有隣堂しか知らない世界
初めて触れたガラスペンの感触と、店員さんの熱意に当てられて、なんだかふわふわした気持ちで家に帰った。
夕飯の後にレポートの続きを書こうと端末を開いてみたけれど、ちっとも進まない。
ライブラリーの閲覧カプセルでは視界いっぱいに資料を広げることができるけれど、自分の小さな端末では1つか2つの資料とノートを表示するのがやっとの大きさなので、資料を切り替えるたびに集中が切れる気がした。
やる気をなくして画面の資料リストをだらだらとスクロールしていると、リンクの端の方にガラスペンという文字が見えた。
詳細を見ると、有隣堂オリジナルコンテンツのマークが付いた動画資料で、タイトルが『【飾りじゃないのよ】物理の力で文字を書く!ガラスペンの世界 ~有隣堂しか知らない世界002~』となっている。
気になって再生すると、7分半ほどの時間があっという間に過ぎた。
映像の感じからしてずいぶん古い感じがしたので詳細を見ると、2020年と書いてある。私からすれば祖父母の時代くらい昔の話だ。
その当時でもガラスペンはあまり知られた道具ではなかったらしい。
でも、なんといっても驚いたのは、登場する岡﨑弘子さんという有隣堂の社員の人が、さっき私にガラスペンを体験させてくれた店員さんにすごくよく似ていたこと!
ついでにライブラリーで見慣れたブッコローのぬいぐるみが進行役をしていたことにも驚いた。
この『有隣堂しか知らない世界』というシリーズにはたくさんの動画があって、その夜はガラスペンやガラスペンで使うインクの動画、それにあの店員さんに似ている岡﨑さんが出演する動画をいくつも見続けて、レポートの続きが全然進まないまま夜更かしをしてしまった。
翌日は大学に登校し、休み時間、友達にガラスペンの話をしてみたけれど、友達は「へぇ」と言うくらいで、全然のってこなかった。
まぁ、それはそうだろうな。私も実際に体験したから面白いと思ったけど、聞いただけではどんなものかピンとこないと思う。
大学の帰りにまた有隣堂ライブラリーに寄ってレポートの続きをすることにした。締め切りが近いので、今日はちゃんと進めておかなくては。
ライブラリーに行く前に3階に寄って文具コーナーを見てみたけれど、昨日の店員さんは今日は居ないみたいだった。
今日はやるぞ、という気持ちで来たので、予約した2時間をばっちり集中して進めることができて、参考資料をピックアップしてレポートの組み立てができたから、あとは文献の引用を付けながら文章として書き上げれば良い、というところまできた。これなら家でもだいたいできる。
帰り際にライブラリー入口近くのコンシェルジェ・デスクを見ると、今日は話しかけやすそうな落ち着いた感じの女性の職員さんが居たので、動画について聞いてみることにした。
「あの、ちょっと聞いても良いですか?」
「はい、承ります。担当の
「資料の中に『有隣堂しか知らない世界』っていう動画シリーズがあったんですけど、あれって何なんですか?お店の商品紹介にしてはなんか変な感じだったんですけど」
と聞くと、渡邉さんは、
「ああ、あれ〜…」
と言ってくすくす笑い出してしまった。
少しの間笑った後、渡邉さんは逆に問い返してきた。
「ご覧になって面白かったですか?」
「はい」
「あれは昔、弊社が営業用に動画チャンネルを始めたばかり頃のシリーズなのですが、いかにも営業、という感じではない動画にしたところ、当時大変好評を博したと聞いております」
渡邉さんの話では、今でも有隣堂の新入社員は研修中に雑談のようにその話をされて、興味本位で1〜2本と思って見始めたら、次々に動画にハマる社員が多いという。
「今見るとさすがに時代の古さを感じますが、それぞれにこだわりのある人たちの熱意がどういうところに向けられているのか、とても興味深い内容だと思います」
「それ、何となくわかります」
私が動画を思い出していると、渡邉さんは、
「ご興味を持たれたのでしたら、動画シリーズ立ち上げ当時のことをスタッフが書いた本もありますので、お読みになってみてはいかがでしょう?お客様のIDでしたら閲覧可能です」
と言って、『
ついでなので、気になっていたことをもう一つ聞いてみる。
「有隣堂の社員さんって、ああいう面白い方が多いんですか?」
渡邉さんはちょっと目を見開いて、次の瞬間、吹き出すように笑い始めてしまった。静かなライブラリーなので大声で笑うことができなくて、突っ伏して声を抑えながら笑っている。
「いえいえ。みんな普通で真面目な人たちばかりですよ。社員もアルバイトも。
どこの会社でもそうだと思いますが、そういう普通に働いている人たちの中で、たまーに、この件にはこの人、とみんなに思われているような人や、仕事中は普通に働いていて、プライベートでは趣味を謳歌しているような人が居るものです」
そうだろうか。あの動画を見ていると、有隣堂にはなんだか変なこだわりの強い人が、他の会社よりもずっとたくさん居そうな感じがするけれど。
渡邉さんは職員用端末の画面をチラッと見て、
「お客様は学生さんですよね。当店でアルバイトをしてみませんか?」
と言った。
「社員の実際の様子を見ることができますよ。確か下のフロアでアルバイトの求人があったと思います」
にっこり笑う渡邉さんにつられて、アルバイト求人情報にもブックマークをつけてしまった。
数日後、レポートを提出した私は、アルバイトとして初出勤するために有隣堂に向かっていた。
そろそろ新しいアルバイトを探そうと思っていたし、両親も、馴染みの書店ならと賛成してくれ、応募してみると書類選考も面接も順調に進んで採用された。
有隣堂の中に入ってみたら、どんな本や物に出会えるんだろう?どんな面白い人が居るんだろう?
それから、アルバイト代が出たら奮発してガラスペンとインクを買おう。もちろん最初はそんなに高い物でなくていい。
それに紙も要る。捨ててしまうメモのようなものでなく、大事に書きたくなる紙。
色々想像をめぐらせると、のんびり歩いていられず、私は走り出した。すると、カバンに付けたブッコローの小さなぬいぐるみがぴょんぴょんと跳ねるように揺れた。
有隣堂にて ユー・リンドー@中庭通信局 @NakaniwaTsushin
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