第五章 ノルマンディ作戦


 亜樹に「フレンチに行こう」などと誘ったのはいいが、ヒモの俺に「先立つもの」などあるわけもなく、まさか間違ってもユイに「ユイ以外の女とデートでフレンチに行くからお金頂戴」なんて甘えて、バカ正直に言えるわけもない。だが、俺はそんな事を言いながらもちっとも困っていないのだ。なぜなら、俺にはこいう時に必殺の「錬金術」を持っているからだ。

 つまり、こういうことだ。

 ユイは「レインボー2」でも人気の高いダンサーだ。

 よって、当然、日本人やファランのファンも多く、そういった間抜けな連中がユイにカルチェだの、ヴィトンだの、プラダだの、シャネルだのを勝手に貢ぐ。ユイはプライドの高い女なので、そういった下心丸出しの気持ちの悪いプレゼントを満面の作り笑顔で受け取ることはしても、使用することは絶対にないので、部屋に有り余っているこういったブランド品を俺が勝手に売り捌いてもいい事になっている。俺はそんな中からカルチェの指輪とブルガリの腕時計とシャネルの十九番とフェラガモの財布をスクンビットソイ三十三のブランド買い取り専門店「メリーゴーランド」に持ち込み、デート資金と田上に強請られた分の返済分を作った。どれも未使用の新品なので、出所を疑われたり、安く買い叩かれることはないのだ。メオが俺の事を「兄貴」と慕う理由はこのあたりの事も大きく関係している。

 土曜日。

 デート当日。

 週末、ユイはオールナイトになることが多いので、俺としても安心して家を空けることができる。それに、起き掛けからカノムジン(カレーそうめん)やソムタム(パパイアサラダ)なんかを食べる「正しいタイ人の舌」を持つユイが自分から好きでもないフレンチなんかに現れるとも思えないし、尾行を雇うほど気も回らないだろう。別に心は痛んだりはしない。なぜなら、俺の心の中にいるのはユイではなく、亜樹なのだから。要は最後まで騙し続ける事も俺のようなヒモの重要な仕事ってわけだ。

 夕方五時。

 いつものように、ユイをコンドミニアムの下まで送り、「今日は多分、戻れない」と言うメッセージと「行ってきますのキス」を受け、俺は、バイタクに乗ったユイの背中が見えなくなるまで見送った。そして、俺は妙にせいせいした気分で部屋に戻って、スーツに着替えた。

 スーツは前にユイに「ジュンもスーツくらい作ったほうがいい」とお節介を受け、スクンビットソイ三のアラブ人街のテーラーで作ってもらった薄手の黒のスーツがある。シャツはこれでも元アパレルなのでいろいろバリエーションがあるが、俺はシルクにこだわり、ワインレッドの奴を選んだ。

 スラックスに足を通したはいいが、この二年ですっかり痩せてしまったため、ベルトを一番奥の穴まで通しても緩い。「痩せたな」と思ったら、泣けてきそうだが、この後訪れる果報を想うと、何とか堪えることができる。

 何と言っても、天下のオリエンタルホテルだもの。亜樹だっておしゃれには気合いを入れてくるはずだ。俺は鏡に映るついさっきまで「堕天使」として負け続ける運命を生きていた男の顔を見た。

「悪くないじゃないか!」

 最近、ガンジャをやらなくなったせいか、顔に生気が戻っている。やっぱり、こんな生活は間違っているのだ。早くユイと別れて亜樹と色んな話をし、色んな場所や国に行って、いろんな思い出を作り、素敵な夜をいくつも過ごす。俺は亜樹とそんな当たり前の恋、当たり前の生活がしたいのだ。だからこそ、今宵の「ノルマンディ」だけは外すわけにはいかないのだ。いや。これだけの条件が揃って、滑って転んで下手を打つ間抜けがいたらお目にかかりたいものだ。

 午後六時三十分。俺はBTSを乗り継ぎ、BTSサパンタクシン駅に着いた。

 チャオプラヤ川沿いに灯るネオンと幻想のような暁の空を見ると、俺はどうも落ち着かず、二三度大袈裟に咳払いをしてみた。すると、俺を忘却しかけていた天国へと連れ戻そうとする天使の声が聴こえてきた。

「純一さぁぁん!」

 同じ電車だったようで、亜樹は後ろから俺を追いかけてきた。俺は、亜樹は亜樹のイメージである白もしくはピンクで現れるものとばかり思っていたのだが、予想に反し、既製品にしては品があるので、「ジムトンプソン」あたりで作ったと見える赤のシルクのドレスだった。亜樹に赤は意外だったが、別に似合ってないと言うわけではなかった。ユイが着たら「ズべ公」か「売女」になってしまう赤も亜樹が袖を通すと「真紅の薔薇」になってしまうのだから不思議だ。同じ女でもこうも違うものなのか?

 しかし、それはそれぞれのカラーやキャラがあるので、容易に貶めるのは間違っているが、俺はそんな思案に唆される可笑しさを噛み殺していた。俺は見惚れてばかりでは仕方ないので口火を切った。

「ありがとう。来てくれないんじゃないかと思っていたよ。それより、そのドレス素敵だね」

「大人の女ならこれくらい持ってないとね」と亜樹はいたずらっぽく微笑んだ。

 か、可愛い……

 それは、もし許される事ならば後ろからそっと抱きしめたくなるような無邪気な可愛さだった。

「じゃ、行こうか?」

「ハイ」

 BTSサパンタクシン駅からオリエンタルホテルまでは歩いても十五分ほどの距離だが、それは不粋なので俺と亜樹はジャルンクルン通りでタクシーを捕まえた。

 ジャルンクルン通りは、英語では「ニューロード」と呼ばれていて、国王ラマ四世の御代に「乗馬ができる広い道路を作って欲しい」と言う外国人の要望に答えて作られた道路であるが、この通りは広いと言えば広いが、どう見ても下町でチャイナタウンの延長のように雑然としている。時間的にあまり車は流れず、こういう場合、無理にC調に軽口を叩いて、軽薄な奴だと思われるのはあまり得策ではないので、俺は敢えて、憧れの彼女を前に緊張のあまり無口になっている初心で純情な振りをして、カーラジオから流れるチンタラーのモーラルに耳を傾け、こんな下町で乗馬なんかをしていた一世紀半前の酔狂な外国人に思いを馳せていた。

「純一さんって時々、自分の世界に入りこんじゃうんですね」と亜樹にチクリと刺された頃にタクシーはオリエンタルホテルに着いていた。

「ルノルマンディ」は旧館の最上階にあり、世界中のフレンチファンからも絶賛されている折り紙つきのフレンチレストランだ。

 ここはユイのパトロンがバンコクに来て、俺が家にいてはけない時にユイのクレジットカードを湯水の如く使って、ホテルともどもよく利用しているので、ギャルソンとも顔見知りだ。しかし、オリエンタルホテルのクルーは皆、躾がなっているので、ギャルソンも軽く俺に目配せをしただけで、厭な薄ら笑いも浮かべず、素早く窓際のチャオプラヤ川を見下ろす席に案内してくれた。近くで見ると、生活のように疲れた濁流なこの川も夜、窓から見下ろすぶんには「恋の小道具」になるほど美しい景観になるから不思議だ。

 俺は、椅子を後ろに引いて亜樹をエスコートした。

「あのギャルソン知り合いなんだけど、躾がいいからいちいち詮索して来ないんだ」

「ごめんなさい。私、こういう店、慣れてないから緊張しちゃって…」

 亜樹は照れ、ひどく落着かない様子で視線をいろんな方向に飛ばしている。その仕草がひどく初々しく見えて、俺の中の「好感度」をまたもや吊り上げてしまった。

「あ。そうなんだ。じゃぁワインでも飲んで緊張を解すといいよ」

 俺はワインのリストから「VIN DE ROUGE(赤ワイン)」の中から安くもなく高くもない、かと言って、スペックが低いわけではない中堅どころのムートンガデをオーダーした。ムートンガデなら、チーズのようなスターターからメインの肉料理にまで何にでも合う。

 ワインとフレンチの知識は、アパレルの前にフレンチレストランの営業をやっていたことがあるのと、フランス語が多少わかるのは大学の第二外国語でたまたま取って、そこそこ成績が良かっただけであって、まさかこんなところで役に立つなんて夢にも思ってもいなかった。

 手早くワインが運ばれて来たので、俺と亜樹は乾杯した。特に何かの為に乾杯したわけではないが、亜樹といれるだけで幸せなシンプルな俺が強いて理由をつけるならば、「バンコクと言う紛い物の楽園に降ってきた亜樹と言う天使に遠い昔に失くした翼を再び与えられたこと」に心の中でそっと乾杯をした。

 普段、メコン(米で作ったタイ産のウィスキー)でささくれ立った俺の舌にムートンガデは優しくねっとりと纏わりつき、血液に流れ、上質なチーズのように蕩け、軀を弛緩させる。

 俺は久しぶりにアルコールが美味いと思った。そんな優しい酔いの中で、幾分、緊張の解れた亜樹が俺の為に言葉を紡ぎ始めた。

「純一さんって変わっている人ですよね。バンコクに住んでる男の人って、老いも若きもがさつで、いい加減で、助平なことしか考えてなくて、なんか厭なんですけど、純一さんは博学だし、冷静で一歩引いてるし、紳士だし、そのぅ、上手く言えないんだけど私…」

 亜樹は言葉に詰まった。

 なんだかもどかしい告白を聴いているようで俺は口の中が甘酸っぱくなってきた。今時、中学生でももっと上手く振舞うものだが、それがいいのだ。

「上手く言えないんですけど、こう言う時って、普通の男の人だったら、もっとギラギラしてて、気障で見え透いたことを言って、部屋の鍵とか渡したりするものなのに、そのぅ、落ち着いていると言うか……」

 やはり、亜樹くらいの女になると、百戦錬磨と言うか、そんな場面にもしょっちゅう遭遇していて、俺の野暮天で退屈な反応が逆に新鮮なのかと思うと、俺は、落第点を貰ったようで、少し情けなくなったが、今日はそういう夜なのだから、余計な口は叩かず、ひたすら瘦せ我慢なのだ。

「俺に意気地がないだけだよ。こういうところがダメなんだよね。もっと、強引で狡猾にならなきゃダメだよね。あはは」

 俺は自嘲したが、本当の事を言えば、今夜は亜樹からの信用を勝ち取る為の夜なのだ。

「鍵を渡す」のも「気持ちを告げる」のもこのタイミングではない。ただそれだけのことなのだ。そうでなければ、溢れ出しそうな想いを封印して「できない子」を演じる意味がない。

「それは違うと思います。つまり、私は、そんな一山いくらのつまらない男とは違った純一さんのことを信用しているんです」

 しどろもどろしたコミュ障のような変な間だったが、「信用」と言う単語だけは非常に明瞭だった。

「来た!」

 俺は亜樹からこの言葉を引き出せば、今宵の「ノルマンディ作戦」は大成功なのだ。 そうこうしているうちにポタージュスープと鳩の香草蒸しが運ばれて来た。

「そうかぁ。俺は亜樹ちゃんにとって信用に値する男なんだ…なんだか嬉しいよ。さぁ、堅い話はこれくらいにして食べよ!」

 俺はワイングラスに半分ほど残ったムートンガデを飲み干し、いつになく優しい酔いと優しい夜の中、俺は覚えていないくらい色んなことを喋った。ほろ酔いでほんのり赤くなった亜樹は風呂上がり十五分後のような色気を醸し出していた。

 ラブリーな夜。


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