第二章 悪徳ジャーナリストと悪徳ジゴロ
亜樹は……
いや。天使はBTSアソーク駅の階段を軽い足取りで駆け登ってシンデレラのように消えた。次の約束はないが、俺はまだ楽しい夢の中で都合のいいことだけを考えている子供のようにソワソワとしていた。
俺は亜樹の顔、亜樹の声、そしてかすかに覚えた亜樹のプロフィールを頭の中でリフレインしていた。
豊島区の生まれ。
牡牛座のA型。
バンコク生活はもうすぐ一周年で、ソイアリに安いコンドミニアムをレンタルしているのだという。
好きな色は白とピンク。
好きな食べ物は湯豆腐とトートマンクン(エビのすり身揚げ)。
好きな作家は太宰と綿矢りさ。
好きな歌手は矢井田瞳。
好きな俳優はウォンピン……
「へへへ。ウォンピンは無理さ」と俺は独り言のようにつぶやいて深いため息をついた。それは夢が醒めた後の温かさを伴う倦怠にも似た亜樹の残像が浮かんでは消える。俺は、淋しくても幸福なことがあることを知った。
そんな夢見心地を無神経に叩き割る声がした。
「ジュ~ンちゃん。誰だい今の女は?」
バンコクで一番聴きたくない声。
田上の声だ。
田上は日本にいた頃、フリージャーナリストと言うもっともらしい肩書きの下、企業や政治家の汚職やスキャンダルをネタに金を強請っていたような「人間の屑」だ。
そのゆすりで得た汚い金が溜まり溜まって、今やバンコクくんだりで金利と配当だけでぬくぬく暮らしていける。
こんな人でなしの下種野郎に弱みを握られたら、内臓や骨髄はおろか、声以外は全て食われてしまうくらい苛烈にとことんカモられるだけだが、不幸中の幸いと言っていい。田上はカメラを持っていない。「サルも木から落ちる」とはまさにこの事だ。
「別にぃ。ただの知り合いさ」
俺はわざとふてぶてしく答えた。
次の瞬間、田上の卑屈な笑いが浮かんだ。
「ふ~ん。ただの知り合いが去った後にため息なんかつくんだジュンちゃんは。はぁ~。女に惚れるなんてジュンちゃんらしくないじゃないの。何がどうなってこうなってるのかね?なぁ、ユイちゃんには黙っておいてやるから、俺に本当のことを話してくれないかなぁ」
俺はエラの張った田上の横っ面を叩きくなったが、堪えた。
タイの喧嘩は手を出したほうが負けだ。そののち、必ず刃傷沙汰になるからだ。タイ人が微笑みを絶やさず、何が起きても「マイペンライ」でことを丸く収めるのは、こういう側面があるからだ。
「いくら欲しい?」
「ジュンちゃんに免じて国王陛下二枚でいいよ」
「二百バーツか?」
俺はとぼけたが、田上はくだらない冗談を聞いたかのように無慈悲に死んだ魚の目で失笑して、「俺が二枚といったらソンパン(二千)さ。俺はこの国じゃそこそこハイソなんだぜ。底辺のヒモであるあんたの価値観で判断しないでもらいたいね」
「生憎、金がない」
「ユイちゃんに泣いて頼みなよ。『二千バーツないと殺されちゃうんだ』って噓泣きすれば出してくれるよ。ユイちゃん健気だし、ジュンちゃん一筋だからね。ひと泣き千両はジュンちゃんの十八番でしょうが」
「さっき二千バーツ巻き上げて麻雀ですったばかりなんだ」
「おいおい。ジュンちゃんは、根っこはいい奴だからギャンブルには向いてないんだよ。あんたみたいなのは、博才以前に欠けているものがあるんだよ。それが何であるかは教えないけどな」
俺がいい奴?
冗談だろう?
俺に欠けているもの?
心当たりがありすぎて、正解を求める気もない。
「さっきユイにも同じこと言われたよ」
「流石、カミさんはよくわかってる。いいよ今度で。その代わり利息はトイチだからね。まぁ、ジュンちゃんがほかの女と居たなんてスクープを写真に取られなかっただけありがたく思うんだな」
何がフリージャーナリストだ!
人の弱みで飯を食ってるだけじゃないか!
俺は口に出かけたその言葉を必死で飲み込んだ。厭味言ったところで一矢報えるような奴ではないし、弱者の生き血を啜る蛭のような田上を敵に回すのはそれこそ愚か者のやることだ。それに、疑い深い上に嫉妬深いユイにこんな事が知れたら、根掘り葉掘り問い詰められるだけならまだしも、回答を一つ間違えたら、血を見ないわけにはいかなくなり、俺の命はいくつあっても足りない。可笑しいけど、俺みたいな虫けらだって命が惜しいのだ。
俺は言われっぱなしでは悔しいので田上に精一杯の皮肉を投げつけた。
「田上さん。あんたロクな死に方しないよ」
「お互いにな。まぁ、ジュンちゃん。そんな恐い顔しないで!たまには一緒にお風呂屋さんにでも行こうよ。銭湯じゃなくて、泡にまみれて二時間天国に行けるほうのな」
「そんなに俺をユイに殺させたいか?」
「うぁひゃひゃひゃひゃひゃ!」
田上は勝ち誇ったように下品で、己の欲望にしか興味のない畜生のような高笑いをして去っていった。
田上仁志……俺がピストルを手に入れたら真っ先に的にかけて、その腐った西瓜頭を打ち抜いて、鮮血の花を咲かせてやる。
天国からまた地獄に突き落とされた俺は「レインボー2」に顔を出しに行く気にもなれず、こんな気分の沈んだときは一人の部屋で夢のような、もしかしたら夢なのかもしれない亜樹のことを思いながら自慰行為にでも耽ろうかと思って、家に帰ることにした。
ユイと俺のコンドミニアムはトンローのソイ十七にある。ここはユイにご執心なファラン(白人)が買ってくれたものだ。 そいつは年二三回バンコクに来て家に泊まるのでその間、ユイのアメリカンエキスプレスを持たされた俺は外でやりたい放題になる。全く以って俺にとって都合のいいじじいだ。
このように本来、ユイの女としての才能はかなりのものであり、そいつを食い物にしている俺もそれなりの評価を得て然るべきなのだ。
BTSトンロー駅の三番出口を降り、「OKカオマンガイ」を通りがかったときに俺を呼ぶ声が聴こえた。
「兄貴!」
バンコクで二番目に聴きたくない声……メオの声だ。
メオは男の俺が言うのもなんだが、南方系の美男子でとにかく口が巧く、日本育ちなので日本語がペラペラだ。その悪魔の弁舌で言葉巧みにターゲットに近づいて、薬とベッドの技巧で骨抜きにして、貢がすだけ貢がして捨てる。
つまり、メオは日本の女ばかりをつけ狙う非常に悪質なジゴロだ。
とは言ってもメオほど酷くはないにしても、華人系以外のタイ人の男の本質はメオに似たり寄ったりだ。
なぜ俺がメオの声をバンコクで二番目に聴きたくないと言ったかというと、確かにこいつは身内のいない俺にとって、弟のような存在であるが、人の心を機敏にしかも正確に読むので、今、正直言って会いたくないのだ。また、なぜメオが俺の事を「兄貴」と呼ぶのかというとタイ人から見ても上玉のユイに春を売らせ、食い物にしても心が痛まない人でなしの俺に本気で憧れているからだ。
メオはガイサップ(鶏皿)をつまみにハイネケンを飲んでいた。
俺は在住の日本人の大部分が抱いている疑問をぶつけてみた。
「お前、ここのカオマンガイ本当に美味いと思ってる?」
「別に。タンマダー(普通)じゃないすか?それより兄貴。顔色悪いですよ。田上さんにでも会ったんですか?」
これだから、今、メオには会いたくなかったのだ。
田上の下品で卑屈で俗を極めた、どう生きたらこんな悪相になれるのか、不思議に思う顔が俺の頭からまだ離れていなかった。
「なぁ、メオ。女って惚れるんじゃなくて惚れさせて食い物にするんだよな?」
メオは曇りのない綺麗な目を「?」にして俺に向けた。
「それ、兄貴の受け売りでしょ?俺に訊かないでくださいよ」
「うん。そうなんだけどな。もしここに天使が降りてきたとしたらお前ならどうする?」
メオを目を点にして二つ三つ咳払いをして、一口ハイネケンを飲んで冷徹と言えるほどの落ちつた口調で言った。
「地獄に天使なんか降りてきやしませんよ。それに、そんなの降りてきてもカモって骨の髄まで啜ってやればいいだけのことでしょう?俺にそれを言葉と行動で教えてくれたのは兄貴でしょうが」
俺は現実に引き戻された。
やっぱり俺は堕天使であり、亜樹の住むような天国の住人ではないんだ。
亜樹と俺とでは住む世界が違いすぎる…
「ああ、そうだよな」
「ねぇ、兄貴。こんな話知ってます?恋に落ちた魔女は魔法が使えなくなるんですよ。バカですよねぇ。そんなの魔法を使って惚れさせればいいだけなのにね。まぁ、この世の中、そういうバカのおかげで俺も兄貴もこうやって、日々、三食飯が食えてるんだから、不平不満は言っちゃいけませんよね」
魔法を使えなくなった魔女……
このまま亜樹に深入りすると俺もそうなってしまうのかもしれない。いや。もうすでに転落は始まっているのかもしれない。
俺の中で「惚れた弱み」と言う代物は、自分から熱望して引き当ててしまったトランプのジョーカーでさえある。それを俺は全身全霊で抱きしめようとしている。なんと、愚かで憐れなのだろう。頭でわかっても心は亜樹を欲している。
メオがこんな事を言うのは当然、俺の心の中を読んでいるからであろう。やはり、余計なことを言うべきではなかった。
「悪かったな食事中に変な話して」
メオは涼しい顔で首を横に振った。
その涼しげな顔は、肌に纏わりつく湿度九十八パーセントのバンコクの湿気と熱気を忘れさせてしまうくらい涼やかだった。
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