第6話 お風呂入る?

 また別のある日だった。

 自宅の玄関を音をたてないようにしてコッソリ外から開けた曜は、ほのかに暗い宅内に物音がしないのを確かめ安心すると早速、来海を中へと招き入れた。


「大丈夫だよ、やっぱり誰もいないから」

「……でも、本当にいいのかな。バレちゃったら、曜くん怒られない?」

「誤魔化すから平気だよ」

 まだ迷っている来海の手を、曜は思いきって引っ張ると廊下の奥へ進んだ。


 原因は、その日の来海の様子が少しおかしかったことだ。簡単にいうと、いつもみたく公園のベンチで曜が隣に座ろうとしたら、急に彼女に距離を取られたのである。

 最初は考えすぎかと思った。が、話しかけようとする度に明らかに少しずつ来海がその身を離していくために、曜はとうとう不安で押しつぶされそうになってしまい、気付けば絞り出すような声で彼女に訊ねていた。


「来海姉ちゃん……ぼく、何かしちゃったかな……」

「えっ、そんなことないよ。急にどうしたの?」

「だって……さっきから、ぼくから逃げようとしてるから……」

「あっ、違うよ! 違うからね?」


 来海の言葉を全部聞くよりも先に、胸の奥の方がギュッと苦しくなり、ドロッと溶けた悲しみの感情の残滓が瞳の奥から溢れ出しそうになってくる。来海もまさか曜を傷つけるとは考えなかったのか、思った以上に慌てふためいた様子だった。


「待って待って、曜くん。あのね、わたし実は、最近あんまりお風呂に入れてないの」

 来海は突然、意外なことを口にした。


「だから、わたし結構臭ってるかもしれなくて……それで」

「……なんでお風呂入らないの?」

 曜は少しだけ鼻声混じりに、しかし素朴な疑問を返した。来海は答えない。


 少し責めるような口調が良くなかっただろうか。曜は目元を袖で拭いながらも、何とか自分で自分の気持ちを落ち着かせた。我ながら情けないと思う。


「ごめん。言いたくないなら、いい」

「……イヤな気持ちにさせて、わたしもごめんね。でも、曜くんの所為じゃないから」

「うん……だけどさ、女の人って意外と結構、お風呂入んないよね」

 曜はふと浮かんだ疑念を率直に述べてみた。


「なんかウチの姉ちゃんも時々入らないし。なのに訊いたら怒るし」

「……だって、血のニオイがするもん……」


 来海の言葉の意味が分からなくて、曜は再び困惑した。なんで、と訊きたくても来海の表情があんまり深刻なので結局、しつこく訊ねるのは遠慮してしまう。遅れて、曜を安心させたかったのか、来海はちょっと無理するみたいに柔らかく笑んだ。


「……ごめん、気になるよね。正直に言うとね、今ウチのお風呂が使えなくなってるの」

「……機械が壊れちゃったとか?」

「うん、そんな感じ。だからわたしも、入れるなら入りたいんだけど。けどこの近くってお風呂屋さんとか全然ないでしょ。遠くに行くのも疲れるし、だから……」


「…………良かったら、」

 曜は恐るおそる、しかし大胆な提案をした。


「ぼくんちの、使う?」

「…………だからさ、曜くん、」

 言いながらも一瞬、来海は息をのんでいた。


「前にも言ったけど、あんまり良くないよ。そういうの」

「分かってる。別に、イヤならいいから……」


 曜だって来海の言葉は覚えていた。けれどやはりそれ以上に、自分は汚いとか臭いとか来海がそんな風に思ってしまうのが、曜には耐えられなかった。そう思うことがどれだけ辛いことなのか、曜自身が一番よく分かっているつもりだったからだ。


 来海も実際、すぐには頷かなかった。けれども何をどう思案した結果なのか、最後には結局提案を受け入れ、来海はこっそり日村家を訪れることとなった。


 来海が日村家の浴室を使っている間、曜は廊下を挟んだ一階のリビングルームで待っていた。ソファに座ってじっとしていようとした曜だったが、何となくソワソワするものを感じてしまい、気付けばずっと貧乏ゆすりを繰り返していた。

 何枚ものドアを隔て距離も一〇メートル近く離れているハズなのに、遠くのシャワーの音がやたらと大きく鮮明に耳元へ届いてくる。家には他に誰もいないというのもあるが、まるで来海が裸のまま隣にいるかのような妙な錯覚をしそうになる。


 徐々に正体不明の罪悪感めいた何かに襲われた曜は、気を紛らわそうと咄嗟にテレビをつけた。シャワー音を打ち消せれば、正直何でも構わないとさえ思った。

 映ったのは『生きものサイエンスワールド』……公共放送の科学特番だった。理科は元から好きな科目だったので願ってもなかった。これ幸いと、曜はボリュームをひと回りもふた回りも大きくする。リビングがたちまち爆音に包まれる。


 番組はちょうど、生物の交尾について言及しはじめたところだった。

 曰く、虫や魚の一部には交尾の際にメスがオスをむしゃむしゃ食べてしまう事例があるという。何とも恐ろしい話だが、曜にはそれ以前に純然と不思議に感じられた。有り体に言って、交尾というものが何なのかが曜には分からなかったからだ。


 行為の存在自体は知っている。虫や魚や動物が、タマゴを生む前にするという行為だ。とはいえ所詮、それは『何となくそうらしい』程度の認識に過ぎない。

 曜にしてみれば、タマゴを生むのに何故オスとメスがいちいち尻などくっつける必要があるのか、その意味が欠片も理解出来ないでいた。タマゴが動物の尻から出てくることは知っているが、何か関係でもあるんだろうか。


 交尾する意味を、先生に訊ねたことがある。すると「種の保存のため」という意味不明極まりない答えが返ってきた。姉にも訊いた。今度は「うるさい!」と怒鳴られただけで答えすら返ってこなかった。曜は次第に訊くのが怖くなり、やがて興味を持つのをやめた。それ以来、交尾とは曜にとって謎の行為のままである。


 そんなことを考えるうち、曜は風呂にいる相手のことをすっかり忘れてしまっていた。廊下でガラガラと戸を開ける音がした時、自分でも意外に思う程ビックリした。


「……曜くん、お風呂ありがと」

 制服姿に戻った来海が、タオルで濡れた髪の毛を優しくポンポン叩きながらリビングに入ってきていた。当然ながら裸ではなくて、曜は正直ホッとする。来海は、出会ってからその日初めて三つ編みをほどき、長い黒髪をストレート気味に流していた。


「久しぶりで、とっても気持ちよかった」

 少女から立ち上る湯気に乗って、バニラのように甘くほのかに暖かい香りが曜の鼻孔をそっとくすぐる。揺れる黒髪はつやつやと光り輝いてまぶたの奥に写真の如く鮮烈に焼き付き離れず、柔らかな笑顔は太陽にも似て少年の心を音もなく溶かした。


 知っているハズなのに見たこともないような美少女が、目と鼻の先に立っていた。曜は背筋がぞわぞわとわき立つのを感じた。怖いわけではないのに首から下側で全身に鳥肌が広がっていく。何故なのだろう。曜には上手く説明することが出来なかった。


「曜くん? 大丈夫?」

「…………何でもないです!」


 曜は慌てて顔を背け、ソファの上に正座をしてしまう。曜は今、来海を直視する訳にはいかなかった。すぐにでも心臓が爆発して、背中側から飛び出してしまいそうな気がしたからだ。尚且つそのことを、来海には知られたくないとも思った。


 その後、曜は貸したドライヤーで髪の毛を丁寧に乾かす来海と色々な話をしたが、正直内容はひとつも頭に入ってこなかった。唯一印象に残ったのは、点けっぱなしのテレビに映る川底のシャケたちが白いもやに包まれのたうち回る謎の映像だったが、そのシーンの意味すらも曜にはよく分からなかった。


 そうして来海は、まだ暗くならないうちに家へと帰っていった。

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