堕天使の涙
野田詠月
序章
俺は天井に向かって青い煙を吐いた。
ガンジャの煙だ。
ガンジャは一度だって俺に素敵な夢を見させてはくれない。ただ、この糞ったれの現実を薄くモザイク処理してくれるだけだ。
俺は、ジュン。
本名は織田純一と言って日本全国に十人は同姓同名がいそうな平凡極まりない名前だ。でも、そんなものはもうどうでもいい。名前なんて俺を識別する記号に過ぎない。
俺は二年前にアパレル会社を退社して、ここバンコクにやって来たのだが、「新天地で違う自分に生まれ変わる」、つまりは「華ばなしいテイク2」が始まるはずだったのに、いつしか酒と女とガンジャとバンコクの惰性な時間の流れに流され、やがて溺れ、夢も希望も方向も無くしてしまった。格好いい言い方をするなら「俺の上にはただ空があるだけ」なのだ。
セミダブルのベッドには太陽とココナッツの匂いの混在した褐色の肌のユイがまだ幸せそうな寝息を立てている。
ユイはナナプラザの「レインボー2」のダンサーだ。
と、ここまで言えばみなまで言わなくてもバンコクに住む殿方ならユイがどんな女なのか?俺とユイがどうやって知り合ったのか?俺とユイの関係性など、苦笑とともに手に取るように察しがつくだろう。
つまり、俺はユイのヒモなのだ。
ユイにしてみれば、俺はしがないヒモでも日本の実家や親戚は金持ちだと思っているらしく、最近、頻繁に「実家のあるノーンカイに両親に家を建ててあげたいから五十万バーツでいいから投資して欲しい」とうるさい。残念ながら俺は天涯孤独だ。
俺の両親と言うのは俺が中校時代、株と事業に失敗して親父は酒に溺れ、やがて、現実から逃避する為に違法薬物に手を出し、それがもたらす万能感から車に乗ったまま東京湾に身を投げ、お袋はそのせいで発狂し、俺は母方の祖父母に引き取られたのだが、思春期真っただ中の二つ上の姉は非行に走り、喧嘩上の過失で人を刺し殺し、五つ下の妹は別の親戚が養子にした為、その時生き別れになって今日まで行方知らずでそれっきりだ。
その話をしたがユイは俺の事を「ゴーホック(嘘つき)!」と言って信じようとしない。
本当の事なのに……
ユイの愛が、ユイの期待が重い。
ユイともそろそろ潮時か。
だけど、俺にバンコクの日系企業で働けるようなスキルも根性もないし、起業できるような才覚もないし、駐妻や金持ちのお嬢と出会い、恋に落ちるような身分になるには些か家賃が高すぎる。
結局、ユイから離れられない事を思い知るだけなのだ。
そう考えていると俺は不意にそんなユイを殺したくなってきた。
勿論、俺にそんな勇気はない。
俺はユイの寝顔に煙いと言うよりも腐った腸詰のような匂いのガンジャの煙を吹きかけた。
子供じみている。
だけど、これが今の俺にできる精一杯の反抗なのだ。
十秒ほどして「うぅぅん」とユイの低く唸るような声がしたので、俺はもう一度、煙を吹きかけた。するとユイは咳き込みながら体を起こし、柳眉を逆立てて俺を睨みつけながら怒鳴りつける。
「ジュン!なにすんのよ!」
ユイは内田有紀似のなかなかの美人だが、美人不美人関係なく、タイの女の怒った時の顔と言うのは例外なく恐い。
「ごめんごめん。寝顔が可愛いからさぁ、虐めたくなっちゃったんだ」
因みに、俺はタイ語は「アロイ(おいしい)」とかあとはいわゆる「枕コトバ」しか喋れないが、なぜかユイの話すタイ語だけは完璧に理解できる。また、ユイも俺の話す日本語は割と細かいニュアンスまで理解できるらしい。
不思議としか言いようがないが……
「ガンジャはやめてって言ってるでしょ!」
現在までタイの経済発展を立ち遅らせてきたのは間違いなくタイ社会の根底に渦巻き、あらゆる階層に拡がる麻薬だ。麻薬が人を怠惰にさせ、堕落させる。だから、嘗てタクシン首相は麻薬の取り締まりを厳しくし、タイから麻薬を完全に閉めだそうとしていたが、そんなものは糞喰らえだ。麻薬が齎す「快楽の海」で泳ぐのも溺れるのもジャンキーの自由だ。
「どうせ俺はラリる事しかできない最低最悪の男さ!」
俺は拗ねてそっぽを向いた。こっちが強気に出ないとタイ人は男でも女でもどこまでもつけあがって来やがる。ユイも例外でない。
「別にジュンに働いてなんて言わないけど、ガンジャだけはやめて!」
ユイは涙ぐんだ声でそう言うと俺を後ろから抱きしめて俺の背中に顔を埋めた。
ユイは確かに泣いていた。
「ユイ……泣くなよ。それは考えとくから。それより二千バーツ貸してくれないかな?倍にして返すからさ」
タイ人の「貸して」は「頂戴」と同じだ。一般企業でだって給料をバンス(前借り)して、そのままとんずらなんて話、珍しくもない。俺とてそんな金返す気など毛頭ない。
その金をテラ銭にして、スクンビットプラザの「Janso」あたりで一勝負打つ心算だ。
「ギャンブルもやめて!何度も言ってるでしょ。ジュンは優しいからギャンブルには向いてないのよ!」
ユイは泣きながら俺に懇願している。
確かに、俺は「優しい」と言うよりもここ一番の詰めが甘い。
「なぁユイ。俺は確かにろくでなしだ。人間の屑だ。だけど、俺のこの目はおまえしか見えてないんだよ。この人生、もうおまえしか愛したくないんだよ。それに、俺は腐ってもコンイプン(日本人)だ。約束は守るぜ」
俺はユイのこげ茶色の瞳を見詰めたままで諭すような口振りで言った。
タイに住んでいると、誠実さや真面目さや信頼と引き換えに、口ばっかりが巧くなるのが不思議だ。
まぁ、日本人と言ったって、この街に長く住む日本人は「ろくでなし」か「何かが狂っているか」のどっちかだ。勿論、俺はその両方だ。
「わかった。八時にはお店に出てるから顔出してね」
ユイは薄く膜が張ったような声でそう告げると、床に脱ぎ捨ててあるジーンズのポケットから千バーツ札を二枚取り出して俺に手渡した。
「ありがとう。俺はユイが居ないと生きていけないよ」
「バカ……」
俺は口で感謝の言葉を述べ、ユイの唇を塞ぎつつ、心の中では舌を出し、背中でせせら笑っていた。
俺はバンコクという名の天国に見える地獄でどぶに堕ちた天使だ。
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