第八章 前兆


 メオが明美をどうするかについては俺も些か保証をしかねていたが、亜樹の話によると、明美から「最近、メオが前みたいに頻繁に連絡をくれなくなった」と言う愚痴を聞いたと言うことなので、俺は亜樹が明美のために苦しまなくていいことへの「安堵」と可愛い弟分のシノギを奪ってしまったことへの「うしろめたさ」で複雑な想いのままで、情緒不安定な毎日を送っていたが、亜樹の「純一さんって本当に頼りになるんですね」と言う金で買った免罪符のような壊れやすいが、すがるものが他にないような信頼を勝ち得ていたので、一応、結果オーライと言えた。

 だからこそ、必然的にこれ以上、亜樹に「ライターである」と言う嘘をつき続けていくこととユイに「愛している」と言う嘘をつき続けることがことのほか重く、日々、心苦しくなってきていた。

 最後まで騙し続けることが結局、礼儀であり、誰も傷つけずに済むことなどわかりたくないほどわかっていたが、亜樹を騙し続けるということは亜樹の「純真」まで欺くことになるのだと考えると、俺の胸は罪悪感で満たされ、やがてそれが溢れ出して、張り裂けて、崩壊しそうになるのだった。

 俺が「ジャンキーでヒモである」と言う事実と「亜樹を愛している」と言う本当の気持ちを亜樹に告げるべきなのか???

 引き金を引くのか引かされるのか?

 どっちつかずの日々が何も言わずに過ぎ去っていった。

 これだけ心の中では葛藤し、もがき苦しみながらもユイの前では不思議と冷静に振る舞うことができた。それはひとえに俺の天性の演技力によるものなのだが、そのユイでさえも近頃、俺に無理難題を吹っ掛けてくるようになった。その爆弾はいつかは投下されるものと俺なりに覚悟はしていたものの、まさかこんなに早くに来るとは思っていなかったのだ。

 その爆弾とは???

「ジュン。あたしと結婚しよ。別にジュンがお金持ちでなくても平気だよ。ジュンと一緒だったらそれだけでいいよ。この部屋とバッグや指輪売ってあたしの田舎でのんびり暮らしましょう」

 何もタイ人に限らず結婚を口に出し始めた女ほど厄介なものはない!

 きっと、そのうちにこれ見よがしに「結婚の日取りお坊さんに占ってもらいましょうよ」とか 「ジュンは男の子と女の子どっちが欲しい?」なんて事を言い出すに決まっているのだ。踏み込まれてはいけない領域にはとっくに踏み込まれていて、大地に挿された旗は勢いよく晴天に翻っているのだ。もう逃げるしかないのは明白なのだ。

 全く、女から「結婚しよう」と「子どもができた」を突きつけられたら男というのは何も言えず何もできなくなってしまうものだなぁ…

 俺は苦笑しながら「そのうちな」と曖昧にはぐらかすのが精一杯だった。そして、俺はこの事がきっかけで「ユイと終わらせて亜樹と始めよう」という気持ちが一段と強くなった。

 ユイ……いい金ずるだったけど、これまでだ。これ以上、嘘をつくのはよくない。嘘は罪と思えるほど俺は真人間になってしまったというのか?

 ユイにも亜樹にも全てを明らかにする。

 これが俺が亜樹と始める絶対条件のように思えてきた。勿論、嘘をついたままでも今日までの亜樹の俺への信頼が揺らぐことはないだろう。だけど、それでは仮に亜樹が俺を愛しはじめたとしても「俺」なのではなく、「虚像の俺」を愛すことになるのではないか?そんな「空虚な愛」には俺はとても長く耐えていけるとは思えないし、虚を強引に事実にする力量や図太さなどないし、知らず知らずのうちに愛と暮らしは冷え始め、消えてなくなってしまうのだろう。だからもう、俺にできることは成功率のことなんか考えずに「スゥイッチ」を押すことだけなのだ。

 俺は「大事な話があるから」と亜樹を日曜日の九時にオリエンタルホテルの「バンブーバー」に呼び出し、俺にとっては叩き続けた新しいドアが開かれるかもしれない、もしくは全てのドアが閉じてしまうかもしれない「運命の告白」をすることにした。いくら亜樹が少女のような純白な心の持ち主だとしても男から「大事な話がある」と聴けば、それがいったい何なのかくらい勘ずくに違いない。片方のユイにも「答えを出すから」とその日の日が変わって午前二時には帰宅するように言っておいた。

 当日。

 午後三時起床。

 どういう訳か、酒も睡眠薬も飲んでいないのに、いつになくグッスリと眠ることができた。

 このところ、つまりは、亜樹と出会ってからはガンジャをやめているせいか目覚めも爽やかだ。ユイはTシャツだけを羽織って起き掛けにカノムジム(タイのカレーそうめん)を食べている。

 この匂い……

 二日酔いの時なんかはブチ殺したくなるほど胸がむかつく匂いなのだが、目覚めが爽やかなのとユイとこんな朝を迎えるのももうこれで最後なんだと思ったらユイに対して有り得ないような優しい気持ちになれて、ユイのエキゾチックな顔立ちもこの目に非常に新鮮に写る。

「あ、おはよ。ジュンも食べる?」

 振り向きざまの素っぴんのユイはすこし眉毛が細い以外はメイク時とあまり変わらない。こんな絵に描いたようなタイ美人が今まで俺の女だったことが何だか「不快な奇跡」であったような気がして、俺はタイ料理の中で唯一、苦手なカノムジムを食べてみよう、という気になった。

「うん。一寸、もらうよ」

 悪くない。

 匂いが苦手で今まで食わず嫌いだったカノムジムが美味しいということに気づくのに俺は二年も掛かった、と言うことになる。

 恐らく、末期ガンの患者がこんな物の見方や、感じ方をするのかもしれないが、もうすぐ最期を迎えると思うと全てのものが輝き、人の行為全てが有難く思えるものだ。俺は今までのユイが俺にしてくれたこと、ユイのちょっと重い愛、そしてこの意外とおいしいということがわかったカノムジムのことを思うと涙が止まらなくなった。

「ジュン。泣いているの?」

 ユイはホーローの銀の蓮華とフォークを動かす手を止めて、俺の顔を覗き込んだ。

「ユイ!幸せだなぁ!」

 俺は感極まって、不遇な下積み時代を思い出した時の西川きよし師匠のようなことを口走ってしまった。もしかしたらユイは俺のただならぬ様子に心変わりを悟ってしまったのかもしれないし、今更、俺が若い堅気のしかもかなり可愛い女に走る前兆を読み取ってしまったのかもしれない。

 それならば、嫉妬深く、直情的なユイは刃物を持ち、躊躇いなく、俺を刺すだろう。そして、刺した後のことは刺してから考えるのだろう。如何にも直情的で刹那的なタイ人らしく。

 やはり、運命は零か百なのか?

「やっぱり俺は詰めが甘い!」と思いがなら、涙を拭いてユイを後ろから優しく抱きしめた。

「ユイ。俺は子ども好きだよ。君にそっくりの可愛い女の子がいい」

 ユイは俺の承諾とも取れる告白に黙って何度もうなずいた。

 


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