第四章 パスワードを押せ

 水曜日の午後。

 俺はチットロムの「スタバ」でこの国独特の親の敵のように(と言っても俺に親はいないが…)甘いアイスコーヒーを飲みながら一人俯き加減で考え事をしていた。

 ユイに亜樹の事を感ずかれない為にはユイの前では努めていつもどおりに振る舞う必要がある。なぜなら、男というのは浮気をすると俄然、優しくなるかよそよそしくなる生き物だからだ。右のものを左に動かさない人が或る日突然、料理なんかを作るようになったら、確実に疑った方がいい。その点、俺はきっちり「ヒモ」を演じきっているのでその心配はないのだが、それでも気付いてしまうのが厄介な女の勘と言う奴なのだ。だから、俺は亜樹の事を考える時はこんな風にわざわざ一人の時を選んでいるのだ。

 亜樹の携帯番号の書かれた紙…

 俺は亜樹の字を見た。

 ここにいる客や店員の一人一人に「これが亜樹の字なんだよ」といちいち見せびらかせたい衝動に駆られる。そして、この番号を押して亜樹の声を聴きたいと言うどうしょうもない衝動。

 そう亜樹の声。

 耳に心地良く、心に切ない、俺を思想や翼なき腑抜けにする亜樹の声があの日以来、耳にこびりついて離れようとはしてくれない。眠りに落ちる際など勝手に愛の言葉を囁きだす亜樹の声を聴けばきっと会いたくなる。そして、きっと又、天使と会う事ができる。

 しかし、この番号は本物なのだろうか???

 あんなに可愛い顔をして、あんなにも穢れのない真っ直ぐな瞳をした、あんなにもノリが良くて、あんなにも笑顔の素敵な天使でも俺を騙したりするのだろうか?

 これは性病持ちのオカマの番号なのか?

 いや。そんなことは絶対にない!

 俺はその疑いを五秒で打ち消す。

 そんなモヤモヤした空想の中、携帯が鳴る。

 ユイからだ。出たくないが、出ないとどんな疑念を抱かれるか、わかったものではない。仕方がない。本番を迎えた舞台役者のように、緊張を超越し、稽古通りの台詞を用意して、俺は、夢見心地を邪魔された憎しみを込めた舌打ちをして通話ボタンを押した。

「ジュン。今どこで誰と何してるの?」

「チットロムの『スタバ』。一人で考え事をしてた。もちろんユイの事を考えていたよ」

 常に先回りをして答えないとタイの女と言うのはとことん問い詰めてくる。

 まったく厄介だ。

 例えば、今の回答が「チットロムの『スタバ』」だけだったら、「チットロムの『スタバ』に誰といるのよ?わかった。女ね。今からそっち行ってジュンもその女も刺し殺してやる!」ってなことになり兼ねないのだ。

 だから、俺はこの国の女をここまで嫉妬深く、疑い深くさせるタイの男の浮気癖を本気で恨んでいる。完全に自分のことを棚に上げてしまっているが、実際に疑われる身になれば、恨みごとの一つも言いたくなる。

「そうなんだ。目が覚めてジュンがいないから不安になったの。早く帰って来てね」

「ああ。わかったよ」

 俺は、つくずくユイを面倒臭い存在に思った。ユイは二十四時間俺を必要とする。ユイは俺に二十四時間見つめる事を、想うことを、愛する事を強要する。

 俺がユイが必要なのは「金がない時」と「欲情したがほかに相手が居ない時」

だけだ。つまり、ユイは俺に「永遠」を求め、俺はユイに「一瞬」を求めているのだ。

 もう、疲れちまった。こんな関係。

 そう思うと、俺は余計に亜樹の声が聴きたくなってしまった。できれば、こんな誰に愚痴を言っても晴れはしない塞いだ気分を一掃する言葉まで所望したいくらいだ。

「亜樹ちゃん……」

 俺はユイのせいで沈んでしまった気分を何とかしたくて、どんな最低な結果が出ても誰のせいにもしないというさばさばした気分で俺と亜樹を結ぶ「パスワード」である亜樹の携帯番号を押した。

「ハロー」

 三回コールで出たのは間違いなく、亜樹の声だった。白人と聞き違えるくらい綺麗な「ハロー」に俺はたじたじになってしまったので、緊張が伝わらないように深呼吸をして息を整えた。

「あ。亜樹ちゃんですか?ライターの純一です。今いいかな?」

「純一さん?こんにちは。はい。大丈夫ですよ」

 俺は本当に「じ~ん」としてしまった。

 嗚呼。亜樹の声。その声で永遠に俺に「愛してる」と言ってくれなくても声が聴けるだけでも十分だと思った。それくらいに亜樹の声と言うのは、俺の五感と六感を満たした。

「今日は学校だったの?」

「はい。タイ文字のロールアのところなので眩暈がしそうなほど難しいですよ。…あ、ごめんなさい。わからない話しちゃって」

「うん。ぜんぜんわかんないや!あははは!」

 俺は柄にもなく爽やかに莞爾にして笑った。実際に何のことやらわけがわからなかったから、無邪気に笑うしかなかったのだ。

「でね、俺この前、図々しくもまた会ってくれないかなって約束したじゃない?亜樹ちゃんに会いたくなっちゃったんだ」

 俺は、それと同時にペイバーやらオールナイトやらでユイが忙しく、家に帰らない日はいつだっけ?と頭の中のヤフーやグーグルを総動員して検索した。コンピューターは正常なようでその答えは「週末」と出た。

「土曜の夜とか大丈夫?場所は『オリエンタルホテル』の『ルノルマンディ』でどう?」

 なぜ「オリエンタルホテル」でなぜ「ルノルマンディ」なのか?一寸、説明が要る。

 これはあまり教えたくないのだが、典型的な結婚詐欺の手口なのだ。つまりどういう事かと言うと、一流ホテルの一流レストランに誘えばたいていの女は女としてのプライドを擽られ、自分が相応の水準の女なのだと思い込み、その男を信用してしまうことになる。

 勿論、俺は亜樹をペテンにかける気などないが、金を持っていると錯覚してもらえる。即ち、俺をヒモでジャンキーなどと正体を見破られる危険性が軽減されるという意味もあるのだ。

 勿論、俺は亜樹を騙すつもりなんてなく、ただ信用を勝ち得て、ゆくゆくは俺の女にしたいだけなのだ。それに、鳥籠の中の鳥は亜樹ではなくこの俺なのだ。

「でも、フレンチなんて高いんじゃないですか?」

「亜樹ちゃん。こう見えても俺はそこそこ売れっ子のライターだよ。心配御無用!」

「じゃぁ…お言葉に甘えてもいいかしら?」

「土曜日。六時半。BTSのサパンタクシン駅で落ち合おう。そこからタクシーですぐだからさ」

「わかりました。楽しみしてますね」

 よし!

 三十年も運命に痛めつけられ、誤解され、くすぶった人生を生きていた俺にとって初めてと言っていいくらい訪れたラッキーチャンスだ。

 雨上がりの空に架かった七色の虹。虹は美しいだけではなく人に生きる活力を与える。大丈夫。亜樹は虹のように消えたりはしない。

 亜樹は信用できる女だ。俺に嘘の携帯番号を教えなかったのだから。

 ガッツポーズを取って立ち上がった俺を周りの客が冷ややかな目で見ていた。

 丁度、俺の後の席に最近、ダコタイでよくお見掛けする言語藝人白石昇氏が座って、何か書き物をしていた。身分を偽った俺と違って、本当にメディアに発表する文章なのだろう。

「ふーん。あなたがライター?あたし、見た事も聴いたこともないけどねぇ……」とでも言いたげな怪訝で疑惑の色を目に滲ませて、細い目を更に糸のように引いて俺を見ていた。俺は、その目の恫喝するような圧力に耐えられなくなってすぐに店を出た。

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