第7話 雨宮家にて

 更に数日が経ったある日のことだった。


 その日は珍しく、来海が直接日村家を訊ねてきた。

 とはいえ場所はとっくに知られていたのだから、本来ならいつ来ても不思議はなかった訳なのだが、問題は彼女に、初めて同伴者がいたことである。


「うちの来海が、こちらでとってもお世話になったって聞きましたわ」

 初めて会うその大人は、そう言ってニコニコ笑みを浮かべた。

「はじめまして。来海の母で貴子たかこといいます」


 雨宮貴子を名乗るその女性は、子どもの曜から見ても明らかに若々しく、いわゆる美人タイプだった。親子というだけあって流れる黒髪が来海とよく似ており、明確に違うのは貴子の肌が異様にツヤツヤ輝いていたことだ。たぶん、化粧か何かだろうか。


「あなたが曜くん……でいいのかしら。今日は、お家の方は?」

「今日は母も姉も、出かけてて留守です」

「あらあら、まあまあ!」


 雨宮貴子は、妙に甲高い声が印象的だった。初めて顔を見せてから、彼女はずっと目を細めてニコニコし続けている。一体何がそんなに嬉しいんだろうか。

 肝心の来海の方はというと、母親のちょっと後ろ側で居心地悪そうに身を縮こまらせ、終始無口でいた。彼女がこんなに何も話さないのも、曜からすると珍しい。


「とにかく、娘がお世話になった以上、こちらもお礼をさせて貰いたいの。大したことも出来ないけれど、是非ウチに遊びに来て頂戴。歩いてすぐそこだから」

「えっと、でも……」

「いいのよぉ、遠慮なんてしなくても!」


 雨宮貴子は妙に押しが強かった。普段は物憂げでもフッと安心させてくれる笑顔をする来海と違って、こちらは終始笑顔にもかかわらず無言の圧力みたいなものがある。本音をいうなら、少し怖いとさえ思った。


 だが来海の手前、断るのも申し訳なく、仕方ないので曜は家にカギをかけると言われた通り彼女の家に行くことに決めた。曜は来海に手を引かれ、雨宮貴子の後ろ側をちょっとだけ離れて歩いた。途中、母親にも聞こえないぐらいの小さな声で来海は「……ごめんね」と曜に言った。


「変わってるでしょ、ウチのママ……」

 曜は、肯定も否定も出来なかった。何を言ってもウソになる気がしたのだ。


 やがてたどり着いたのは、比較的何処にでもありそうな古めかしい二階建てアパートの一階部分だった。横一列に並んだドアは昼間なのに建物の陰に隠れて薄暗く、正直ひどく不気味に感じられた。その中の一室が、来海の家だった。


「……お邪魔します」

 足を踏み入れた来海の家は、とても狭く小さな空間だった。日村家が二階建て一軒家に家族三人で暮らすのに対し、雨宮家は親子二人で六畳間がひとつふたつといったところ。来海にはひょっとして、自分の部屋みたいなものが無いのではないか。


 カーテンが中途半端に閉め切られ、日の光が殆んど差し込まないため室内は外観同様に薄暗かった。キッチンのシンクに水滴のしたたる音と、出所不明の線香めいたニオイさえなければ、まるで洞窟か何かに迷い込んだと錯覚するかもしれない。


「少し待っててね。今、おいしいジュースを作ってあげるから」

 来海の母は帰って早々キッチンへ向かうと、冷蔵庫から果物や何かを取り出し、片っ端からミキサーに入れてかき混ぜ始めた。静まり返った部屋で断続的な金属の回転音が耳を刺す中、来海が眼下でやさしく袖を引き「座っていいよ」と言ってくれる。


 曜は即座に、殆んどへたり込むようにしてその場に腰を下ろした。あまり上手く言葉に出来ないが、来海の母同様、この家は何故だか妙に恐ろしい。曜の気持ちを察したのか、来海はまたしても「ごめんね」と小さく言っていた。


 ほんの少しでも楽しい話題が転がっていないか、曜は周囲をコッソリ観察する。

「あのっ、来海姉ちゃんっ」

 曜は緊張のあまり、予想外に大きくて上擦った声を出してしまう。

「それって、何処の写真なの?」


 曜が目にとめたのは、部屋の壁に飾ってあった不思議な遺跡の写真だった。

 大きな円柱が何本も並びたち、細かな装飾がされた三角形の屋根を支える、おそらくは石造の古代神殿めいたものの遠景写真。問題は、その手前に大きな魚と海藻らしきものが写っていて、しかも神殿周囲が大きな闇に包まれている、つまりこの遺跡がどうも海底にあるらしいということである。


 得体の知れない恐ろしさと、何故か同時に心をザワつかせる神秘性とを兼ね備えた謎の海底神殿。こんな遺跡の存在を、曜はかつて見たことも聞いたこともなかった。


「もしかして、有名な遺跡だったりするの」

「んー、気になる?」

 返事をしてきたのは、何故か母である貴子の方だった。びっくりするぐらい甘ったるい声なのに、曜はゾワッと鳥肌が立つのを抑えられない。来海の時とは何かが違う。これはどっちかといえば、なるべく感じたくないタイプの鳥肌だと曜は思った。


「ここはねぇ、イイところ」

 来海の母は、自分で言っておいてうっとりしていた。来海がそっと曜の背中をさすってくれたのが、まだ救いだった。訊かなきゃよかったと曜はひっそり後悔した。


「はい、出来たわ。我が家の特製ミックスジュース」

 出されたコップ入りの液体を見た瞬間、思わず曜はウッと顔をしかめる。


 端的に言えばそれは、緑黄色の野菜ジュース、あるいは青汁あたりを連想するドロッとした、けれども異常なほど毒々しい色合いとピリッと鼻の奥が痺れるような臭いを放つ、名状しがたいスムージーのような何かだった。

 確かに野菜や果物を手あたり次第に入れたら、こうなるのかもしれないが……。


「見た目は気にしなくていいのよ? これとっても健康にいいんだから」

 曜の戸惑いを察知したのか、来海の母はしきりにドリンクの自画自賛を始める。


「血液がねぇ、驚くほどサラサラになるのよ。それはもう大人の男の人だって、不健康がウソみたいに、とってもよく流れるようになるんだから」

「ママ」

 来海が珍しく咎めるような強い口調で言った。それでふと我に返ったのか、来海の母は誤魔化すようにフフフッと笑みをこぼす。


「いやだ、わたしったら。ちょっと気が早すぎたかしらね、ンフフフ……」

 気が早いって、一体何のことだろう。


 その時、来海の母のケータイがブルブルと音を立て鳴り出した。彼女は軽く断ってから電話に出ていたが、やがて長くなりそうと思ったのか、声をひそめるようにして玄関から家の外へと出ていった。


「ごめんね」

 母の目がなくなった瞬間、来海は一気に息を吐くように言った。彼女もどうやらかなり気を張っていたらしい。なんだかその日、来海は謝ってばかりいる気がした。


「怖かったよね。ママにはバレないように気を付けてたつもりだったんだけど。曜くんを連れてくるって言いだしたら、全然聞いてくれなくて」

「……ううん、いいよ。来海姉ちゃんがいてくれたし」


 曜は来海をそれ以上謝らせたくなくて、少々気休めを言った。正直まだ微妙に怖いが、来海の母の目がないだけで、曜もだいぶ落ち着いて話せるのは確かだった。

「来海姉ちゃんこそ、あんまり無理しないでね。またウチ来ていいからさ」


 曜が来海をわずかに見上げる形で二ッと笑むと、彼女は少しの間言葉を探すようにしてこちらを見つめていた。雨宮家には足の低いミニテーブルとクッションしかない。殆んど直に床へと座り込んでいるから、隣り合って座れば人と人の距離は自然と近くなる。曜は無意識のうちに、来海の陰に半分覆われるようにして座っていた。


「…………これ、捨てちゃうね。上手く誤魔化すから」

「えっ、うん……」


 来海がいきなり、跳ねるようにしてその場に立ち上がる。母親の謎ドリンクを回収して流し台に直行したのはいいが、何か急に目を逸らされたような気がする。自分が何かしてしまっただろうか、と曜はまた少しだけ不安を覚えた。


 蛇口をひねる音のする間、曜は手持ちぶさたになり適当に身体を揺らしていた。背中に柔らかい何かの当たる感触がして振り返ると、畳んでこそあるが雨宮家は布団が枕と共に出しっぱなしであることに今更気付いた。ピッタリと閉じられたふすまの前を塞ぐように置かれていて、隣の部屋へ行く邪魔にならないのかと曜は素朴な疑問を抱いた。あるいは意外と面倒くさがりなんだろうか。


「ああ、曜くんごめんなさいね」

 丁度その時、電話を終えたらしい来海の母が戻ってきて言った。


「急に予定が入っちゃったの。来て貰ったばかりで悪いけど、今度また遊びに来て頂戴」

「ならわたし、曜くんを家まで送ってくるから」


 誰の返事も待たず、来海は「行こ」と曜の手を握ると一直線に玄関へ歩き出した。その途中、開けっ放しになっていたお風呂場らしき場所の前を横切る。ほんの一瞬で何がどう壊れているのか曜には分からなかったが、その代わり消毒液や漂白剤など洗浄用品の空き容器ばかりが、山のようにゴミ袋に突っ込んであるのだけが見えた。


 来海と一緒にアパートの敷地を出ていると一瞬、来海の母があのニコニコ笑いで、誰か分からないが男の人を出迎えているのが見えた。パーマをして背が高く、妙にニヤついた笑みを浮かべた軽薄そうな男。あれは一体何だろうと、曜は不思議に思った。


「見ないで。見ちゃダメ」

 来海に小声で言われ、仕方なく曜は目を背ける。最後に視界に入ったのは、来海の母に手を引かれた男が、雨宮家のドアの奥にバタンと消えていくその後ろ姿だった。


「これ、返すね」

 日村家の前に着いた直後、来海が家から持ってきた傘を突然手渡してくる。晴れなのに何故傘なんか、と不思議だったがそれはよく見ると、彼女に貸したきり存在を忘れていた曜の傘だった。今更いいのにと思ったが、意味が分かったのは少し後だった。


 その日以来、来海は公園に姿を見せなくなった。

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