第七章 慟哭

 あのほろ苦いランチから二日後、亜樹の方から連絡が入った。

「あ。純一さん?ちょっとご相談したい事があるんですけど」

 おお!

 亜樹は俺を頼ってくれたのだ。相談内容がどうであれ、俺はただそれが嬉しくて借金の保証人だろうと、美人局だろうと、ポン引きだろうと、ブローカーだろうと何にでもなってみせようと思った。

「俺に相談って何?」

「あのぅ。明美ちゃんのことなんですけど…」

 俺はすぐにメオの端正で甘い顔立ちが脳裏をよぎった。察するに大方、メオが性質の悪いジゴロである事に気付いて「親友として明美をどうにかしたい」と言う事なのだろう。

 亜樹……君はなんて友達思いの優しい女の子なんだ!?

 亜樹……君は本当は天使なんだろう?

 俺はまた自分の世界に入り込んでしまった。

「純一さん?」

「あ。ちゃんと聴いているよ。メオさんがどうかしたの?」

 俺はメオを「さんづけ」で呼ぶことに体の一部が人間以外の畜生になったような違和感を覚えていた。

「私、あの人に関してすごい悪い噂を聞いたんです。あの人、日本人の女性ばかりを狙った…あれ日本語で何て言うんだろう?ホストじゃなくて……」

 亜樹は「ジゴロ」と言う言葉さえ知らない汚れの無い女に違いない。その言葉を仮に知っているにしても言わせてはいけないという変な使命感に駆られて、俺はその答えを口にしてあげた。

「ジゴロ?」

「それです!ジゴロ!あの人、前にも日本の女の子を騙して、全財産貢がせた上に自殺にまで追い込んだ事があるって、そんな悪い噂を耳にしたんです。もし、それが本当だったら、明美ちゃんも同じ目に遭わされるんじゃないかって私、居ても立っても居られないくらい心配なんです」

 亜樹の声はとても頼りなかった。俺はその場に駆けつけて「心配しないで」と言って優しく抱きしめてあげたくなった。それに反して「確かメオの前の金づるはメオが去った後、アパートのトイレで首を括って死んだんだっけな」と思い出す余裕があった。勿論、メオはそんなことに心砕くような甘ちゃんではない。ビジネスが終わったから去る、それだけの事だ。俺とて、本来ならば、心痛めるようなタマではないし、亜樹と無関係ならば、その辺の野犬がたまたま目の合った気の弱そうな女の子を噛んだという程度の出来事だ。

「明美さんはそれを知っているの?」

「だから私、明美ちゃんに忠告したんです。『あの人は明美ちゃんが思っているような人じゃない』って。そしたら明美ちゃんは『亜樹ちゃんは僻んでいるのよ』って、聞く耳を持ってくれないんです。純一さん。私どうしたらいいのかわからなくなっちゃって……」

 俺に可愛い弟分のビジネスに横槍を入れ、壊す資格などないし、そんなカッペの百姓のような無遠慮な不粋がまかり通る世界ではない。寧ろそんなことを口にすれば、永久に村八分に遭うだろう。だけど、亜樹は現実にこうして胸を傷めているのだ。悪い意味で無邪気で、二つの目があるのに何も見えていない目暗で愚者である明美の為にだ。

「メオさんがそんな悪い人には思えないんだけどねぇ。ねぇ。亜樹ちゃん。明美さんはメオさんに惚れてしまっているわけだから彼以外何も見えてないし、周りの忠告や小言も聞こえないんだと思う。だいたい恋なんていつもそんなもんでしょう?目を覚ますことは限りなく不可能に思うんだ」

 現に俺が亜樹にそうなってしまっているんだ!と見詰めながら、わかってもらえるまでゼロから心を告げたい衝動に駆られるが、必死に堪える。

「だから、明美さんを説得するよりもメオさんに直接、話をした方が早いと思うんだよね。何だったら俺が彼に会って話つけてみようか?」

 俺はいったい何を言っているのだろう?今まで散々、ユイを食い物にしてきたこの俺がメオに「亜樹が悲しむから明美から手を引け」なんて言えるわけがないだろう。なのに、俺は亜樹をこれ以上、悲しませまいとしてそんなミスキャストを自分から進んで演じようとしている。亜樹への執着を絶たねば、俺は本当に「魔法の使えなくなった魔女」になってしまう。

 それなのに、それなのに…

 ああ。俺の亜樹への愛は本物だけど、真実の愛というのは時としてこのように間抜けですらある。

「本当ですか?本当にお願いしてもいいですか?やっぱり純一さんに相談してよかっ た。私、純一さんのこと信頼してます!」

 俺は亜樹の中で「Believe」から「Trust」へとアップグレードされたようだ。あとはそれが何だかの奇跡と偶然が重なって「Love」に変わるのを願うのみだ。しかし、その為には俺はメオが言うところの「魔法が使えなくなった魔女」にならなければいけないのかもしれない。亜樹の愛を得ると言う事はそれだけ失うものが多く、尊いということなのだ。

 なのに、それだけの覚悟が今の俺にあるのかどうかもかなり怪しい。

 翌日、俺はタニヤの「らあめん亭」に顔を出した。日本育ちのメオはバミー(タイ式ラーメン)やクゥイッティアオ(同じくタイ式うどん)よりも日本式のラーメンを好んでいるので平日のお昼過ぎに大体ここに行けばメオは捕まる。案の定、メオは涼しい顔で日本式の味噌ラーメンをタイ式にレンゲに麺をのせてすすっていた。時間はお昼時を過ぎ、もうすぐ十四時になるので客もまばらだ。

「カオサンの『レックさんラーメン』はここと同じ味で半額だって知ってたか?」

 俺はラーメン好きなメオに挨拶変わりにちょっとした情報を提供した。

「兄貴。おはようございます。へぇ。カオサンにそんな店があるんですか?覚えておきます。それにしても兄貴がタニヤとは珍しいですね。本当は何か俺に話があるんじゃないですか?」

 流石、メオの勘は厄介と思うくらいに冴えている。メオは箸を置いて机に肘をつき、手を頬に当てて俺の方を見た。

「明美ちゃんから手を引けって話だったら断りますよ。言ったでしょ?彼女は金になるって。それも大金にね」

 しかも、その読みは恐ろしいくらいに正確で俺は動揺を隠せない。

「別に。お前のビジネスを邪魔するつもりなんかないさ」

「じゃぁ、なんでここに来たんですか?もしかして、亜樹ちゃんに頼まれて断りきれなかったからとか?兄貴がこの前言ってた天使がどうのこうのって亜樹ちゃんのことでしょ?どうなんです?」

 あまりにも図星なので、俺は話の輪郭がぼやけてきた。俺はあたふたしながら言葉を捜したが、捜そうとすればするほど見つからなかった。饒舌な詐欺師が無口になるのは、尻尾を捕まれた時だけだ。

「兄貴!いい加減に目を覚ましてくださいよ。この前からずっと腑抜けじゃないですか?俺は兄貴みたいになりたくて今日まで必死に頑張って来たんですよ。その兄貴が愛?恋?真心?いつからやっていいことと悪いこともわからなくなっちゃったんですか?頼むから俺を失望させないでくださいよ!」

 メオが本気で俺につっかかって来たので、周りの客の注目を浴びてしまった。

 注目を浴びたと言うよりも、タイ人は大きな声を出されるのに慣れていないので、俺とメオの出方を恐る恐る窺っていると言ったほうが正しい。

 俺は冷静さを失ったメオに優しく問い掛けた。

「なぁ、なんで俺みたいなクズになりたいんだ?」

「俺は…俺は、兄貴と同じで身内がいないんです。俺が中学の頃、お袋は日本人の男を作って家を出ました。優しいお袋だったのに、成金とデカマラ以外の取柄のない土建屋の社長の元に走って、俺と親父を捨てたんです。横浜のタイ料理店でコックをしていた親父はそれを機に酒に溺れるようになって、錦糸町のタイ人娼婦に入れ込むようになって、店の金に手をつけ、高利貸しから金を借り、身代潰した上にその女と心中です。つまり、俺から大事なものを全て奪っていったのは『女』なんです。だから、俺はこの世界の女と言う女に全て復讐を誓ったんです。それで十八の年にバンコクに戻ってジゴロになったんです」

 メオは堰を切ったようにその悲しすぎる過去を語りはじめたが、メオの話に全くシンパシーは抱けなかった。理由は違うにせよ、俺だって両親はいないし、程度の差はあれ人は裏切られながら生きているものだから。自分だけが特別で、悲劇の主人公だなんて、自惚れもいいところだ。

「でも、最初は全然、上手く行きませんでした。騙そうとしても情って言うか本当の気持ちが出てしまうんです。今と違って考えている事が顔に出てたから。もう、ジゴロなんてやめちまおう。土方でも何でもして真っ当に生きようと思ってた時にに兄貴に会ったんです。兄貴には迷いがなかった。最早、悪魔に魂を売り渡してすらいた。ユイちゃんに軀売らせて、食い物にしてるのに全然、心を痛めてなかった。いや。この人には人として当たり前の感情と言うものが生まれつき欠如しているのだと思った。本当にあの頃の兄貴は格好よかったなぁ。だから、俺はそれ以来、迷いと女に対する情を一切捨てたんです」

 四拍置いて、メオは慟哭した。

 こんな男でも涙を流すのだと思うと、俺が亜樹に惚れるということは、犯罪、いや。地獄に堕とされるほどの重い劫を積んでいるに等しいのだろう。

 格好よく人でなしでい続けて欲しい俺が亜樹と言う一人の女の為に愛だの本当の心だのを信じはじめていて、そう言う目には見えない況してや、金にもならない物と心中しようとしている俺とそんな俺に憧れている自分が情けなく思えたのだろう。それゆえにその涙は悲しみと言ってしまうには軽すぎる。今日の今日まで信じていたものが二束三文の価値もなく、禍を齎せるだけのものと知った絶望の涙だ。

「兄貴!亜樹ちゃんと出会う前の非情で冷酷な兄貴に戻ってくださいよ!そうじゃなかったら俺!」

 メオは絶句した。

 と同時に俺は底の見えない暗澹たる気持ちになった。なぜなら、俺にさえ会わなければメオは堅気に戻れていたのだから。それなのに、俺に会ってしまったばっかりに「プロ根性」に目覚めてしまい、名うての悪徳ジゴロになってしまった。

 そのうちメオは恨みを買いすぎて、夜道で後ろから騙した女に呪詛の言葉とともに刺し殺されてしまうのだろう。

 しかもそれは決して遠くない将来に…

 メオ済まない。

 俺を許してくれ。

 俺は心の中でメオに許しを請うた。

「なぁ。メオ。一つだけ言える事は俺もおまえも正しくないって事だけだ」

 俺は二三度メオをきつく抱擁した。ついに明美から手を引くことの約束を取り付ける事はできなかった。いや。その一言を言わせなかったのはメオへの最低限の敬意だ。メオは泣き果て疲れた子どものように震えているので嘘泣きでない事がわかる。

 心と口の中が苦い。

 味噌ラーメンはとっくにのびているだろう。





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