第一章 天使が降ってきた


「ったく……なんで五巡目で国士なんだよ!」

 俺は結局、スクンビットプラザの「JANSO」に行き、いい具合で勝っていたのだが、オーラスの五巡目にイーピンを切り、親の国士無双に振り込んでしまった。ユイから巻き上げた二千バーツは当然のことながら跡形もなくなっていた。

 運が悪いのか?

 腕が悪いのか?

 詰めが甘いのか?

 それともユイはさげまんなのか?

 答えはそのいずれのうちのどれかのような気もするし、どれでもないような気もするし、全てのような気もする。

 俺はそんな愚かしい自分を呪いつつ、ユイへの言い訳を考えながら、濃い排気ガスと爽やかなジャスミンの匂いの入り混じった蒸し暑いバンコクの空気に纏われ、足を鉛球と鎖で繋がれたような足取りでBTSアソーク駅の方角に歩いていた。

 その一寸先に怠惰と悪徳に塗りつぶされた運命と生活に変調をきたす瞬間が訪れることも知らぬままに。

「痛てっ!」

 上の空で全く周りを見ず歩いていたので俺は人とぶつかり転倒してしまったらしい。「転倒してしまったらしい」と言うくらいだから、転倒したかどうかもわかっていない。そもそも、何が起こったのかもわかっていない。

 俺はまともに歩く事すらできないのか???

「ごめんなさい。お怪我はないですか?」

 鈴が転がるような聴き心地の良い声。

 どこかの国や日本のどの地方の訛りのない綺麗な日本語。

 虚無で無関心が信条なこの俺が珍しく、何かに命じられるようにその声の主の顔が一秒でも早く見たくて急いで顔を上げた。

「て、天使か?」

 顔を上げ声の主の顔を見た俺はそう錯覚した。

 天使は小柄で華奢な少女のようなたたずまいで、バンコクには絶対に降らない雪のように色が白く、まだプロローグが書かれ始めたばかりの小説のように物語にはまだラヴストーリーの頁はなく、何物にも染まっていなく、外見を例えるなら、眞鍋かをりから気の強さを消去し、木村カエラから血の気の多さを引き剥がし、上戸彩からあざとさと押しつけがましさを排除し、その良さだけを足したような感じだ。特に涼しげなショートカットは可愛さを倍増させ、ユイの浅黒い肌を見慣れた俺にとってはその肌の白さは何よりも輝いて見えた。

「ごめんなさい。一寸、考え事をしながら歩いていたものだから、君の方こそ大丈夫?」

「ええ」

 天使は優しく微笑み、俺に手を差し伸べた。

 俺は一瞬にして天使の微笑みに引き込まれた。タイ人の微笑みは時々、腹の中を読まれないようにあからさまに作られている事があるが、天使のそれはナチュラルで、しかも生阿片のように俺の五感を敏感にさせ、狂わせる麻薬の微笑みだった。そして、差し伸べられた手は地上で罰を受け続ける堕天使の俺を嘗て所属していた天国へと連れ戻すことのできる救いの手のようにも見えた。

 俺は忘れかけていた何かを取り戻せそうな気分になった。

 それはユイには一生掛かっても抱く事はできない「恋心」と言う奴だろう。

 と同時に俺は何かの病気に罹り、ついさっきまでの現実から完全に隔離されたような感覚に陥った。

「あの、俺別に君をナンパしようとかそういうことじゃないんだけど、そこのロビンソンのマックでお茶でもしません?別に迷惑だったら無視してくれて構わないんだけど……」

 明らかにナンパではないか!しかも直球すぎてスマートさに欠ける。俺らしくもない。だけど俺はこのまま「じゃあ」なんて天使と別れる事だけは絶対に厭だと思った。

 どうかしている。ヒモの分際で、こんなにも素直に心に従い、偽りのない言葉を話しているなんて。今すぐ機嫌悪げに黙りこむか、取り消すかするんだ。そうでなければ、元居た向こう岸には帰れなくなるぞ。

「いいですよ」

「え?」

 俺の内なる相剋などなかったかのような天使の回答。

 俺に気があるのか?それとも疑う事を知らない世間知らずのお嬢さんなのか?わかりかねるが、俺は天使がユイと別れ、いい加減な暮らしを終わらせる為の切り札になるかもしれない、と言う甘い期待と希望を持つ事ができた。全く以って、失笑も出ないくらいの丼勘定の甘い見通しだ。

 俺と天使はロビンソン一階のマックに入店。

 ドナルドさんがワイ(合掌)をしていることとスマイルが自然なこと以外は日本のそれとは変わらない風景だ。

 俺は小銭をかき集めて、飲みたくもないコーヒーを買った。

 天使はフィッシュマックディッパ―とコーラ。なんかフィッシュマックとディッパ―と言うあたりが女の子っぽくて俺は軽く感動した。

 窓際の通りの良く見える席に座り、お互い軽く自己紹介をした。

 天使は勝野亜樹ちゃんと言う二十三歳。ここの対面のタイムズスクエアーの十五階のにある「ユニティ」と言うタイ語学校に通っているのだと言う。 

 つまり、俺のような女を都合の良い玩具としか思わず、身も心もアルコールとドラッグにまみれて、不機嫌にくすんだ「負け組」の三十男にはあまりにも不釣り合いな女だ。そんな事は言われなくてもわかっている。住むべき世界と実際に住んでいる世界が違うのだ。

 もし、俺と亜樹がタイ人だったら「階級が違う」と引き裂かれるどころか、まともに言葉を交わすことすら許されない、運命が重なることもすれ違うこともない最初から絶対に結ばれない関係だ。

「純一さんはお仕事は何をされているんですか?」

 一番訊かれたくない質問。

 俺の罪と罰を問い詰められているようなものだ。

 天使はあまりにも無邪気すぎる。

 無邪気は残酷ですらある。

 俺はすっかり動揺して、目線が定まらなくなり、虚像と真実のどちらを語るべきかがわからなくなってしまった。

「お、俺?ライターだよ。ほら。『a day』の鈴木良太さんとか『Gダイ』の梅本昌男さんみたいな感じの。俺の場合、彼らと違って日本向けの仕事の方が多いんだけどね」

 俺は、真実の重みから逃れるように、保身とも言える嘘をついてしまった。まさか天使を前に「ジャンキーでヒモです。でも、今の女の軀には正直、飽きてきてるんですよね、あはは」などと馬鹿正直に言えるわけがない。それは俺じゃなくったって、まだ「雄」を諦めてない男なら誰でもそうだろう。

「ライターだなんてすごい!」

 純真な亜樹の目が尊敬の眼差しに変わった。嗚呼。もう俺は嘘をつき続ける事でしか亜樹の心を引き止めて置く事ができなさそうだ。だけど、糞ったれの現実よりは虚像の甘い恋の夢の方がマシだ。

「どうかなぁ。なんとか凌いでるって感じだけど」

 俺は誰に聴いたわけでもないのに、本物のライターが恰もそうであるかのようにもっともらしい事を言った。

 俺は亜樹の切れ長だけど人を優しく包み込むような目を見ながら話したいのだけれど、心の中を覗かれるのが恐いので亜樹の笑うと「キュッ」と釣り上がる口角の端のあたりを見ながら話していた。

 思えば俺はこれまで女に対しては「惚れるな惚れさせろ。貢ぐな貢がせろ。良心を売って換金しろ。刃を首元に突き付けられても心を見せるな」と言う信念だったのに、亜樹に会ったとたんに、その信念を曲げ、嘗て魂を売った悪魔を裏切り密告し、それまでの一切を懺悔し、改心を誓い、亜樹という最初で最後の天使の脚に香油を塗りながら許しを請うている。

 つまり、俺は、亜樹に恋してしまったのだ。

 恋に落ちるのはこんなに簡単なことであることすら俺は知らずに生きてきたのだ。打算や理屈がどれだけ俺のあるべき心と現実を曇らせていたのか?今までの徒労や意味のなさがいったい何であったのか?そして、今時、中学生でもしないような「キュン」と苦しい胸の痛みにうずくまりそうになる。

 そして俺は亜樹を見詰める事しかできない。

「純一さん?」

 それはユイが俺を「ジュン」と呼ぶときの惰性な響きではなく、初物の青い林檎のような甘酸っぱい響きのする「純一さん」だった。

「ごめん。見詰めたりなんかして……ねぇ。亜樹ちゃんは天使なの?」

 ごく自然に出てきた言葉だった。

 ああ、これで亜樹は俺の事を「変な奴だ」と思うに違いない。篩にかけられ、どうやってこの場から離れるかの算段を考えるに違いない。喋っているのが明らかにいつもの俺ではない。まるで婚活サイトで年収のみで人生で初めてモテた、高学歴とパソコンのスキルだけが秀でている中年が調子に乗ってしまったみたいにみっともない発言だ。

 そんな俺の杞憂とは反し、亜樹はクスリと笑って

「羽根が生えてないから違うと思いますよ」

 おお!

 何という事だ!

 アドリブなのか?それとも天然なのか?

 だけど、亜樹はきっと、女性特有の無理難題や気まぐれや根も葉もない噂話で俺の事を傷つけない女に違いない。

 もし、この堕天使の二年間が亜樹に会う為の「受けるべき受難」だったとしたらもうすべて鷹揚に笑って許してしまおう、とさえ思った。

「俺、おかしいんですよ頭が。だから時々、変なこと言います」

「やっぱりライターさんって面白い事考えてるんですね。なんか改めて純一さんの文章を読んでみたくなりました」

「ああ。それはそのうちにね。それはそうと、次に会う約束をしてもいいかな?もっと可笑しな話もできると思うし、もっと亜樹ちゃんの笑った顔もみたいし……」

 図々しいとは思ったが、「次」と言うのは期待するだけではやって来ないのだ。

 別れ際、次の約束を取り付ける。まぁ、そんなものは常識の範疇だが……

「いいですよ」

 亜樹はバックからメモ帳を出し、携帯番号を書いて俺に渡した。亜樹の字は同世代の女性が書く独特のカクカクした文字ではなく、しっかりと「楷書体」だった。文字からも亜樹が然るべき教養とマナーやエチケットを身に着けたちゃんとした女である事が窺い知れる。

「ありがとう。電話するよ」

 俺は何年ぶりかに自然に笑えて、自然に感謝できた。

 遅れてきた青春……

 俺の元に降ってきた天使……

 嬉しい事に店を出ても「どっきりカメラ」は出てこなかった。

 ラブリーな一日。



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