第一章 生きるっていうのはカロリーを消費することだ #2

「っていうか、深見ふかみ山本やまもと、付き合ってるって知ってた?」

 部活の昼休憩、空き教室で昼を食べている最中に、平林ひらばやしが言った。平林はトロンボーンの二年で僕とタメ。時間効率重視な床屋に通ってそうなかっちりとした短髪に、眼鏡の絡みやすいヤツだ。基本的に楽譜に書いてあることと、指揮者の指示したことしかしない。

 ちなみに、話に出た深見と山本は、それぞれフルートとアルトサックスの一年生だった。

「マジかよ、一年はえーな」

 そう答えたのは、ユーフォニウムの二年、くれ。ユーフォニウムは大きめの楽器なのに、こいつが持つと玩具に見えるくらい大柄の男だった。チャラい見た目をしているが、チャラい感じで振る舞うのは内輪だけだ。

 こうして考えると、僕のプロファイルはどうなるのだろうか。伊庭都月。二年のトランペット。人間。ジム通いで体幹と腕相撲が強い。それくらいしか思いつかない。昔から自己紹介は好きじゃなかった。

 呉はサンドイッチを食べながら、僕の方を見た。

「伊庭は知ってた?」

「知らない。そういうの興味ないし。まあ、ふたりで帰ってるなー、くらいは思ってたけど」

「ふーん。まるで誰かさんらみたいだな」

 平林が呉から含みのある視線を食らって、「なんだよ」と面倒くさそうな顔をした。

「彼女とはふたりで帰るのがフツーだろ」

「憎々しいほどフツーだよ、フツーッ!」

 呉が歯茎を見せて威嚇するように言った。平林には同じクラスのコーラス部の彼女がいる。初詣に誘って一緒にお参りをした後に、「なにを祈ったの?」と訊かれて「お前と付き合えますようにって」と答えて、成立したらしい。素だったとしたらいつか失言しないか心配だし、狙って言ったのだとしても歯が浮きまくってしばらく食事に困ったんじゃないかと思う。

「呉だって背高いからモテるっしょ」

 平林は明らかに勝ちポジションにいることから来る余裕の態度で言った。呉はサンドイッチを高速裁断機みたいにガシガシ食って飲み込んだ。

「おれは音楽一筋なんだよ。浮かれてる奴とはちげえの」

 呉は父親がバイオリンをやっていたらしくて家に防音室がある。本人は中学の時はバスケ部で、音楽なんててんでやる気がなかったのに、高校に入りひょんなことから楽器に触れて、突然に開眼したらしい。開眼して将来のビジョンが見えまくった結果、音大を目指すことにしたが、音楽教育は幼少からやるのが普通なので、遅れた分を取り戻すと練習しまくっている。

「呉がどうとかじゃなくて、周りの話なんだけどな……」

 平林はわかるよな、と言うように僕に視線を向ける。まあ、わかる。ただでさえチャラチャラしている呉が、真面目に楽器を吹く姿はかなり様になっている。わかりやすいギャップ効果に目が眩んでしまう誰かがいてもおかしくはない。

 呉は自分とは関係ないというような顔をして平林に詰め寄る。

「それで平林はどこまでいったん」

「どこまでって?」

「ABCの」

「ー」

「どれだよ! 伸ばし棒だけ発音すんなよ」

「よく伸ばし棒ってわかったな」

 僕は友人二人の会話を聞きながら、バターロールを食べる。コンビニパンとかではなく、めちゃくちゃ早起きな母が、同じくらいめちゃくちゃ早起きなベーカリーで焼きたてを買ってくるのだ。僕は頭の中でカロリーを計算して、どれくらいの運動量をこなせば消費できるか考えている。

 ふたりの友人が話していることに比べると、なんともつましい青春に思う。でも、それで良かった。僕がそういう青春を送ることはできない。恋愛なんてやっている余裕はなかった。

「っていうか、今日も伊庭はよく食うな。どこまで筋肉増やすんだよ。今くらいの細マッチョが一番女子は好きだぞ」

 呉が僕の上腕を触ってくる。僕はゆるく振り払って答えた。

「モテるためにやってんじゃないから」

「うわ、プラトニックなやつ出たな」

「伊庭は恋話アンチだからなぁ」

 ふたりは和気藹々と笑う。なるほど、プラトニックで恋話アンチ。僕はこういう奴らしい。


 部活が終わってからも、僕にはまだ練習が残っている。帰っていく部員たちを見送りつつ、僕は練習室の扉を開いた。そこにはパイプ椅子に座ってスマホをいじっている金髪の女、従姉の伊庭華礼がいた。

 華礼は音大生で、コーチとして僕らに協力してくれている。別にこちらから頼んだわけではなく、華礼の方から従弟である僕の方へ売り込んできたのだ。部活のコーチなんて大した稼ぎにならないはずなのに、理由を聞いたら「あの夏の空気を感じたいから」とか。大学生の夏休みは大層暇らしい。

「ぼちぼちね」

 華礼は僕を流し目でちらっと見て、言った。

「何が?」

「合わせ、聞いた感じ」

「そういうのは弘前ひろさきセンに言えよ」

「まさか! 顧問の先生に、ぼちぼちです、なんか言えないって」

 華礼は目を剥いた。彼女は強豪校出身で全国大会経験者だった。強い部活でもいろんなスタイルがあるようだけど、そこは顧問の絶対王政な性格だったらしい。僕は、そんな苛烈な環境を耐え抜いた華礼が、うちの部活を見れば、ユルすぎてキレるものだと思っていた。

「ぼちぼちで良いの? 夏を感じたいんでしょ」

 僕はパイプ椅子を引っ張ってきて、譜面台をその前に組み立てながら言った。華礼はスマホから顔を上げない。

「いや、私はさ、自分も周りも部活人間だったから。部活だけじゃない子たちの部活の空気を吸いたくって」

「部活だけじゃない子たちの部活」

「そうそう。友達に誘われただけの子とか、推しが昔やってたから自分もやりたいって思っただけの子とか、暇だからなんとなくやってる子とか、あー、好きな子がいるとか、もちろんちゃんとやりたいって子までさ、そんな共通点もないような人たちが集まって、音楽でひとつになるっていう感じのが見たかったわけ。つまり、あれ、青春よ」

それが望みなら、この部活はまさに格好の場所のように思えなくもない。

「ふうん。僕たちが青春してるように見える?」

「してるしてる。正直、若い子が頑張ってるの見るのたまらん」

「……よく入校許可証もらえたね」

 見た目もキンキンの金髪ギャルなのに。僕は胸にモヤモヤを覚えながら、譜面台に楽譜を置いて、楽器を膝上に載せるところまで済ませる。

「でも、私は嬉しいよ。ツヅはまだ二年なのに、先輩を差し置いてソロを担当しちゃうくらい、吹奏楽に打ち込んでくれててさ」

 華礼はそう言って、僕の持っているトランペットに目を落とす。言うとおり、僕が自由曲のソロを務めることになっている。

「普通ならソロは三年生がやるでしょ。でも、ツヅはそういう慣習に待ったをかけて、オーディションか何かに持ち込んで、ソロを勝ち取ったわけでしょ? でも、先輩のことが好きな同期の子が『先輩の最後の夏なのに!』って怒って対立しちゃって、それで──」

「違う違う、妄想を語んないで」

 僕はストップをかける。それ、見たことある話だし。

「そんなガチじゃないから。普通に先輩に頼んでやっていいって譲ってもらったんだよ。先輩も受験向けの夏季講習が始まって、重荷が減るのは助かるって」

「ふうん……まあ、そういうのもリアルって感じでいいね」

 華礼は目を細める。もう何でも食べるじゃん、と僕は呆れた。

 ともあれ、うちの部はそういう空気感でやっている。今の目標としては、先月、行われた地区大会を突破したので、次のステージである県大会のために毎日練習をしていた。

 ただ、現実問題としてうちの県は強豪揃いで、毎年次のブロック大会へと駒を進める高校は顔ぶれが決まっている。僕たちの高校はここ十年、県大を突破した実績はない。そもそも絶対全国行くぞ、オーッ! という気風でもない。

 そういう感じなので、県大へのモチベーションは個人によってバラバラだ。呉のようなガツガツしている奴もいれば、平林のようにエンジョイ勢もいるし、先輩のように次年を担う後輩にソロを託して、受験のことを考えたい、という人もいる。

 僕について言えば、正直、県大を越せるとは思っていない。最初からそう思っていたからこそ、高校から吹奏楽を始めたような僕が厚かましくソロに志願できた。というか、この曲を自由曲として推薦したのもの僕だ。だから、多くの部員は僕のことを、かなり熱心な部員だと思っているのではないだろうか。

 まあ、実際にはそうではない。僕がそこまでするのは──極めて個人的な事情からだった。

「ま、じゃ、いっぺんやってみ」

 華礼はいつのまにか指導者の顔になって指示を出してくる。

 僕も頭の練習モードに切り替え、くだんのソロ部分を吹いた。

 それで、このソロ部分について言うと、なんだかトランペットに吹かせるしては甘ったるいフレーズだと思う。なんかエロい。サックスがやればいいのに。そして、やたらロングトーンがある。

 これが問題で、休符は置いてないため譜面通りに吹くと窒息死するので、必ずどっかで吸うことになるが、それをカンニングブレスにしてこっそりやるか、堂々と四分休符分とるか、判断が委ねられている。ネットにある音源を探ってみても、演奏ごと、奏者ごとにやり方が違う。作曲者も「自由に吹いて頂ければ」としか言及していない。こんなに「正解はない」を地で行くのもあんまりない。

「うーん、悪くないけど、だらしないなあ」

 華礼は言って、スマホをいじくった。僕の演奏を録音していたのだ。録りたてほやほやのそれを聞いて、僕も同じ感想を持った。ロングトーンがひょろい。喩えて言うならば、イカ焼きのような感じだ。串も火も通せているが、なんかぐにゃぐにゃしてて頼りない。

「見ててみ」

 華礼は僕の演奏にかぶせるように、自分のトランペットを持ちだして同じフレーズを吹いた。それは、僕のソロに足りないところをくっきりと炙り出す、非常に残虐な行為だった。ただ、本人はそうとも思っていないらしい。多分、現役の時はガンガンやらされていたのだろう。

 楽器を吹いておいて、見ててみ、というのはおかしいようで、おかしくない。身体の使い方を見ろ、ということだ。華礼のお腹周りはバコバコ動く。なんなら背中も動く。さらっと吹いているようで、全身の筋肉を漏らさず使っているのだ。白鳥が水面下で足をバタバタさせているのに似ている(一応、本当は羽の油分で浮いているので、この慣用句は嘘らしい)。

 僕は──その姿を惚れ惚れと見ていた。あんまりおおっぴらにはしていないけど、僕は華礼がその銀色に輝くトランペットをさらっと吹く姿に憧れて、吹奏楽部に入ったのだった。

 僕の父と叔父さん──華礼のお父さんはもともと兄弟で吹奏楽をやっていた。特に叔父さんは身を入れてやってようだ。

 僕の両親はともに忙しく、幼い頃の僕と兄貴は叔父さんの一家によく預けられていた。その時、華礼はよくお下がりのトランペットを僕に披露したり、楽譜の読み方や運指を教えてくれたりした。優しく明るい華礼と、楽しい音楽の時間。僕はその時間がとても好きだった。

 にも関わらず、中学の時、僕は吹奏楽部に入らなかった。

 華礼が高校デビューをして、垢抜けたギャルな見た目になってしまたのだ(高校卒業後には金髪にも)。僕はショックを受けた。ショックを受けたことにもショックを受けた。僕は黒髪ストレートで清楚な感じのお姉さんだった華礼が好きだったのだ──僕は失恋に近い気持ちを抱き(実際、恋話は苦手になった)、同時に吹奏楽への興味も失っててしまい、気の抜けた中学生活を送った。

 しかし、僕の気が抜けている間に、華礼は高校で目覚ましい活躍をした。動画サイトでその高校名を入れると、華礼がトップを張る全国大会の演奏が出てくる。僕はそれを生で聴いて、ギャルになった華礼も受け入れられるくらいに、そのトランペットの音色に感動した。だから、僕は高校で吹奏楽部に入ることにした。

 結果的には、近所の木田さんを唸らせるくらいにはカッコがつき、華礼にはだらしないと思われるくらいにはカッコがついていない。

 その華礼がロングトーンを吹く。重なった僕のロングトーンは、じりじりと音程が下がっていって、やがて少しずつ不協和音になる。現実はなんて残酷なんだ。僕はへこむ。

 僕と違って、華礼はブレスをゆったりととっているのに、フレーズも自然に繋がっているように聞こえる。僕のはカンニングブレスで隠そうとしているのにバレバレで、まるで溺れているようだ。

 華礼は僕の唇を指さして、言う。

「ここだけで吹いちゃだめ。ここから出た自分の音が、息に乗って、ホールの一番後ろの客席の、更に後ろを突き抜けて、どこまでも通り抜けていくようなイメージを持ってやるの」

「はい」

 いまや音楽は溢れているし、ワンタップで再生できるから勘違いしがちだが、実際にやるのはかなり大変だ。僕はそれを身に持って体感している。

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