最終章 堕天使の涙 前編
夜八時半。
俺は「レインボー2」で怠慢に踊るダンサーたちの揺れる肢体を肴にユイの奢りのハイネケンを二本ほど飲み、「眠くなった。先帰ってるね」と嘘をつき、ユイを巻いて、俺はタクシーをオリエンタルホテルに走らせた。
俺は「もしかしたら、亜樹を失うかもしれない」と言う不安に怯えていて、トールウェー(高速道路)から見える美しいバンコクの夜景も目暗のようにちっとも目に入らなかった。
そして、その不安を振り払うように「亜樹。俺は君を愛している」と日本語で針の飛んだレコードのように口の中で何度も繰り返していた。そんな俺を「徒労はやめろ」と冷笑するようにカーラジオからはタイのロックバンドLOSOの「ジャイサンマー(心が命じるからだ)」が流れている。
「こんな時に失恋の曲なんて、巫山戯るな!番組変えろ!」と憤慨しつつもそんなことすらタイ語で言えない自分がひどく情けなく思えた。その「トホホ」な気持ちがいつのまにか緊張をほどいていた。
約束より十分ほど遅れて到着。
地下一階の「バンブーバー」ではすでに生演奏が始まっていて、黒人の女性ジャズボーカリストアリスデイが生バンドをバックに優しいスロージャズである「ミスティ」を歌っている。その歌声は耳に心地よく、ふわふわと浮遊しているようで、このまま目を閉じれば無条件に素敵な夢が見られるような分子が入っているのではないか、と思うほどだ。
このナンバーの歌詞のような優しい霧に包まれたような俺はカウンターですでにフローズンダイキリを飲んでいる亜樹を見つけた。
よく見ると、何か悲しいことでもあったのか、背中が泣いているようで今すぐにでも抱きしめてあげたい衝動に駆られたが、時と場所と彼女が誰かということを考えて、俺はあくまでクールに声をかけた。
「ごめん。待った?」
振り向きざまブルーノートのシャワーを浴び、青いネオンのかかった亜樹の顔は、少女の面影をどこかに置き忘れたか或いは、排除したような憂いのある大人の女の顔で、俺は「亜樹ちゃん」ではなく、「亜樹さん」と呼んだ方がいいのだろうか?と真剣に悩み、またその美しさに固唾を飲んだ。
「いいえ。私もついさっき来たところです。あ、明美ちゃんの件、ありがとうございました!私、すっかり純一さんのこと頼りにしてたんで、甘えすぎたかなと思ったんですけど、本当に話つけてくれたんですね」
そう言って「ペコリ」と頭を下げた。その仕草が可愛くて、憂いのある佇まいとのギャップに萌えそうだ。俺はまた、緊張が復活してしまいそうだった。
「いや。そんな。別に俺は何も。亜樹ちゃんが友達のことで苦しんでるのを見て見ぬふりができなかっただけだよ。それに…それに、亜樹ちゃんの友達は俺の友達でもあるんだから。違う?」
俺は本当は最期の一句を「だって亜樹は俺の大事な人だから」と言おうとしていたのに、照れて当たり障りのないことを言ってしまった。
こんな台詞をメオに聴かれでもしたら、銃も担げない老兵を見る目で「兄貴。ダサいですよ」と嘲笑されそうだ。
俺は亜樹を前にかなり固くなっていたので、深呼吸をして、姿勢を正し、バーテンにドライマティーニをを注文した。こういう場では、喫茶店におけるコーヒーと同じで、四の五の言わずにドライマティーニなのだ。なぜ?と訊かれても困る。そういうものだからだ。
アリスディは「アズタイムゴーズバイ」を歌っている。カクテルグラスを合わせると、まるで俺がハンフリーボガードで亜樹がイングリッドバーグマンのようだ。映画と同じように「君の瞳に乾杯」と言いかけて、「今、言うべきことはそんなことじゃないだろう!」と自嘲し、俺は覚悟を決めた。
「そうだ。電話でも話したけど、亜樹ちゃんに大事な話があるんだ。今、言ってもいいかな?」
「はい」
この緊張の一瞬。
「俺は…」
何秒経っただろうか?口の中がカラカラに乾いた。だけど、その言葉を口にしない限りは何も始まらないし、何も終わらない。生を受けることもないし、死を賜ることもない。目は亜樹を見詰めたまま。スローモーションでフォトジェニックな時間が流れる。
「俺は、はじめて会ったあの日からずっと、ずっと、君のことが好きです!その覚悟と整理はちゃんとつけてきました。俺は真剣です。俺、今はこんなんですけど、亜樹ちゃんと一緒だったら、きっと変われると思うんだ。付き合ってくれませんか?」
ついに言ってしまった!
この後、「それと俺は、ライターなんかじゃない!ヒモだし、根っこはメオと変わりはしない。亜樹ちゃんと出会って間違いに気づいたんだ。ずっと嘘ついちゃってごめんね」と続けるつもりだったのだが、亜樹に指一本触れず、その言葉を言ってしまっただけで胸が一杯だった。
すると亜樹は柳眉を八の字にして今にも泣きそうな顔になり、三秒もしないうちに亜樹の頬に涙が伝った。
いったい、これはどっちの意味なんだろう???
これから訪れるものは、歓喜なのか、失望なのか。やはり、澄んだ湖に一石を投じて、波紋を作るべきではなかったのかもしれない。胃に硝子の破片が詰まったような痛みが走った。
すると、亜樹は涙ぐんだ声で真相を話し始めた。
「純一さん。ごめんなさい。私、純一さんの気持ち知りながら、ずっと純一さんのこと騙し続けてきたんです。私…」
「騙したのは俺の方なんだよ!」と言いたかったが、なぜ亜樹が俺のことを騙していたのか?俺は意味が分からず、ガンジャが効いて、トリップが始まるときのように視界がぼやけ始め、わけがわからなくなるのだった。
亜樹……
いったいどういうことなんだ?
視界がホワイトアウトした。
暖かな南太平洋の波打ち際から夏でも吹雪く北千島にでも放逐されたみたいに突然で苛烈だ。
「私、日本に婚約者がいるんです」
俺は一瞬、亜樹がこの言葉と同じ発音の外国語を話したのかと思ったが、亜樹の涙で溢れた力ない目を見たら、それは冗談でも外国語でもなく、額面通りの意味の言葉だとわかり、俺は突然、暗転した舞台で稽古不足でアドリヴが利かずに右往左往する役者のように目が泳ぎ、動悸が激しくなり、台詞が出なくなった。
亜樹は泣きながら続けた。
「私、バンコクは独身生活の最後の自由時間のつもりで来ました。帰国したら彼と結婚します。だけど、純一さん、私にすごく優しくしてくれるし、誠実で正義感があって、それでいて、お茶目で、少し天然入っているし。正直、私ずっと揺れていました。もし、純一さんの一押しがあったら、別の世界に連れて行ってくれるかもしれないって期待したりして。だけど私、彼のこと裏切ることなんてできません。私、純一さんの心を知りながら、こんなに酷いことを。私のこと死ぬまで恨み続けてください」
ショックと言うよりは寧ろ潔よい告白で、「俺はさっきまで何を一人でのぼせあがっていのだろう???」と惨めさのどん底に突き落とされた俺と俺の心を真っ二つに叩き斬った。それが痛みはじめるのには少し時間が掛かるようで俺はただ、全てを失い、裸にされ、恨み言すら何も言えず、ただ立ち尽くした。
嗚呼!「純粋な心」と「純粋な愛」を取り戻すにはこんなにも失うものが多いものなのか?
いや。それを取り戻そうとして、母なる大地たる亜樹を失うという限りなく喜劇に近い悲劇が降ってきたのだ。
「純一さん。こんな酷い女、平手打ちして、『お前みたいな女なんか願い下げだ』とそっぽを向いて、非情に斬り捨ててほしい」
亜樹を責めるつもりなど毛頭ない。
全ては俺のひとり相撲。滑って転んだで、自身をこの世の果てに追いやってしまったのだ。計算外もいいところだとは言え、騙される奴が悪いのだ。俺はそんな世界に生きていたはずだ。
「俺は…俺はね。笑った亜樹ちゃんが好きだ。なのに、俺なんかが現れたからそんなに苦しまなきゃいけないんだよね?俺に君が手に入れるはずの幸せを奪う権利なんてないし、それでも俺が君を奪うんだとしたら、そんなこと映画の中でしか許されないことだよ。それに君を恨むなんてとんでもないよ。君が好きで君を好きな人が悪い奴なわけがない。だから、俺のことは忘れて。だから笑ってよ」
心に目には見えない透明な血が流れはじめ、俺は泣いてしまいたくなったが、亜樹を笑顔のまま覚えておきたい俺は必死になって耐えた。
「純一さん…本当にごめんなさい!」
亜樹は俺の薄い胸の中で泣いた。
「笑って」と言う俺の最後の願いも虚しく、いつまで経っても、アリスディが最後の曲「アフターユーヴゴーン」を歌い終えてもその涙が途切れることはなかった。
「君去りし後」
これが俺と亜樹の別れの曲になった。
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