最終章 堕天使の涙 後編

   別れ際、エントランスで亜樹はせめてもの罪滅ぼしと思ったのか、俺の掌を貧弱な乳房にあて、無言で口づけをせがんだが、俺はそれを拒んだ。それでは俺はまるで同情された憐れな物乞いになってしまう。こんな人間の屑でも本気で惚れた女にそんな惨めな姿を晒したくないし、その小ぶりで形のいい唇をそんな男の為に捧げてはいけない。

 嗚呼。くだらない痩せ我慢。

 亜樹の背中をやるせなく見送った後、俺は涙と思い出を沈める為にチャオプラヤ川のほとりに出た。

 風が生暖かい。

 それは悲しいほどに生暖かかった。

 結局、俺はメオの言うところの「魔法の使えない魔女」になってしまったようだ。

 亜樹…俺はまだ君が好きだ。

 だけど、それは所詮、月に咽び泣く紅葉の下の鹿なのだ。それに「愛している」と言えば言うほど不幸になってしまう悲しい愛なんだ。

 嗚呼、亜樹に抱いた恋しさも切なさも胸の痛みやときめきといったそういったものの一切をこの濁った川の底に沈めてしまおう。そして、俺は今まで通り、ヒモとして非情にドライに生きていくんだ。その為には涙と言う涙を一滴たりとも残さずこの川の底に沈めよう。頭の中では夕闇に消えていきそうな旋律のローリングストーンズの「アズティアーズゴーバイ」が流れている。

 それから何時間も俺は、この濁った川のほとりで泣いた。

 亜樹の笑顔、亜樹の何気ない一言、亜樹の仕草、亜樹の癖がなさそうであるところとか、そう。天使の記憶の一片一片がいちいち俺に悲しみを強要し、涙を流させてしまうのだ。

「亜樹。君は悪くない。だって、俺は最後まで君のことを騙し通してしまったのだから」

 やがて涙は枯れた。

 俺はオリエンタルホテルに戻り、トイレの手洗いで泣き疲れ、涙の跡が痛々しい顔を洗って、ユイに贈る為の笑顔を作ってみた。

 一寸、無理がある。

 やはり、堕天使は堕天使として生きていくしかないのだ。

 俺は少々、都合がいいのではないか?と思いつつ、ユイにする返事を「好きな女がいる別れてくれ」から「OK。一緒になろう。ユイの田舎に帰ろう」に差し替えることにした。

 この先もユイに愛情を抱くことはないと思うが、それがヒモでジャンキーな俺にとってふさわしい未来のように思えた。

 タクシーを走らせ、約束の時間より一時間ほど遅れてコンドーに着いた。

 その間、亜樹のことが頭から離れることはなかったが、一寸、お節介で、嫉妬深いユイとノーンカイでメコン川を眺めながら送る余生も悪くはない、と非常に軽薄な覚悟は出来ていた。

 気分は意外なほど落ち着いていた。なぜなら、ユイとの一件は修羅場にならずに丸く収まるのだから。それが男の狡さなのかもしれないが、とにもかくにも生きているうちが花なのよ、死んだら本当にそれまでよ、なのだ。

 そんなわけで、エレベーターを降りて、フロアーの一番端のユイの部屋へと歩く俺の足取りはスキップを踏むように軽かった。

「よぉ!ジュンちゃん。どーしたの?目が真っ赤だよ」

 なぜか部屋の前には悪徳ジャーナリストの田上がライカの一眼レフを持って待ちわびていた。こんな時間にいったいこのおっさんは何をしに来たと言うのだろうか???

「何やってんだよ?田上さん」

 一年に一度。いや。一生に一度だって見たくない田上の悪相に俺は顔を顰めて苦々しく言った。

「何って、ここで張ってたらいい絵が撮れるって、ユイちゃんから連絡があったんだよ」

「ユイが?どういうことだ???」

 俺は、またしてもイレギュラーにぶつかったみたいだ。色んなことがありすぎた今日一日のせいで頭がちゃんと起動してくれない。

「ジュンちゃん。あんたやばいことになってるよ。ユイちゃんが匿名であんたのことサツに売ったらしいよ。『ここの部屋に住んでる日本人はガンジャやってる』ってさ。多分、ブツは部屋のどこかに仕組んだんだと思うよ。表にサツが張ってたの気がつかなかったのかよ?」

 なんでユイが?

 なんでユイが俺を陥れようとしているのか?

 俺は頭の中のコンピューターをフル起動させて、十秒ほどして「ハッ」とした。

 つまりはユイは俺に愛されていないことと俺に他に好きな女ができたことに気付いていたんだ。やっぱり今日、正確に言うと昨日、俺が流した涙にただならぬものを感じていたに違いない。

「ユイちゃん。俺にあんたの浮気調査を依頼してたんだ。最近、ジュンの態度がおかしいってさ。で、あの子、名前なんて言ったけなぁ?あの子の写真見せたときは『色白で小柄だなんてあたしに対するあてつけだわ!』って怒り狂ってたよ。まぁ、そんな感じであんたには悪いと思ったけど、逐一、あんたの行動はユイちゃんに報告してたんだ。でも、俺を恨むのは筋違いだよ。あんただって悪いよ。自業自得だよ。腹をくくるんだな」

 ユイは全てをお見通しだったのだ!

「田上さん!いくらでも払うから俺を助けてくれよ!」

「無理だね。もうすぐサツが踏み込んで来るし、こんなスクープ、滅多に撮れるもんじゃないよ。『Gダイ』や『バン週』や『タイラット』にこのネタいくらで売れるんだろうなぁ?まぁ、俺的には蓄財が増えるのは大歓迎だがね」

 田上は、杉山治夫のように金に魂を売り渡し、身も心も悪霊か畜生に支配されているような良識の欠片もない下品な顔でほくそ笑んだ。

「それに金ずるがいなくなったあんたに金なんてないでしょうが。ジュンちゃんもご存知の通り、タイの警察は下手なやくざよりタチ悪いからね。言い訳も情けも通用しやしないよ。まぁ、あんたとユイちゃんとのことは、この俺が面白おかしく書いてやるから期待してなって!」

 嗚呼!こんな悪徳ジャーナリストに助けを求めた俺が馬鹿だった!

「じゃぁ、ユイはどこに行ったんだ?」

「それは俺に訊くまでもないでしょう。この部屋とあんたのパスポート売った金でとんずらさ」

 俺は脱力して部屋の前にへたり込んだ。

 逃げることもできたのに、精も根も尽きた。

 三分後、痩せて精悍な顔つきをしたムエタイの選手のような警察が若い女性の通訳を伴って踏み込んできた。

「大麻取締法違反」と言うちょっとアクセントのおかしい日本語で罪状を読み上げられ、俺の両手にお縄がかかった。そんな俺を嘲笑するかのように田上は銀のフラッシュを逃れられない俺に焚き続けた。

 そのフラッシュはいつまでたっても瞼の裏に残像が残るほど執拗であり、底のない悪意を感じた。

 俺は手錠に繋がれたまま護送車に乗せられた。黒い窓に柵のついた護送車は地獄行きの火の車のようにも見えた。先客にヤーバーを決めたように異常にテンションの高い若いカップルが乗せられていたが、俺は関わり合いになりたくないので目礼しただけで座り込んだ。

 ユイ……確かに俺はおまえを愛したことなど一度もないし、いい金ずるくらいにしか思っていなかった。だからと言って、仕返しするならするでお前の手で惨殺されるなり、撃ち殺されるなりしたかった。

 なのに……

 俺は耐えきれず、護送車の柵付きの窓から濁ったバンコクの夜空を見上げた。そこに浮かぶ月や星は今の俺には泣いているように見えた。

 一日のうちに一人の天使と一人の堕天使を失った一日。

 俺はさっき、チャオプラヤ川のほとりで涙という涙を流し尽くしたはずなのに、一粒だけ涙が頬を伝った。俺はそれを右手の人差し指ですくって舐めてみた。

 堕天使の涙は……

 堕天使の涙は……

 どうしようもないくらいに……

 どうしょうもないくらいに苦かった。


                                 了


                               了

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

堕天使の涙 野田詠月 @boggie999

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ