第8話 日村家にて

「――勝手に先に風呂入んなっつったろ!」


 いきなり部屋の戸を開け放った姉が、曜の空間に一方的に踏み込むなりキャンキャンと突き刺すような罵声を浴びせかけた。無警告でいきなりやって来た攻撃に、曜はすくんでしまって何も言い返せない。制服を着た鬼のような何かがそこに立っていた。


「何とか言えよ! 何回も同じこと言わせんなよ!」

「ごめん……なさい……」

「お前のせいでお湯ぜんぶ抜いて入れ直さなきゃなんねぇんだよ!」

 曜はやっとのことで言葉を絞り出すが、姉はそれすらも聞く気がない様子だった。


「こっちは朝早いってのに寝るのが遅くなんだよ! どうしてくれんだよっ!」

「……だって」

「だってじゃねえよ! 入るんならあたしの後にしろよ、気持ち悪ぃーなっ!」


 姉は、曜が反撃しないのを見ると手を緩めるどころか、一層苛烈な口調で責め立てる。この一年で一体何度、姉から「気持ち悪い」と言われただろうか。


 来海と初めて出会った日もそうだった。日村空はある時期から、突如として曜を露骨に汚いものとして扱うようになった。洗濯ものに触るな、同じタオルを使うな、同じ湯には入るな……とかく、肌に触れ得るすべてのものに完璧な分離を要求した。


 先に入るなというが、もし姉に優先的に風呂を使わせれば、その場合も徹底してお湯は抜かれた。使用済みに入られたくない、気持ち悪い、というのだ。だが一方では姉自身も夜中まで入ろうとしないことが多く、理由を訊けばそれにも怒りを浴びせられた。それでむしろ曜の方が入浴できず、一日を終えることが頻繁にあった。


 いずれにせよ、姉はいつでも最後は結局、曜に対して「気持ち悪い」と言い放つのだ。


「……最近、寒いから」

 涙がにじむのを堪えながら、曜はどうにか勇気を出して反論を試みる。折角湯につかり暖かくなった身体が、心の痛みで芯から急速に冷え切っていくのが分かった。


「家帰ってきたのに、ずっと待ってるのイヤだよ……」

「だったら家の外出んなよっ! お前最近、遅くまで何処に何しに行ってんだよ!」

 曜は何も言い返せない。来海との関係は、今でも姉には秘密のままだった。

「お前に何かあったら、あたしが叱られんだろが……分かったら大人しくしてろ!」


 こうして姉は来た時と同様、ひどく乱暴に戸を閉めると部屋を出て行った。姉に対する怖さと、悔しさと、悲しさで、曜は目鼻から生じる熱い液体を止められなくなる。本人が去っていった途端、堪えていたものが一気に決壊したのだ。


 ティッシュで鼻をかもうとして、机に飾ってあった写真立てが曜の視界に入る。それは数年前、どこかの企業が主催した少年キャンプ教室に参加した時の写真だった。緑の山を背景に、笑顔の曜と姉とがツーショットで収まっている。


 姉が豹変した理由は今でも分からない。だが曜は、あの優しかった頃の姉はもう二度と戻ってこないのかもしれないと、うっすら感じ始めていた。たとえそうだったとしても、来海さえいてくれたら耐えられるのにと曜は思う。来海は今や心の支えだった。 


「……来海姉ちゃん、どこ行っちゃったんだよ」

 来海は二週間近くも姿を消していた。


 いつもと同じ時間帯に、いつもの公園付近を探し回っても、会うことが出来ないのだ。以前も時々姿を見せないことはあったが、こんなに長い間は初めてだった。


 雨宮親子の住むアパートを探そうともしてみたが、只でさえ来海の母を警戒するあまり道順をよく覚えていなかったのに、自宅や通学路周辺で急に道路工事が始まってしまって既存の道がいくつも封鎖され、その中で没個性かつ行き慣れないアパートを見つけ出すというのは容易なことではなかった。


 押し潰されそうな曜の心は来海を求めてやまないと同時に、同じ制服の上に歳も背丈も変わらない彼女と曜の姉が、片や他人でありながら優しく温かく、片や家族でありながら冷酷であるという現実を、未だにかみ砕くことが出来ないでいた。

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