第六章 ほろ苦いランチ


 俺の思惑は的中した。

「ノルマンディ」いらい、俺はすっかり亜樹からの信用を勝ち得ている。そのせいか、最近、亜樹の方から電話をかけてくることが多くなった。

 亜樹や亜樹の友達とお茶をしたり、食事をしたりの機会が増え、俺はだんだん自分が真人間に戻っているような気がした。その反面、メオに言われた「魔法が使えなくなった魔女」と言う言葉が耳にこびり付いて離れない。俺はいつ俺が「魔法が使えなくなった魔女」になってしまうのだろうか?と言う恐怖に怯えていた。

 平日のお昼。

 俺は亜樹や亜樹の語学学校の友達とお昼を摂るため、十一時五十分にはタイムズスクエアービルの一階のエレベーターの前に忠犬の如く立ち尽くして、亜樹が降りてくるのを待つのが日課になっていた。あまりにも俺がマメにやって来るので、中には俺が亜樹の恋人ではないかと勘違いする人もいて、俺にしてみれば嬉しい誤解を楽しみつつ、「本当に亜樹が俺のものになってしまえばいいのに…」とわきまえなければいけないのに、一人心の中でのたうち回るのだった。

 金曜日。

 授業が立て込んでいたのか?正午を二十分ほど過ぎて亜樹は姿を現した。

 その姿はまさに十五階からエレベーターで舞い降りてきた天使であり、天使は、授業のハードさを物語るように少し気の抜けた顔をしている。と言っても、気が抜けていようと、気が狂っていようと可愛い女は可愛いものだ。俺はそんな亜樹を木綿のシャツになって包んであげたくなるのだ。それはもし、気持ち悪がられず、許されるのならの話なのだけれど…

「ごめんなさい。純一さんお待たせしちゃって」

「俺は待つのには慣れているから平気だよ。それよりお疲れ様。やっぱりタイ文字を習うのって大変なんだね」

 そんな俺と亜樹の間に割り込んでくる女がいた。

「純一さんって本当にマメなんですね。本当は亜樹ちゃんのこと狙っていたりして…」

 この厚かましい女は亜樹の親友で明美と言う女なのだが、大柄で、不細工で、お節介で、図々しいので、正直、俺の嫌いなタイプの女であるし、できればこの場からご退場願いたいくらいなのだが、亜樹の手前、つっけんどんにもできない。それにしても、全く対照的な亜樹と明美が親友でいることは俺なんかからしたら質の悪い冗談にしか思えない。

「もう!明美ちゃん!失礼でしょ!純一さんは紳士なんだから!」

 亜樹は、疑いようもなく俺を信用している。あきらかに「ノルマンディ作戦」の効果だ。あとは勝負どころを間違いさえしなければ亜樹は間違いなく…間違いなく…俺の女になる。

「そうだ。純一さん。今日、私の彼がここに来るんですよ」

「こんな女にも彼と言うものがいるのか…」と感心したが、なぜ俺に訊いてもいない況してや、聞きたくもない私事を俺に自慢する必要があるのだろうか?全く、あっけらかんと神経に針を落とされるくらい不快だ。

 いや。神経がないからわからないのだろう。俺ならこんな女、絶対に厭だ!俺はつくづくあの日、あの時、あの場所でぶつかったのが亜樹で本当によかったと思った。

「へぇ。彼ってどんな奴なんです?日本人?タイ人?」

 ユイと暮らしているうちに俺は自然と女の誉め方とかあしらい方が身に付いてしまっている。昔の俺だったら、舌打ちして明美を睨みつけているところだ。

「メオと言って、日本育ちのタイ人でイケメンのくせに優しいんです」

 日本育ちで、イケメンで、メオ???

 俺は非常に厭な予感がした。  

 もし、それが俺の弟分の悪質ジゴロのメオであったら当然、俺の正体を知っている。これをらの一切を亜樹にばらされるのは絶対にまずい!「ノルマンディ作戦」が骨折り損のくたびれ儲け、どころか粉々に砕け散ってしまう。

 明美がメオに身包み剥がされるのは別に構わないのだが、俺はその一点が不安であった。

 確認の意味で明美に訊いてみた。

「そのメオってひと、若い頃の真田広之に似てて、日本語がペラペラで右の肩に龍の刺青があるでしょう?」

 明美は「嘘!」と言う顔をして両手を口に当てた。

「え?純一さんのお知り合いなんですか?」

「いや。何となくそう思ったんだ」

「ほら。純一さんライターだからそういうの鋭いんだよ」

 亜樹がうまいことフォローしてくれたのだが、兎に角、俺の悪い予感は的中したようだ。そんなメオの噂をしていると、見慣れた南方系の美男子が何時間遅刻しても絶対に慌てず、悪いとも思わず、走らないタイ人にはありえないくらいのスピードでダッシュして登場した。

「ごめ~ん!明美ちゃん!渋滞に引っかかっちゃって」

「メオ。私、ずっと待ってたのよ。さみしかったぁぁぁ…あ。紹介するね。こっちが親友の亜樹ちゃんで、こちらがライターの純一さんです」

 俺が「ライター」と紹介されたとき、メオの顔が一瞬、「?」で一杯になり固まってしまった。

 俺とメオは視線が合った。

―兄貴。ライターってどういうことなんだよ?

―お前だってなんでこんなところにいるんだよ?

 と俺とメオは目で会話した。

 俺は次の瞬間、ニヤリと笑ってひと芝居打った。

「はじめまして。純一です。さっき明美さんから聴いたよ。日本語上手だね」

「ど、どうも」

 メオは口は巧いが、咄嗟のアドリブに弱い。ここで出鼻を挫いておかなけば、俺に関して余計なことをあることないこと話しかねない。弟分と言えども、俺とメオと言うのはこんなふうに決して隙を見せることが許されない緊張した間柄なのだ。

「さぁ、みんなそろったみたいだから行きましょ」

 亜樹が絶妙のタイミングで切り出した。

 普段、亜樹や明美とお昼に行くと言えば、ソイ十四のタイ飯の食堂か向いのロビンソンデパート(つまり俺と亜樹が初めて逢った場所だ)の地下のフードコートと言うのが定番なのだが、今日は日本育ちのメオもいるので、ソイ十九の日本料理店「新大黒」に行くこととなった。今日は雨季にしては珍しく湿気もなくカラっと晴れているので片道十分の道のりも苦にならない、寧ろ快適な散歩道だ。

 何より俺の左側には天使である亜樹が歩いている。その上、その天使は俺のことを信用しているのだ。こんな幸せなことってあるだろうか?唯一、欠けているのは亜樹が俺の女ではないということだけだ。

「新大黒」はディナーの予算が千Bは必要な高級日本料理店なのだがお昼のランチは百五十Bくらいから食べられる。だからと言って、サービスの質が落ちるわけではなく、中途半端な和食屋にいがちなTVやおしゃべりに興じ、客そっちのけの給士のお姉さんは皆無で皆、着物を着こなして、にこやかにそれでいてチャキチャキと動き回っている。また、お座敷の多さもこの店の魅力だ。

 俺は座敷に上がり際にメオに小声で耳打ちをした。

「お前、とち狂ったのか?かなり趣味悪いぞ」

 メオは無邪気ともいえる満面の笑みを浮かべた。こいつが何か悪巧みをしているときはいつもこのような最高に無邪気で清涼な南風のような爽やかな笑顔になるのだ。だから、大概の女はそれを好意と取って騙されるのだ。

 つまり、一流の詐欺師たる絶対条件である「考えていることが顔に出ない」タイプなのだ。

「大金になるんですよ。明美ちゃんは」

 メオは女から金の匂いを嗅ぎ当てる臭覚だけは犬のように確かだ。このクレンジャイ(遠慮)に欠ける大女のどこが金になるのかは俺にはさっぱりわかりようがないのだが、大方、実家が金持ちとかそういうことなのだろう。それであれば明美のがさつで、空気の読めない性格にも納得がいく。

 俺はメオが余計な事を喋らないように料理を待つ間、メオと明美を質問責めにすることにした。

「明美さんとメオさんってどうやって出会ったんですか?」

 メオと明美は五秒ほど見詰め合って、お互い照れ笑いをした。本当に照れ笑いをしているのは明美だけで、メオのそれは一流の演技だということは言うまでもないし、それはよっぽど第六感が発達しているか、人の心の中が読み取れる人間でないと見破れはすまい。

「BTSのサイアム駅の階段で私が躓いて、転倒しかけた時に後ろから抱き起こしてくれた人がいたんです。それがメオだったんです。で、振り向きざまの笑顔と白い歯を見たときに私、とうとう王子様が間の前に現れたんだと思ったんですよ」

 喋りたくて仕方がない明美が夢見心地に捲し立てている。勿論、気持ちよく思っているのは明美だけだ。

「僕の方こそお姫様かと思ったよ」とすかさずメオは誠実そうな目をして明美の目を見詰め、明美の頬を指で擽る。メオにとってこの程度の演出は朝飯前だ。

 なぜ微笑んだか?

 そんなの明美に金の匂いを嗅ぎ当てて嬉しかったからに決まっているだろう。白痴なのか?この大女は。本気でイラつくほどの間抜けさだ。

「明美ちゃん。一寸、待って!それって私と純一さんの出会いに似てない?」

「と言うことは亜樹ちゃんは純一さんを王子様だと思ったんだ?」

「うるせぇ大女!」と思いつつも俺は年甲斐もなく赤くなった。亜樹を見たら同じように俯いてはにかんでいる。と言うことはあの時、亜樹も俺と同じ気持ちだったのだろうか?亜樹も同じ運命を感じていたのだろうか?なんだ。それならそうと早く言ってくれればいいのに…

 いやいや。思い込みはよくない。思いはあくまで俺の口から伝えないといけないのだし、運命だなんてまだ誰も言っていないし、決まってもいない。

「明美ちゃん。からかうのはよくないよ」とメオは明美をやさしく窘めた。

「でもね。メオって本当に優しくてマメなんですよ。いつもBTSの駅まで送り迎えしてくれるし、一日に何回も電話やメイルをくれるし夜は夜でねぇ……」

 馬鹿め。それがメオを含む大部分のタイの男どもの手ではないか!

 そんなこともわからないだなんて、メオでなくとも、明美を騙したり、陥れたりするのは簡単なことなのだろうな。

 おそらく、明美はこれまでの人生で男からちやほやされた経験が皆無なのだろう。

 お前なんかメオに骨の髄までしゃぶられてしまえ!そして、出汁も出ない出がらしになってこのバンコクから失意のままに去れぃ、と思った時俺は、亜樹のことを考えた。もし、明美がメオに貢がされるだけ貢がされて捨てられた時、亜樹はこの図々しく世間知らずの親友をどう思うのだろう?

 きっと、亜樹はさんざん忠告するのだが、明美は聞く耳を持たず、破滅を迎えたとき、ひどく心を痛めるのではないだろうか?

 嗚呼。俺は「明美なんかどうなっても構わない」なんてことを考えた自分が犬畜生以下に思え、やがて親友の転落に苦悩することになる亜樹をなんとか守ってあげたいと思った。その時、俺は明美をカモろうとする弟分メオと敵対することになるのだろうか?そんな不粋と不義理が許されるのだろうか?

 口の中が苦い。 

 そんなことを考えると食が進まないほろ苦いランチだった。

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