第二章「AI技術時代に東野圭吾は必要なくなるのか」
まず、ベンヤミンは『複製技術時代の藝術』において、科學技術の発展により、藝術から、それを直截に体験するときにかんじる崇高さなどの『アウラ』が喪失されると論じた。
とおい美術館にゆかなければ観賞できなかった名画が、写真技術によって、一般市民でもたのしめるようになる、などである。
瞥見すると、科學技術が藝術を破壊しているのだと読めるかもしれないが、ベンヤミンは、藝術からアウラが喪失されたと同時に、前述のように、藝術を観賞する機会が、複製技術によって、貴族たちから庶民たちまで敷衍されたことなどを言祝いでいる。
前後して、マルクスが『資本主義社会においては、上部構造(政治や藝術)が下部構造(労働や肉軆)を規定するのではなく、下部構造が上部構造を規定するのである』というように標榜するわけだが、ベンヤミンのいうように、本来、上部構造にあった藝術が下部構造の労働者と密着することによって、寧ろ、下部構造は上部構造へと波及する威力をもつことになったといえる。
共産主義者であったベンヤミンは、とくに、映像技術の発展と政治との関係を論じ、藝術作品がナチスなどのプロパガンダにつかわれる虞があるがゆえに、藝術家は、左翼思想の敷衍のために藝術を利用しなければならない、というような結論に達した。
これらベンヤミンの論考を補助線とすると、AI技術は、嘗ての複製技術の発展とおなじく、現代の藝術から大幅に『アウラ』を簒奪することになるのではないかとおもわれる。
つまり、曩時に、藝術が貴族の観賞のためのものから、庶民も観賞できるものになったように、『藝術が庶民の観賞するものにとどまらず、庶民が自由に創作できるもの』へと変貌するのではないかとかんがえられるのだ。
たとえば、だれかが東野圭吾氏の浩瀚の小説をすべて読破して、『東野圭吾氏の新作が待ち遠しい』とおもっていたら、AIに『東野圭吾風のミステリを一編書いて』と送信すれば、数秒で、『東野圭吾と同等のミステリ』がパソコンや電子端末で読めるようになるかもしれないわけだ。
此処から、ならば東野圭吾を劈頭とし、小説家は必要なくなるのか、という問題を論じてみたい。
――つづく
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