16.密入国者

 ジメッとした空気が肌に纏わりつく感覚に、アンジュは思わず腕を擦る。外よりも気温の低いこの場所は、ここに居るだけで気が滅入ってしまう程に鬱屈とさせられる。そんなことを想いながら、アンジュは少し離れた場所から、牢屋の中の人物を注視した。


「ここから出して! それからエレナに会わせなさいよ! 私を誰だと思ってるの! こんなことして、ただじゃおかないんだから!」


 興奮状態の女は、元は豪奢なドレスを着ていたのだろうが、今は薄汚れて見る影もない。

 そしてもうひとりの人物は、ぐったりと床に座り込んでいた。


 まさか本当に密入国をしてくるとは、とアンジュは牢屋の中の人物に目を向けながら、ジェイクの言葉に耳を傾けた。


「昨日の夜、闇に紛れて入国した彼等を捕らえました。密入国を手引きした者たちは別の牢に入れてあります。ロブにもこのことは伝えてあります。この後の処遇は……まあ、元々死刑囚ですので……」


 最後まで言わなくても分かっているという意味を込めて、アンジュが頷く。本来ならば、即処刑になるのだろうが、隣国の意図や、密入国した彼等の思惑などを聞き出してからでも遅くはないと、取り敢えず牢に入れることにしたのだろうとアンジュは考えた。


「エレナの父親は、復讐をしたいと思っているのでしょうか?」

「どうでしょう。自分の娘を貶めた相手ではありますが、正直ロブはそこまで彼等と顔を合わせていたわけでもありませんし。それに既にこちらに亡命し、幸せな時間を手に入れたのもあって、不謹慎ではありますが、彼等に感謝している部分もあるのではないかと思っています。どちらかというと、娘であるリドリー嬢の方が、復讐したいと思っているかもしれませんね」

「そう……ですよね……。エレナが賢明に助けようとしていた孤児たちを、あんな目にあわせたのですから、それは当然でしょうね」


 それでもあのエレナが復讐をしたいと言い出す姿が、アンジュには想像できなかった。いつも穏やかで、優しく叱ってくれるエレナが、怒りに任せて復讐を望むとは到底思えなかったのだ。


「彼等の捕縛の件は、エレナには話したのですか?」

「いいえ。どうするべきか、悩んでいるといったところです。ロブとハロルドは、知らせない方が良いと思っているようですが……」

「当事者としては、知る権利はあるのかもしれませんが、知ったところで、嫌な思いをするだけでしょうしね」


 復讐をするにしろしなかったにしろ、エレナの心の傷を広げてしまいそうで、アンジュはぐっと眉間に皺を寄せた。


「結局のところ、彼等の要望はリドリー嬢に会わせろという一点のみです。ロブのことは、一度も口にしていません」


 ジェイクの言葉に、アンジュは思わず首を傾げてしまう。

 だがエレナに会ったあと、何食わぬ顔でロブ・リドリーに会わせろと言い出すのかもしれないと、強い警戒感が生まれた。


「少し話がしてみたいのですが、よろしいでしょうか?」

「……どんな話を?」


 少し離れた場所で、腕を組んで壁に凭れかかっていたハロルドが、不機嫌にそう言葉をこぼした。エレナを貶めた二人に対し殺気を放つハロルドに、アンジュは苦笑いをした。


「コールズ様からしたら、あの二人を見るのも嫌でしょうが、どうしても確かめたいことがありまして」


 アンジュの言葉を受け、ハロルドが疲れたように息を吐き出す。

 そうしてジェイクへと目配せすると、ハロルドは牢屋の方へと歩き出した。その後にアンジュが続くと、後ろからジェイクもついて行く。


 三人が近づいてきたことにすぐに気づいた女が、声を荒げる。


「ちょっと、いつまで待たせるのよ! さっさとここから出しなさいよ!」


 牢屋から出すために近づいてきたのだと勘違いしている女に、アンジュは呆れた目を向けた。その目が気にいらなかったのか、女は益々目を吊り上げた。

 美しく手入れされていたであろう金の髪は、くすんで所々泥がついている。化粧も一部が取れて、斑に顔に張り付いているように見えた。可愛い部類に入るのかもしれないが、飛び抜けて容姿が良いわけではない。金切り声を上げてしまえば、そのかろうじて可愛いであろう容姿も台無しだった。


「そちらの方が、あなたの婚約者?」


 牢屋越しにアンジュが問えば、言いたくなさそうに女が答える。


「え? ええ……そうよ……」


 床にぐったりと座っている男を見遣り、女は次いでジェイク、そしてハロルドへと目を向けた。その目は恋する乙女のように輝いている。それを目の当たりにし、余りの気持ち悪さに、ハロルドが顔を歪めた。


「そう……」


 アンジュは座り込んでいる男をじっくりと観察した。

 小柄ででっぷりと太った男は、顔にはたくさんの吹き出ものがある。密入国して来て、湯浴みをしていないせいもあるだろうが、全体的に脂ぎった印象を受けた。

 着ている物は上等なものだが、着こなせていないのは明らかで。


 エレナの身の上話を聞いたとき、真っ先に思いついたのは乙女ゲームだった。もしくはそれに準ずる小説で。もしそうだとしたら、攻略対象者がどれほどのイケメンなのかと、見てみたいという思いがあった。だから彼らが密入国し、捕縛されたならば、是非会ってみたいとジェイクに申し出たのだ。だが、本来ならば関係者でもないアンジュが会ってみたいからと言っても、会えるものではない。それでも今回のことを『言い当てた』アンジュは特例で面会を許可された。

 そして、落胆する。

 これはどう見ても乙女ゲームの攻略対象者ではないと。そしてヒロインの方も、どちらかというと悪役令嬢の部類だった。


「思ってたのと違う」


 つい本音が漏れた、最低な女、アンジュである。


「どう違うんだ?」


 アンジュの呟きを聞き逃さなかったハロルドが、不機嫌に質問する。

 そのハロルドを振り返って見たアンジュは、ついつい呟いてしまう。


「そりゃあ、落ちるわー」


 エレナがハロルドに恋をするのも頷けると、アンジュは一人納得する。

 今まで、こんな男が婚約者で、しかも浮気をしていた最低男。それどころか、孤児たちを殺した人でなしだ。

 憎しみもさることながら、どこにも魅力を感じられないこの男に嫁がねばならない事実は、さぞ精神的に辛かっただろう。そしてこちらに亡命し、然程時間が経っていない頃、弱りに弱った精神は限界を迎えていたはずで。そんなときに長身で引き締まった体躯のイケメンに出会い、本気で口説かれたらコロっと落ちるのは当然だろう。

 アンジュは思わず、横に立っているジェイクにも目を向けてみた。うん、素敵!と再確認したアンジュだった。


「エレナから奪おうと思う程の色男には見えないんだけど、そんなに彼が良かったの?」


 アンジュが何の感情も乗せずに淡々とそう問いかけると、牢屋の中の女がフンッと鼻を鳴らした。


「あの女のみっともない泣き顔が見たかっただけよ!」


 その言葉に殺気立ったハロルドは、拳を握り、歯ぎしりをした。


「そう。今のあなたの姿の方がみっともないけどね」

「なっ! 平民の分際で、この私に盾突く気! 許さないわよ!」

「今のあなたは平民以下の囚人よ」

「囚人! 何言ってるのよ! そんなはずないでしょう!」

「密入国は重罪よ。死罪は免れないわ」

「死罪ですって!」

「やだ、性格も悪ければ、頭も悪いのね。そこにいる男程度しか捕まえられないのが納得できたわ」

「ふん! この程度の男も捕まえられなかったのがエレナよ! 彼女の味方を気取っているようだけど、あのみすぼらしい女の側に付いたって何の得にもならないわよ!」


 ここでアンジュはニンマリと嫌な笑みを浮かべた。顔が良いだけにその笑みは冷酷に見える。

 どちらが悪者か分かったものじゃないとハロルドは思っていたが、ジェイクはそんな悪役顔をするアンジュに見惚れていた。それを目の当たりにし、ハロルドはアンジュを推したことは間違いだったのではないかと、不安になってしまう。


「あらやだ。さっきからあなたが熱い視線を送っている彼は、エレナの恋人よ。そしてこの国の『守護者』の一人なのよ。あなたの恋人なんて足元にも及ばないわ」


 アンジュの言葉に、女が一瞬キョトンとした顔になる。次いで残念なものを見るような表情を浮かべた。


「……はあ……エレナを庇いたい気持ちは分かるけど、そういう嘘は『守護者』の方に失礼よ。それに、確かにそちらの方はとても素敵だけれど『守護者』にしては若すぎるわ。もう少しまともな嘘をつきなさいよ」

「ぷっ」


 諭すように困った表情で言い募る女に、思わずアンジュは噴出した。


「なっ! 何がおかしいのよ!」

「ぷぷぷ……別に……何でもないわ」


 目に涙を浮かべる程に笑っているアンジュに、流石に馬鹿にされていることが分かった女が声を荒げた。


「いい加減にしなさいよ!」


 ガシャガシャと鉄格子を掴んで揺らすが、アンジュの笑いは止まらない。そんなアンジュに痺れを切らしたハロルドが声をかける。


「もういいだろう? そろそろ移送する時間だ」

「移送って、どこへです?」


 分かっていながらアンジュがわざとそう聞く。これは牢の中にいる女に聞かせる為だ。


「処刑場だ」


 ハロルドの答えに、女が蒼白になりながら身体を震わせた。

 そんな女を見遣り、アンジュがまた嫌な笑みを浮かべた。


「元々、死刑囚だったんでしょう?」

「そんなわけないでしょう! 何故貴族の私が死刑囚にならなきゃいけないのよ!」


 女の言葉に、アンジュは首を傾げた。聞いていた話と違うからだ。

 思わずジェイクの方を見遣れば、苦々しい表情をしている。


「場所を変えよう」


 そう言ってハロルドが踵を返すと、途端に女が騒ぎ始めた。


「ちょっと! ここから出してよ! 処刑なんて聞いてないわ! 出しなさいよ!」


 そんな女のことなどは無視をして、ハロルドは歩き出す。ジェイクはアンジュを気遣い、そっとエスコートするように隣に立った。


「行きましょう」

「……はい」


 地下牢から階段を上り、別室へと案内されたアンジュは、カラッと乾燥した空気にホッと息を吐き出した。窓は開け放たれ、心地よい風が吹き込み、室内は明るく暖かい。

 先程までの地下牢との違いに、彼等が罪人であるという認識がアンジュの中で強まった。

 ソファーへと促され、腰を落ち着けると、ジェイクがゆっくりと話し始めた。


「ダンジョン近くの地方では、彼等は間違いなく死刑囚でした。ですが、それはただ民衆を黙らせるためのもので、王都近くの中央の方では、彼等のことに関しては、特にお咎めはないそうです」


 そんな都合の良い話があるのかと、アンジュは絶句した。


「地方に於いて、民衆を黙らせるために、彼らではなく君の推察通り、身代わりの人間を処刑させた。勿論、身代わりは平民だ。そして、あの国の貴族どもは特にこの二人に対して思うところもないようだ」


 ハロルドが付け加えるように説明をするが、アンジュはとにかく腑に落ちなかった。

 そんなことがまかり通るならば、そもそもこの二人を死刑囚にする必要もない。地方の民衆を黙らせるなどといっても、所詮は力を持たない平民なのだ。最初から他の誰かを死刑囚にすればいいだけの話なのに何故、とアンジュは怪訝な顔をした。そして、怒りも込み上げる。こんなことが許されてしまうという理不尽さに。


「思うところがない……というのは、彼らがどうなろうと構わないという意味ですか?」

「いや、そっちじゃない。ロブがいなくなって、国に魔物が溢れても、問題ないと思っているらしい。何故なら、ロブ・リドリーという『守護者』はあの国にはいないからだ」

「は? いない?」

「あの国の『守護者』は辺境伯ということになっている」


 そもそもの認識が間違っていたことに、アンジュは酷く衝撃を受けた。まさか、エレナの父親が『駒』として扱われていた事実に、驚きを隠せないでいた。


「黙っていてすみません」


 そんな衝撃を受けているアンジュに、機密事項ということで、話すことが出来なかったジェイクが申し訳無さそうに謝った。

 その謝罪を受け流す形で、アンジュは疑問を口にする。


「ま、待ってください。エレナたちも貴族ですよね? 侯爵家だったなら、それなりに上位貴族の筈です。それなのに何故、辺境伯の言いなりに?」

「ああ。それでも辺境伯の方が格上だ」

「確かに、辺境を守るという重要な立場なのは分かりますが、エレナの母親は元公爵令嬢ですよね? しかも王宮勤め。だったら辺境伯のことを告発することも出来たんじゃないんですか?」

「夫人も知らなかったそうだよ。自分の夫が『守護者』という役割を担っていたことを」

「そんな馬鹿な。いくらなんでも、あり得ないでしょう。手紙や、家に帰った時に話せば……」


 そこまで言って、アンジュは気がつく。

 日々の魔物討伐で、手紙も書けず、家にも帰れなかったのだとしたらと。


「ロブは、家に帰りたくても帰れない状態だった。そんな中、ロブに酷い噂が立った。愛人の家に入り浸っていると。もちろん、この噂は故意に流されたものだ。実際、家に帰らず、何をしているのかも分からないロブに、夫人は愛想を尽かしていたそうだ」

「夫婦仲はどうだったのでしょう。お互いに仕事を持っていたからすれ違っていたんでしょうか?」

「さあな。流石にそこまでは聞いていない。だがまあ、エレナのことがあって、こちらの間者が夫人に亡命の話をしたときに、すんなりと受け入れたのを見ると、ロブとの信頼関係はしっかりと築けていたのだと思う」

「だとしたら、愛人の話も、案外嘘だと気づいていたのかもしれませんね」

「まあ、ロブの性格を考えれば、そういう結論に至るだろうな。彼はとても不器用だから」


 肩を竦ませて、ハロルドは小さく息を吐いた。

 疲れた顔をするハロルドに、それでもアンジュはまだ聞きたいことがあると、質問をする。


「あの……今までの話を聞く限り、何故わざわざ、あの二人を死刑囚にしたのかが分からないんですが。民衆を黙らせるのなら、別に誰でも良かったんじゃないんですか?」

「まあ、そうだな。だが、この事態に激怒した辺境伯は、どうしてもあいつらを許せなかったのだろう。実際、孤児院を焼き払ったことは事実だったし、部下思いの辺境伯を演じるという意味ではうってつけだ。それに、彼らを死刑囚にするのは溜飲を下げるためにも必要だったのかもな。『守護者』である辺境伯が言えば、それなりに通るのだろうし」


 自業自得だとハロルドは鼻で笑う。

 ロブがいなくなって困るのは、辺境伯だ。今頃必死に魔物討伐に奔走していることだろう。もしくは、さっさと逃げているかだ。

 アンジュはその辺境伯に、酷く腹を立てた。


「ロブがいなくなったところで、あの国の貴族は特に思うこともない。ただ辺境伯と共に、魔物討伐をしていたロブが、それが嫌になって逃げたのだろうと軽く思っているだけだ。辺境伯という『守護者』がいれば問題ないと。むしろロブがいなくなったところで、足手まといがいなくなって良かったと言い出す者もいるそうだ。だが実際には、ロブがいなくなって、魔物を抑えることが出来なくなった。辺境伯は、強い魔物を退治出来るほど強くはなかったようで、既に魔物に喰われて死んでいる」


 淡々と語ったハロルドの最後の言葉に、アンジュは目を瞠る。今までアンジュが立てた筋書きが、一つも当たっていないばかりか、現実はもっと酷いものだと知り、青褪めた。

 それでもまた新たな疑問が浮かぶ。


「あの……特に王都にいる貴族は困っていないのだとしたら、あの二人は何故、密入国してまでこの国に来たんですか?」

「純粋に、エレナを笑いに来たようだ」

「は?」

「平民になって、病院で働く惨めなリドリー嬢を見に来たと言っていた」

「は?」

「国が滅ぶというのに、呑気なものだ。他の貴族どもも特に国を逃げ出した者もいないそうだよ」


 本当に救いようのない国だと、ハロルドは嗤う。


「……民衆の暴動はどうなったのでしょうか?」

「声を上げた平民は、皆その場で処刑されたそうだ。食べるのにも困っていた平民は、皆痩せ細って、戦えるような状態じゃない。まあ、暴動を起こしたというのも結局は、地方の平民だけだがな」


 きっともうその地方は、魔物の襲撃に遭い、見る影もないのだろう。そう考えて、アンジュはジェイクを見遣る。 

 この国の『守護者』であるジェイクとは、本来ならばこんなふうに話すことさえもなかった筈だ。それが求婚までされている事実に、目眩を覚える。

 何故こんなことになってしまったのかと思いつつ、これからのことをアンジュは考えた。

 エレナに妹はいなかった。貴族の女児の出生率の低さ。他国と自国の選民意識の違い。故に、自国での平民との婚姻に踏み切った貴族たち。

 それでもまだ、アンジュの中には不信感があった。ジェイクは本気で婚姻を考えているのだろうかと。前世の記憶と今世の記憶が入り混じり、心が酷く軋む感覚に、アンジュはギュッと眉根を寄せた。

 そんなアンジュの表情に、ジェイクは勘違いしたのか、優しく声をかける。


「ベントさん。大丈夫ですか? その……彼らをそろそろ移送しなくてはいけないので、寮までお送りしますよ」

「ああ、いえ、大丈夫です。一人で帰れますので」

「いえいえ、そういうわけにはいきません。ちゃんとお送りします。そうしないと、僕自身が安心できませんので」


 そう言って、アンジュの手をそっと持ち上げたジェイクは、ゆっくりとした動作でアンジュを立たせた。


「じゃあハロルド。後はよろしく」

「ああ」


 戸惑いながらも、アンジュがハロルドに向け、頭を下げると、小さく声がかけられた。


「今回のことは、エレナには知らせないつもりだ」

「はい。私からも言うつもりはありません。ただ、エレナは父親が隣国の『守護者』だったという話しを、亡命してきた時に聞かされたと言っていました。自分のせいで隣国が『守護者』を失い、たくさんの命が喪われたことに、心を痛めていると思うんです。だから、隣国が滅んでしまうのならは、話せる範囲で結構ですので、どうしてそうなってしまったのか、事情を説明してあげてくれませんか?」


 アンジュの言葉に、ハロルドが目を瞠る。エレナに悲しい思いをさせまいと気遣っていたハロルドだったが、心に陰を落としてしまっていたことにアンジュの言葉で気付かされ、焦ったように返事をした。


「ああ、ああ、そうか……。解った。一度しっかりと話をしよう」

「よろしくお願いします」


 神妙な面持ちで頷いたハロルドを確認し、アンジュはジェイクに手を引かれ、部屋を後にした。


 施設の外に出ると、飛竜が待ち構えていた。来る時は馬車だったので、まさか飛竜がいるとは思ってもおらず、アンジュは驚きを隠せないでいた。


「え? ブルグ?」

「はい。こちらの飛竜もベントさんのところの飛竜だとお聞きしたので、帰りはブルグにお願いしました」

「まあ! ありがとうございます!」


 無防備に飛竜であるブルグに駆け寄るアンジュに、ジェイクは一瞬ヒヤッとする。だが当然のことながら、飛竜はアンジュに顔を寄せ、甘えるように喉を鳴らすだけだった。


「ブルグ、帰りはお願いね」

「グルル」


 小さく返事をした飛竜は、アンジュが乗りやすいように屈むと、ジェイクへ目を向けた。『乗せてやれ』と言っているように見えて、ジェイクは思わず苦笑する。

 飛竜という生き物は、とても自尊心が高く、気に入らない者は背に乗せない。しかもこんな風に乗りやすいように屈むなど論外だった。

 そんな気遣いを見せる飛竜に、アンジュがいかに特別な存在なのかと思い知らされて、ほんの少しジェイクは対抗心を燃やす。自分の方がもっと特別に思っているのだという思いを込め、ジェイクはアンジュを抱え上げた。


「ベントさん、失礼します」

「きゃっ」


 可愛らしい声を出したアンジュだったが、横抱きではなく、子供抱きされていることに気付き、何とも言えない表情をした。

 『そうじゃない』という思いで目を細めた飛竜が鼻を鳴らし抗議する。だがそれを理解していないジェイクは、飛竜に掛けられている手綱を掴み、そのままヒラリとその背に跨った。

 そしてゆっくりとアンジュを自分の前に座らせる。

 確かに、一連の動作であれば、横抱きよりも子供抱きの方が都合が良かったのだろう。そう納得するも、釈然としないアンジュは思わず口を尖らせた。


「ここは横抱きでも良かったと思いますけど?」

「え? あ、すみません。こっちの方が乗りやすいかと思いまして」


 オロオロとするジェイクに、女慣れしてないのだなと、アンジュは思わず安堵した。その『安堵』の理由に気付き、狼狽えた。自分の気持ちがジェイクに傾きかけている事実に、アンジュは愕然とする。

 『あの日』を忘れてはいけない。自分は彼には相応しくないと、戒めのように心で繰り返して、アンジュは気を引き締めた。


「では、行きましょうか」


 飛竜がゆっくりと羽ばたき、浮上する。徐々に小さくなる建物に、アンジュは知らず詰めていた息を吐き出した。

 この後、あの二人は処刑される。その事自体は自業自得なので何とも思わないが、エレナの記憶が消えることはない。それが無性に遣る瀬無く感じて、アンジュは目を伏せた。

 同じ思いを、エレナも抱いているはずで。むしろエレナの方がその思いは強いのだろう。

 忘れてしまいたい思いと、忘れてはいけないという思いとで、押し潰されそうになりながらも、アンジュは前を向いて歩こうと奮い立った。

 

 今世こそは結婚をして、幸せになりたい。助けてくれた兵士たちに報いるのだと、アンジュは足掻くことにした。 

 だがその相手は、ジェイク・オールディスではない。分不相応な相手では駄目なのだと、アンジュはブルグの背を撫でながら哀しそうに呟いた。


「大丈夫。まだ私は若いんだし、幾らでも出会いはあるわ……」


 その小さな呟きを聞き逃さなかったジェイクは、手綱を握る手に力を込めた。

 そして再度誓う。

 アンジュを必ず手に入れると。



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