第三章 傾く

 今夜はペイバー(連れ出し)のみで泊りがなかった為、ユイは午前二時過ぎには戻って来たのだが、いつもの三割増しは機嫌が悪い。恐らくこれは、非常に不快な客がいたことに他ならない。

 一般的にユイのような夜の女の「客評」は極めて厳しく、舌を鋸かジャックナイフにしてズタズタに切り刻むのだが、夜毎、そういった愚痴を聞くのも俺のようなヒモの重要な仕事の一つだ。そこで宥めたり、煽てたり、すかしたりする手腕もヒモには必要であり、愚者では決して務まらないことはお分かり頂けると思う。俺自身の機嫌の悪い時なんかは「なんでお前がいたした男の悪評を俺が聴かなきゃならないんだ?」とイライラすることもあるけど、これも「ギブアンドテイク」であり「義務と演技」と割り切るしかない。

 ヤレヤレ。

 まるで時限爆弾に愛撫をするような恐れ戦いた気分でユイの横に座り、ユイの低い鼻を擽り、俺は鼻にかかったような甘い声でユイに優しく問いかけた。

「どうしたんだぁ?ユイ。美人が台無しだぞ」

「ジュ~ン。愚痴なんだけど聴いてくれる?」

 ユイは物欲しそうな目とアヒルさんの口で俺に一時の救いを求め、一時の禍事に耐えたことを忘れたいのだ。誰だって疲れると甘いものを欲しがるものだし、不快な人に遭えば、嘘でも慰めが欲しくなるものだ。そんなものに国境などないだろう。

「ああ。朝まででも聴くよ」

 すると、ユイは頼りない甘えた表情から中国の変面のように素早く眉間に皺を寄せ、不快感と憤怒で今すぐ反吐を吐きそうだと言わんばかりに青ざめた顔で不平不満を俺にぶつけ始めた。

「あいつは絶対にカオサンの乞食旅行者よ。頭にタオルなんか巻いて風呂にも入ってないでしょうね。臭いったらありゃしないの。まあ、それはこっちも仕事だから我慢するけど、ヘタクソな上にすっごいケチなの」

「うん。それで?」

 この手の暇と性欲を持て余した貧乏旅行者との案件は、週に一度は必ず聴かされるパターンなので俺も相槌が打ちやすいし、バックパッカーの女遊びのせこさと稚拙さはこの俺ですら嫌悪感を覚えるくらいに酷い。

「そいつに触られてもぜんぜん気持ちよくないの。多分、日本でもモテたことがないのよ。もう、やってられないからそいつの顔とジュンの顔をすり替えたら、やっと濡れて来たの。そしたらそいつ『気持ちいい?』なんて訊いてくるの。呆れてものも言えないとはこのことよ。まぁ、早撃ちですぐ終わったから許そうかと思ったんだけど、あたしが『チップ頂戴』って言ったらすごい厭そうな顔してね、しぶしぶ百バーツを出したの。あんたみたいなのとお相手してあげたんだから千バーツはよこしなさいって話でしょ?」

 ユイの言う事には一理も二理もある。何の取柄もない、寧ろ何もない男がバンコクで、しかも、ユイくらいのクラスの女のモテたかったら「無駄口叩かず金を出せ」なのだ。ユイの千バーツは言い過ぎにしても、この場合、最低でも五百バーツは出すべきなのだ。百バーツだなんて人を虚仮にしているにも程がある。ケチと言うよりもこの街で遊ぶ資格のない犬畜生にもなれなかった出汁すら取れない腐敗した肉片の屑と言うべきだ。俺はプライドの高いユイがよくブチ切れなかったものだ、とユイのプロ意識に正直、感服したくらいだ。

「ごめんね。俺がこんなんじゃなかったらそんなダサい男に抱かれずにすむんだよね」

 俺は今にも泣きだしそうな顔と声を作って、ユイを優しく抱き寄せた。状況によっては三秒で泣いてみせる。それで今まで金でも軀でも差し出させてきた。涙は女の武器だけに非ずだ。

「ジュンのせいじゃないよ。あたし平気だし、ジュンと会う前からこんなだったよ」

 平気だし?

 笑わせるな!演歌じゃねぇんだぞ。

「でも、俺が金持ちの息子かなんかだったら、ユイに絶対にこんなことさせやしないのに。でも、俺、何回も言ったように身内がいないんだ」

「ねぇ。本当にジュンには身内がいないの?」

 ユイは俺の首にひんやりとした腕を回し、黒曜石のような吸い寄せられそうな大きな瞳で俺の目を覗きこんだ。その目が今まで俺がついた嘘の幾つを見破っているんだろう?と思うと、足元が冷たくなってくる。

「十二歳の時だった。親父が事業に失敗してね、ガソリンかぶって焼身自殺したんだ。それを目の前で見ていたお袋が発狂しちゃって、それが原因で姉は非行に走って、過失で人を殺して鑑別所に入り、幼かった妹とも生き別れになった。何度も言ったけど本当の事なんだ」

 俺は睫毛を伏せて、一呼吸置いてため息をつき、両手で頭を抱えた。事実は事実だが、俺は全然、悲しくなんかはない。親父は勝手に死んで、お袋は勝手に狂っただけだ。それに、ヒトゴロシの姉や可愛い盛りだったはずの妹の顔すら覚えていない。そこから生きる為に俺が味わった艱難辛苦は俺だけが知っていればいいことだ。同情は要らない。ただ、ユイに俺に対して過度な期待を持たせないための切り札になりえるので、この境遇には寧ろ感謝しているくらいだ。

「ジュン。ごめん。ジュンはいっつもいい加減な事やつまらない軽口ばかり言うからあたしずっと疑っていたの。でも、ジュンの目の奥に潜んだ悲しい色はそのせいだったのね」

 してやったり!と思いながら俺はわんわんと嘘泣きをした。舞台は最高潮だが、俺の心とハラワタは冷めきっている。

「ジュン。お願いだからあたしのこと嫌いにならないでね」

 俺は「これも義務だ」と思いながらユイのキスを受け入れた。

 さっきまでそのダサい乞食旅行者のモノを咥えていたのか、と考えても別に「嫉妬」も「嫌悪感」も感じない。あるものはユイの唇の冷たさと柔らかさだけだ。

 そう。何も感じないのだ。なぜなら俺はユイなんて愛していないし、心にはすでにあの天使のような亜樹が住みはじめているからだ。

「まとまった金さえ手に入れたら、こんなところすぐにでも出て行ってやる」

 今まで惨めな思いをするたびに何度も心の中で叫び続けたフレーズに適当なメロディをつけて、愛というよりも憎しみを込めてユイの不機嫌な色をした膣の中に指を入れた。

「ジュ~ン。オッオ~イ」

 ユイが可愛い声で喘ぎはじめた頃には俺はすでに「どうやってユイと別れようか?そしてどうやって亜樹と始めようか?」という事を同時に考え始めていた。そして、ユイがそうしたように俺はユイの顔と亜樹の顔を取り替えてユイの中に入った。するとユイを亜樹だと思って腰を振っただけでいつもは不感症でイクのに一時間以上かかる俺が五分もしないうちに無様に果てた。

「どうしちゃったの?ジュン。とても可愛いよ」と言うユイの濡れた声を聞きながら俺はハッキリと亜樹に傾いてしまった事を悟った。

「ごめん。ユイが可愛いから」

 咄嗟の嘘は出来が悪く、切れ味も甘かったが、ユイは俺が心変わりをしてしまったことも知らず、優しく俺の髪を撫でていた。

 普通の男ならばユイと永遠を渇望する程、心地の良い快楽であったにも関わらず、俺は亜樹に傾いてしまったのだ。

 それが神仏の采配か、悪魔の気まぐれかだなんてどうでもよいことに思えた。


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