幸い、痛みは感じなかった。
走馬灯なのだろう、その耐えられない衝撃に、僕は小学生の時、家族で関西の有名なテーマパークに連れていってもらった時のことを思い出していた。思えば、それが僕が家族で行った、ほとんと唯一の旅行で、唯一の思い出のようなものだった。
言わずと知れた、超有名な恐竜の放たれた森を巡るアトラクション。僕がのんびり観光気分でいたら、そういうものの常として、ステージの後半でトラブルが発生する。管理されていたはずの恐竜が暴走して逃げ出した。緊急事態を告げるありとあらゆる音に怯えていたら、最終局面で突然ティラノサウルスが目の前の壁をぶち破ってきて、その瞬間、乗っているボートが急落下する。
ドッキリするアトラクションとは知らなかったばかりに、小学生の僕は涙混じりに大絶叫した。
「うわああああああああああああああ!」
ティラノサウルスに浮かされた時の、あの浮遊感が僕をがっちりと掴んで離さなかった。早く終わって欲しい、という一心で、ひたすらに奥歯を噛み締める感じだ。そして、視界と三半規管がなんやかんやとやばいことになっている。
要するに、電車に撥ねられた僕は、すごい勢いで吹っ飛ばされていた。
これは何? 僕は全てにおいて混乱していた。本来なら原型を留めないほどぐちゃぐちゃになっているはずの身体で、浮遊感を一心に受けているのだ。何かがおかしかった。
「ほらね」
と、その時、僕の腕の中にいる黒セーラーの少女が、囁くように言った。
「電車にぶつかっても平気って言った」
「え……」
「それがオチだから」
「えーっ⁉」
僕がまた別種の叫び声を上げた瞬間、僕たちは何かに激突した。これまたバゴン! と大きな音と、しこたまぶん殴られたような衝撃と共に、運動エネルギーから解放される。一気に速度がゼロになったものだから、視界がぐらぐらと揺れて、それが収まるまで何もすることができなかった。
「いてて……」
僕は呻きながら顔を上げる。どうやら、車道が線路を越すための陸橋に激突したらしい。コンクリート製の壁面は、鉄球で叩きつけたように大きく抉れていて、その穴ぼこに埋もれるように、僕と彼女はいたのだった。
呆然とする僕の眼下を、電車が何事もなかったかのように走り抜けていく。結構高い位置に着弾したようだ。
「ぷは」
僕の胸元で、黒セーラーの少女が顔を出した。彼女も平然と生きていて、何事もなかったかのような顔をしている。その白い顔は砂埃に汚れていたが、その半端な汚れ方もなんかギャグっぽかった。
彼女が身を動かすくすぐったさを腹に感じながら、僕は呆然と呟いた。
「生きてる……」
黒セーラーの少女は、さもありなん、という顔をして頷いた。
「そういうギャグ」
「ギャグって……そういうこと?」
僕はそこでようやく、彼女の言う「ギャグ」の意味を理解した気がした。
つまり、こういうことだ。
まず、線路の上を歩く。ここからまずおかしいのが始まる。
で、次は容赦なく電車に轢かれて、弾き飛ばされて、壁に激突して、めり込む。痛くもないのに、イテテ……と起き上がる。いや、よく生きてるんかい! と驚かれる。
そういう子供が描いたギャグ漫画みたいな、ギャグだ。
「つ、つまんねーっ!」
僕は大きな声で嘆いた。なんだそりゃ。もう、スケールでしか勝負してないんだよ。それ以外は全てにおいて事故なんだよ。普通に恐怖も嘔吐もドキドキも据え置きだったよ。本当に人生終わったかと思ったよ。
つまんねー、という僕のあられもない評価に、黒セーラーの少女は顔を俯かせてしまった。あれ、もしかして、傷つけちゃったか──と何故か心配になる。
「ふふふ……」
「あ、笑ってる!」
笑ってんのかよ!
彼女が笑いを隠すように俯いたことに僕は不満を持った。身体張ったんだから、笑顔くらい見せてくれてもいいだろ。僕はそう思って、彼女の頬を捉えてぐいっとこちらを向かせた。
しかし、現れたのは、「笑ってませんけど」と言わんばかりのド真顔だった。
「なんで! 見せてよ! 笑顔!」
思わず、少女ひとり笑わすことのできない、ピュアだけど才能のないピエロみたいな嘆きが漏れてしまった。僕は普段、こんなキャラじゃないのにな──。
「あ」
ふいに、黒セーラーの少女が声をあげた。直後、ガラッという音がして、彼女の身体が穴ぼこの外へと滑り落ちる。
僕は咄嗟に手を伸ばしかけたが、その甲斐はなかった。
むしろ、少女の方から僕のシャツの袖を掴んで道連れにしてきたのだ。自分の姿勢に関して完全に油断していた僕は、あっさりと穴から引きずり出された上で、なぜか思い切り地面へと叩きつけられた。
「ぐえっ……」
それだけならまだマシだったのに、地面に激突して悶絶する僕の腹に彼女が落ちてきた。しかも、ご丁寧に両足を揃えて。クッションにするために、僕を先に引きずりおろしたのだ。これがプロレスのリングなら歓声があがったところだが、今回は僕の悶絶する声だけがあがる結果となった。
「おろろお……」
みぞおちを刺激されて、嘔吐に襲われた僕はその辺に吐いた。幸い、落ちたところは線路ではなく、陸橋の傍ら、これまた雑草でボーボーな細い道で、吐瀉物を隠す場所には恵まれていた。
「大丈夫……?」
黒セーラーの少女も罪悪感があったのか、背中をさすってくれた。それがなんとも心のこもったさすり方で、その優しさに感動を覚えてしまった。
「って、君のせいだけどね……」
「いやあ、どうもどうも、大変でしたね」
こつ、こつ、と何かで道を叩く音と共に、そんな声がかけられた。通行人が心配に思って声をかけてきたのかと思って、僕は慌てて居住まいを正す。
「あっ、その、僕は大丈夫です……って、もしかして、見てました……?」
それから、「大変でしたね」という台詞のやばさに恐怖した。普通の感性をしている人は、電車に跳ね飛ばされて、陸橋の壁に激突して落ちてきた人に「大変でしたね」なんか声をかけない。僕の脳裏に「黒幕」の文字が点滅した。
「ええ、見ておりましたとも」
しかし、その人は是非もない、というような顔をして言って、手に持った杖を華麗に一振りした。
「というか、わたしがやりましたもので。一連の出来事を」
「……はぁ」
あっさり白状されて、僕は呆気にとられてしまった。
その人は、なんとも捉えようのない容姿をしていた。髪は肩口あたりで切り揃えたボブカットで、切れ長の目、小さくまとまった鼻立ちとつんとした口元が均整で美形なのだが、性別がいまいち掴めない。声も低くもなく高くもなく、どちらともとれる。体型は長身ですらっとしており、これもどちらともとれる。格好は男性用の背広なのだか、女性用のパンツスーツなのだか、どっちともとれる。年齢も若く見えるし、老いても見える。彼とか彼女とかじゃない、「その人」としか呼びようがない人だった。
「あ、失礼、わたし、こういう者です」
そう言って、その人は名刺をくれた。「道化師 クラウン兜坂」と書いてあった。
「道化師……クラウンかぶとざか……さん?」
「とさかです。クラウンとさか。アパートの名前みたいだけど実在しません。まあ、実在しないから採用したんですけど」
「……ええ?」
「どうぞ『とさか』とスマホで変換してみてください。たぶん、鶏の冠で、
ふざけているのか大真面目なのか、クラウン兜坂氏はとにかく飄々と語ってみせた。口上にしているのか、名前(たぶん屋号)の紹介が無駄に詳しくて、クラウン兜坂という名前も覚えてしまう。
「えっと、僕は
僕も釣られて自己紹介をする。こんなあからさまな奇人に個人情報を渡すのはまずいような気もしたけど、後の祭りだった。
「ええ、どうぞよろしく」
クラウン氏は、安心するような不安になるような、複雑な微笑みを浮かべた。
「兜坂」
黒セーラーの少女が、ちょいちょい、とクラウン氏の手を引いた。
「あたしもそれする」
「それ、とは……自己紹介ですか? でも、君には名前がまだないでしょう」
「……ない」
彼女は憮然として言う。名前がまだない? どう控えめに見積もっても中学生以上の彼女が、自分の名前も知らないとはどういうことなんだ。
「まあ、良い機会ですし考えてあげましょう」
クラウン氏はクラウン氏で、指を顎にあてて考え始める。本格的な熟考だった。僕は所在なくその場に立ち、黒セーラーの少女は退屈そうに欠伸をしている。なんだろう、この時間。
「君、一体何者なの……」
「?」
僕は改めて彼女に訊いてみたけど、何を言ってるんだ、という風に小首を傾げられてしまった。自己紹介したがったのは自分なのに、人から振られると答えないのか。異常なほどのマイペース。話もかみ合わず、ほとんど無表情で、名前もない。わかるところがひとつもないのに、何故だか──ずっと見ていたくなる。不思議な少女だった。
と、バチン! とアキレス腱が切れたみたいな音が鳴った。クラウン氏が指を鳴らしたのだ。爆音が過ぎるだろ、としか思えない僕に、クラウン氏は高らかに言った。
「クロです!」
「えっと、何がですか……?」
「その子の名前ですよ。毛皮は黒いし、ぴったりでしょう」
「いやいやいや、犬猫じゃないんだから……」
「猫じゃないですと?」
クラウン氏は黒セーラーの少女の方を見た。その視線に応えるように彼女は口を開けた。
「にゃあ」
「猫である」
信じられないくらい雑なキャラ付けだった。僕は騙されているような気分になった。
「えっと……どう見ても猫じゃないでしょ」
擬人化するにしたって、ベタな三角の耳もなければ尻尾もない。どう見ても人だった。
「どうしますか? 認めてくれませんよ」
クラウン氏は僕を横目で見ながら、ひそひそと少女に耳打ちする。彼女の方は「ふーん」と別に興味がなさそうだった。
「まあ、君がそれでいいならいいよ……」
僕が呆れ果ててそう言うと、彼女はぶんぶんと首を横に振った。
「よくない」
「よくないのかよ」
「あんたに決めてほしい」
「名前の方かよ」
確かにクロなんていう、何の捻りのない名前じゃ嫌だろう。それでも、命名を僕に求めるのはお門違いといっていい。僕にはそういうセンスが一切なく、本当に何にも思いつかなかった。
気まずくなった僕は、彼女の視線から逃れるようにクラウン氏に話を向ける。
「というか、そんなことよりも、さっき起こったのは一体何なんですか。電車に吹っ飛ばされて、でも平気だなんて……」
クラウン氏は眉をひそめた。
「ふむ、一体何なのか、とは、九十九%のカスタマーが問うことですね」
「そんだけ質問されるなら訊かれなくても教えて下さいよ」
「名前……」
付けのお預けを食らってしまった黒セーラーの少女が、寂しそうにぼやく。可哀想だと思ったけど、今回は縁が無かったということで──。
クラウン氏は杖を持っていない方の手を掲げて、僕の質問に答えた。
「なに、平たく言えば、君はわたしの道化にかかっているのですよ。そして、先ほどのはちょっとした演目、或いはフィクション、またはコントです。タイトルはさしづめ『死にたくないけど死にたいのさ』でしょうか」
「電車に轢かれる、コント……」
「もし、あの柵の切れ目から線路に入ったら……って、君はずっと気になっていたんでしょう?」
見透かすように言われて、僕はぎくりとする。
「でも、死にたいとまでは思ってないです」
「本当に?」
「……いや、本当に」
柵の切れ目を気にしたくらいで、希死念慮があると思われるのは困る。
クラウン氏は小バエでも払うようにぱたぱたと手を振ってみせた。
「まあ、そんなことはどうでもよろしい。重要なことではありません。肝心なのは、こうして君がひとりの役者として、道化の舞台に上がったことでしょう。君には道化の才能がありますよ」
道化の舞台──黒セーラーの少女も、同じことを口にしていた。
「その舞台って、何なんですか……道化っていうのは、人を笑わせる人のことですよね。僕にそんな才能があるとは思えないんですけど……」
「いいえ。芸人ではないので、道化とは必ずしも笑いに直結しなくとも良いのです。少なくともわたしが名乗る道化師とは、あらゆる道化的な方法によって、現実を演出する人間のことを指します。そして、あなたはその舞台に乗った。すっげーざっくり言えば、そういう
クラウン氏は語りながら、地面に杖を立てると、まるで椅子に腰掛けるかのように座った。その姿勢のまま、太ももの下あたりに手を伸ばしてくいっと捻る。すると、透明な椅子の高さを調節したように腰の位置が上下した。そういうパントマイムだった。
「例えば、フランスの哲学者アンリ・ベルクソンは演劇における笑いを分析して、諸条件を提示しました。その中に、状況のおかしさ、つまり、ある現実と、また別の現実との間の『取り違え』『ひっくり返し』──また『交錯』ということが挙げられています」
「はぁ……」
「今回の件で言えば、『吾輩は猫である』を思い出して下さい。夏目漱石です。あれは猫の目線で語られた話ですね、つまるところ、猫の世界──これは、非現実ですな。猫が人間の生活を見つめて、言いたい放題言うところが面白いわけです。猫の世界と人間の世界、ふたつの異なる現実を比べておかしみを生んでいる。ふたつの世界の『交錯』というわけです」
現代文の先生みたいな語り口をする。面倒そうな話題でも興味を持てたのは、それが僕の状況と密接に関わっていると思えるからだった。
「それが僕が電車に轢かれたことと、関係あるんですか?」
「関係ばかりですよ! 猫の世界と人間の世界、あり得ないドッキングを、わたしが手がけた線路上のギャグを通して行ったわけですからね」
「何でわざわざギャグを通してるんですか……」
猫が口をきくフィクションはいくらでもあるけど、ファンタジーとして済ましてしまうのが楽ではないか。そして、その理屈でいくと、いよいよこの子は猫ということになるけど、それで良いのか? それこそ僕の目には、おふざけのように映る。
すると、クラウン氏は大仰に身体を反らしてみせた。
「そりゃ、君……どうして日本語でコミュニケーションを取っているんですか、と訊いているようなものですよ。それは、わたしたちが日本語圏の生まれだから、と言うのと同じように、わたしは道化師だからギャグを以て世界を制す、それ以外になんと答えようがありますか」
「えー……」
「それじゃあ、何のために、猫の世界と人間の世界をドッキングしたのか。君と接触した理由は何か。どこに住んでいるのか。家賃はいくらなのか。スマホのキャリアはどこなのか。ユーチューブのチャンネル運営をやっているのか。無限に気になることが出てくるでしょう」
「チャンネルあるんですか?」
「あります。チャンネル登録してね~! って、そうじゃない。やめてくださいよ、脱線という笑いの技法は諸刃の剣なんですからね……」
クラウン氏はブンブンと杖を振った。さっきまで尻の下に敷いていたはずのものなのに、座る姿勢はそのまんまだ。凄い精度の空気椅子だった。
「ともかくここで疑問の全て解消はしません。ここは日差しがキツいですし……この通り、わたしは道化師です。ないはずの椅子でも、まるであるかのように振る舞わなくてはならない。実に悲劇的です。まるで大きな意味があるかのように振る舞い続けなければいけない人生のようにね。……ところで、君はこんな奴とはもう永久に関わりたくないと思っているかも知れない。九十八%のカスタマーはそう思うというデータがありますしね」
二%の人しか、クラウン氏との関係を継続したくないらしい。まぁ、それはそうだろう。
「もちろんわたしも、わたしとの関係を断ちたい人々のことを理解できます。万人受けというのは原理的に不可能ですからね。ただ、気分というのは寄せては返す波のようなもので、これから先の人生で、今回のことが気になりすぎて夜も寝られず、レストランで注文するメニューも決められず、爆弾解除で赤青どちらを切るか脂汗垂らして悩むかも知れない。または──地上ではないどこかに逃げ込みたくなる時があるかも。そんな時のために、わたしはこれを授けているのです」
クラウン氏はそう言って、持っていた杖を僕に差し出す。
地上ではないどこかに逃げ込む──その言葉の響きが妙に頭に残っていた僕は、銀色に輝くそれを何の気もなしに受け取った。思ったよりも軽い杖の感触に、ふと僕はあることに思い至る。これ、さっきまでこの人が尻に敷いていたやつでは。
「わたしと共に世界を笑いたくなったら、それを使って、その辺のマンホールを開けてみてください。あ、最初は勇気がいるでしょうけど、誰もが通る道……誰もが落ちる縦穴なので、頑張って下さい」
「マンホール……ですか」
「あ、それは杖ではなくてマンホールオープナーです」
「ほ、ほんとだ!」
なんか三角の持ち手がついてて、先っちょがくいっと曲がってる、シンプルに銀色なところが逆におしゃれを演出しているような杖だと思ってたのに、言われてみればマンホールを開くために最適化された器具にしか見えなかった。
「それをわたしは啓蒙の杖と呼んでいます」
「けいもう……」
「蒙は『暗い』、啓は『ひらく』ということですから、まあ、下水道に日の光を入れるための杖ってことですね。一般に流通するような特に深い意味はありませんよっこらしょっと」
クラウン氏は空気椅子から立ち上がって、お尻をはたはたと叩いた。
「それでは、長話を失礼しました。君が会ってくれる気になったら、また会いましょう。わたしはいつでも、君のそばにいますよ」
そう告げると、クラウン氏はひらりと線路の柵を乗り越えて、スタスタと歩いていってしまった。直後、示し合わせたように電車がやってきて、その後ろ姿をかき消してしまう。電車が通り過ぎた後にはもういなくなっていた。
なんとも憧れる立ち去り方だ、と後に残った微かな陽炎を眺めていると、ぐいっと袖を引っ張られた。見ると、不機嫌そうな黒セーラーの少女がまだそこにいた。
「名前つけて」
「粘るねぇ!」
「あたしも兜坂みたいな名前ほしい」
そういえば、彼女の正体についても保留されたままだった。なんか、本当に猫みたいな前提で話が進んでいなかったか。猫なのか? 道化として人になった猫なのか? それとも、猫っぽく演じている人なのか? 確かに、野良猫なら平気で線路を歩いたりするけども。
でも、僕は彼女の見た目は人なので、猫っぽく演じている人の方に賭けることにした。
「……僕、名前考えるのとか苦手なんだけど、それでもいい?」
「うん」
「じゃあ……クロだといかにも猫みたいだし、せっかく人の格好してるんだから、
「黒野。黒野クロ」
「あ、クロも採用するのね……」
「こんにちは、黒野クロです」
彼女は相変わらず無表情だけど、ほんのちょびっとだけ嬉しそうに自分の名前を繰り返し言った。感情表現に乏しい子だけに、内心で喜んでいるのだとわかると、五割増しくらいでこちらも嬉しかった。
「マンガのキャラとかと被ってそうだけど大丈夫かな……」
ちょっと心配になったが、なんでそんなことを僕が心配しなくちゃいけないのか。結局、捻りがないとか色々あるかも知れないけど、彼女は黒野、ということでこれからはやっていこう。
「そういえば……黒野は何でクラウンさんと一緒にいるの」
僕が訊ねると、黒野はキョロキョロ辺りを見渡したあと、答えた。
「探してるものがあるの」
「探してる? 何を?」
「わかんない」
そんなことある? と呆れる僕を黒野はじっと見つめ、続けて言う。
「でも、あんたからは探してるものの匂いがする」
「えっ?」
「気がする」
「って、オーイ、カッコよく去ったのに、君もついて来ないと駄目でしょ! 君自分でマンホール開けらんないでしょ!」
突然、クラウン氏が線路から嘆きの顔をぶら下げて出てきた。え、段取り決まってたのか。そしてズコズコと戻ってくるなんて、こんなダサいことがあっていいのか。
唖然とする僕に、黒野は面倒くさそうにクラウン氏を指さして短く言った。
「っていうオチ」
「コントには必ずオチをつけなければいけないですからね」
「なんだよ」
それ以上の感想が出てこなくて憮然とする僕を置いて、クラウン氏はふわっと黒野を持ち上げた。黒野はなされるがまま肩に担がれて、干された布団みたいにクラウン氏の身体にぺったり張り付く。あまりに颯爽とした仕草だったので、話の途中だったのに、僕は当然のこととして受け入れてしまった。
「それでは今度こそ、会いたい時に会いましょう。わたしはいつでも、君のそばにいますよ」
クラウン氏は優雅とは言えない格好で、優雅に別れを告げた。
「ありがと」黒野は担がれたままの姿勢で言った。「守ってくれて。また会お」
「あぁ……」
そういえば、電車に轢かれる直前で咄嗟に庇ったっけ。かっこよかったかと訊かれたら怪しいけど、改めてそうやってお礼を言われると満更でもない。僕は悪くない気分で手を振った。
「また会えたらね」
「バイバイ」
黒野は干された布団みたいに手を振り返してくれた。クラウン氏と彼女はそうやって、線路沿いの道を去って行った。そこは線路を突っ切るんじゃないのか。もうコントは終わったってことなのか。
コント、コントな……。
僕はそうやって唐突に、日常の中へ引き戻されてしまったので、何をすればいいのか自分を一瞬見失いかけたけど、自分が手渡されたオープナーだけしか持っていないのを見て、直ちにするべきことを理解した。
「楽器と荷物!」
そういえば、柵の切れ目の前に置いてきたままだった。
うだるような暑さの日、線路沿いの道を僕は走って遡っていった。
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