12.あの日、そしてあの森へ
アンジュは夢を見ていた。
もう一年も前に体験した、忘れることが出来ないあの日のことを。
その日、まだ見習いであった同期たちを、マリン先輩が指導していた。
「ミランダ、遅いわね? 道具を取りに行くのにどれだけ掛かっているのかしら?」
マリン先輩がそうボヤけば、同期のライラが明るく返す。
「患者さんに捕まったのかもしれませんね」
「もしくは、廊下を走って、婦長に怒られているとかね」
そう言って笑ったもう一人の同期、サリーが婦長の真似をして、思わず吹き出す。
そんな和やかな雰囲気を壊したのは、漸く戻ったミランダだった。
「大変よ! 森の奥にあるダンジョンで、スタンピートが発生したそうよ!」
慌てて駆け込んできた同期のミランダが大声を張り上げる。それを叱責したのはマリン先輩だった。
「ちょっと、ミランダ! 声が大きいわ! 病院内では大声を出さない! しかもそんな物騒なことなら尚更よ!」
強い口調ながらも声量を抑えてマリン先輩が言えば、ミランダは口を尖らせながらも謝罪した。
「ごめんなさい、マリン先輩。でも私、聞いちゃったんです! 今回の魔物討伐に、院長先生と婦長が同行を求められていました!」
ミランダの言葉に、その場の空気が凍りつく。
この病院はダンジョンの近くということもあり、ダンジョンで負傷した兵士がよく担ぎ込まれる。その兵士の負傷は、腕が千切れていたり、脇腹が抉れていたりと、見るからに酷いものだった。
訓練された兵士でさえ、そうなのだ。そんな危険な場所に、二人が行くとなれば、みんなが動揺するのは当然だ。マリン先輩は顔を青くさせ、何かの間違いであって欲しいというように声をあげた。
「どこでそんな話を聞いたの? それに本当にそんな話をしていたの?」
「軍の人が来ていました。そして、院長先生と婦長が対面にいて、了承したようでした」
マリン先輩は大きく目を見開いて、首を振る。
「そんな筈ないわ。もしスタンピートが本当のことなら、この病院だって忙しくなるわ。それなのに、院長先生と婦長が病院を離れるなんてありえないもの」
マリン先輩の言葉に、ミランダは少し視線を下にずらし、言い淀む。
「最初は、二人ではなく、看護師の誰か、という話でした。でも院長先生が強く反発して自分が行くと。その勢いのまま婦長も行くと言い出して……」
「最初の話と違うじゃない!」
マリン先輩が声を抑えることなく叫んだ。
「経緯が違うだけで一緒です! だから、私もダンジョンに行こうと思います!」
「なっ! ちょっと待って! 何でそうなるのよ!」
ミランダの突拍子もない発言に、同期の皆が目を瞠る。
「何でも何も、本当はあたしたちが行かなくちゃいけなかったのに、代わりに二人が行くなんて、どうしたっておかしいじゃないですか!」
「だからと言って、ダンジョンに行くなんて無謀よ! それに、二人は元兵士だから、自分たちが行くって言ったのよ、きっと」
「元兵士?」
ミランダの疑問に、同期の皆が一斉にマリン先輩に目を向ける。
「院長先生は元々軍医をされていたの。もう若くないからって、病院を立ち上げたのよ。婦長は元魔導士で、魔力枯渇を起こして以降、軍で働ける程の魔力が戻らなかったの。それで院長先生がこの病院に誘ったのよ」
「……意外です」
誰かがそう呟いた。同期の皆もそれに賛同するように頷いた。
「だから他の誰かではなく、自分たちが行くと言ったんでしょうね」
「ですが、二人がいなければ、怪我人が運ばれて来た時に困ります」
ライラが尤もな意見を言う。マリン先輩も勿論そう思っていた。さっき、そんな感じの言葉を零していたし。
「確かにそうなんだけど……。この病院の看護師たちは、修羅場を潜り抜けた猛者ばかりだから……」
実際、この病院の看護師たちは、同期よりも随分と年上ばかりだった。その理由は、田舎の病院に勤めたいと思う看護師が少なかったのと、来る患者もそんなに多くなかったからだと聞いている。
数年前に出来たダンジョンのせいで、人手が足りず、今回、大々的に人員を募集したのだと、入社当時に説明を受けた。
「なら、私がダンジョンへ向かっても大丈夫ですよね?」
「あなたが行ったところで、何も出来やしないわ!」
まだその話が続いていたのかと、マリン先輩が止めに入る。だがミランダは行く気満々だ。そんなミランダに、賛同者が現れる。
「私も行きます」
普段とても大人しい、同期のメリルだった。
「メリル、あなたまで、何を言い出すの?」
焦るマリン先輩を他所に、味方を得たミランダが勢いづく。
「ここから森までは、随分と距離があるから、荷馬車で行くわよ! アンジュ、あなた牧場の娘なんでしょ? 馭者をやって!」
「待って! 私は行くなんて言ってない!」
そう、私はこのとき言ったのだ。行く気はないと。
そして気づく。
ああ、これは夢だ。あの恐ろしい夢だ。早く覚めて!
そう夢の中の私は心で叫ぶ。だが無情にも、この夢はいつもと同じように覚めることはないと分かっていた。
「そうよ、行っては駄目! それに病院はどうするの! これから怪我をした兵士がたくさん担ぎ込まれるのよ! 人手はいくらあっても足りないわ!」
マリン先輩がそう宥めても、ミランダの考えは変わらなかった。
「だからこそです。森まで荷馬車で行けば、負傷した兵を病院まで運べます。それにその場で応急処置も出来ますし」
「確かにそうかもしれない。でもそれは、あたしたちが怪我をしなければの話でしょう? スタンピートなのよ。森の中は魔物で溢れているかもしれないわ」
マリン先輩の言うことは尤もだ。それなのに、まるで聞く耳を持たないミランダは、あろうことかマリン先輩に食って掛かる。
「マリン先輩のような臆病者には、病院でただ怪我人が運ばれて来るのを待っていればいいわ!」
「なっ!」
「言い過ぎよ、ミランダ」
流石にその発言に、今まで黙っていたエレナが声をあげる。それに続くように私ももう一度自分の意思を主張した。
「行かないわよ、絶対に!」
「アンジュ、あなたも臆病者なのね」
「それを言うなら、あなたは愚か者よ」
この言葉は、あの時言ってやりたかった言葉だ。実際には言っていない。もっと罵倒してやれば良かった。そうすれば、今もこんなに辛い思いはしなかったかもしれないのに。
そうして場面がいきなり切り替わる。
結局マリン先輩の説得も虚しく、一人でも行くと言い出したミランダが、馭者の出来る用務員のところへ駆け出した。それに驚いたマリン先輩が、結局折れて、何故か同期の皆も一緒に森へと来てしまっていた。
森に入って、随分と歩いた頃、ふと風に乗って血の匂いが届いた。いち早く気づいたミランダが駆け出す。皆も後に続き、少し行ったところで、ミランダも、皆の足も止まった。
一番最初に目に飛び込んできたのは、魔物の死骸だった。かなり大きい魔物だが、既に事切れていることが分かる。そして次に目にした光景に、身体が震え上がった。
兵士が十人程、倒れ伏していた。腕が千切れている者もいれば、脇腹を抉られている者、足が変な方向に曲がっている者もいる。
「ボサッとしないで! 手当てをするわよ!」
駆け出したのはマリン先輩だった。そして、いつまでも動けないでいる皆に、指示を飛ばす。
「ミランダ、彼の腕の止血を! サリー、こっちの彼の腹部の応急処置を! アンジュ、あっちの彼の手当を!」
エレナとメリルは、指示を受ける前に動き出していた。
濃い血の匂いが充満する中、必死になって手当をする。幸い全員が生きていたことに、ただただ安堵した。
全員の手当を終え、この後もっと奥へ行くべきか、それとも兵士たちを病院に運ぶのかと、話し合っていた時だった。
「……あんたたち、誰だ……」
右腕が折れている兵士が、小さく呟く。
「良かった、意識が戻ったのね!」
ミランダが手当をしていた兵士が、意識を取り戻したことに、皆は詰めていた息を吐き出した。
「あたしたちは、この森から少し行ったところにある病院の看護師です」
ミランダのその言葉に、兵士が目を瞠る。
「一般人が、何でこんなところに……」
「軍の人から要請を受けました」
確かに要請は受けたのだろうが、それは私たちではない。しかも聞いたのはミランダだけで、盗み聞きだ。
「そうか、助かる。直に応援が来るはずだから……」
その兵士の言葉が、途中で途切れる。
どうしたのかと思い、皆が訝しげな表情を浮かべた。
「今すぐここから離れろ!」
ガバリと起き上がった兵士が大声で叫ぶ。その鬼気迫る様子に、全員が固まった。
「早く! 走れ!」
そう言って森の出口を指さした。それなのに、その兵士は森の奥へと駆け出した。
「……魔物がこっちに……向かって来ている。早く逃げろ……」
駆け出した兵士の背中を見ていた皆が、一斉に振り返った。
何人かの兵士が意識を取り戻していることに気づき、マリン先輩がすぐに行動を起こす。
「皆さん、歩けますか? さあ、歩ける人は自力で歩いて下さい。歩けない人は、あたしたちが肩を貸しますから」
マリン先輩が一番重症だと思われる兵士に近づいた。
「俺たちのことはいい。早くここから逃げろ」
「そんなことできません!」
叫んだのはミランダだ。同期の皆が兵士に手を貸そうとしたが、怒鳴られる。
「言うことを聞け! 死にたいのか!」
鼓膜が破れるのではないかというくらい大きな声だった。それに一瞬、皆が怯む。だがすぐに持ち直して、何も言わずに兵士の身体を起こそうとした。
その時、ドオンっという音と共に、地響きが届く。その異常な音と、地響きに、その場の全員が固まった。
「逃げろ! 早く!」
何人かが立ち上がり、遅いながらも駆け出した。
その先に、とても大きな黒々とした二足歩行の得体のしれない動物の姿が見て取れた。
ああ、あれは動物じゃない。
魔物だ。
最初に駆け出した兵士が、魔物の口の中に右腕を突っ込んでいる。私は最初、そう思った。
でも違った。
あれは腕を喰われているのだ。
そう理解したと同時に、恐怖がどっと押し寄せる。
「逃げろ!」
誰が叫んだのかなど、もう分からなかった。
気づけば私は駆け出していた。
前を見ると、同期の皆の背が見えた。
息が切れる。とても苦しい。それなのに、ちっとも森から抜けられない。
「ぎゃあああああーーーー」
誰かの叫び声が聞こえた。でも、振り返れなかった。
「アンジュ! 早く! もっと速く走って!」
この声はマリン先輩だ。後ろからかけられた声は、すぐ横に移動する。
「アンジュ、早く!」
そして、マリン先輩の背が見えた。
苦しい。
その時、グッと強く腕を引かれた。
「アンジュ、頑張って!」
エレナが息を荒げながら叫んでいる。何度も頑張れと。
後ろから大きな音が迫って来ている。
そう分かっていても、これ以上速くは走れなかった。
それでも漸く、森を抜けられた。
「アンジュ、馬車を出して! 早く!」
同期の皆は既に全員、荷馬車に乗っていた。
私はすぐに手綱を握る。
破裂しそうな心臓に、震える手足。
そうして、荷馬車は走り出した。
あそこに残った兵士たちが乗るはずだった荷馬車が。
彼らはどうなってしまったのか、そう考えることを、私は放棄した。
病院に着いて、私たちはすぐに皆に知らせた。森であったことを、全て。
叱責を受けるよりも先に、先輩看護師たちは、森に残った兵士たちが担ぎ込まれるかもしれないと、すぐに準備を始めた。
それに倣い、私たちもできることを精一杯やった。
でも結局、彼らは病院には来なかった。ただの一人も。
それがどういうことなのか、私たちには嫌という程に分かっていた。
私たちを逃がすために、彼らは犠牲になったのだと。
そして、医院長と婦長は、森に向かったのだと聞いた。自分たちが森に向かったことを知らずに、軍の要請を受け、赴いたのだという。
私たちの行動は、無意味どころか、最悪なものだったのだと思い知らされた。
そのことを受け止めきれずに、心を病んだミランダは、病院を後にした。それに続くように、同期はエレナを残して、皆去っていった。
私はただ、怖かったのだ。このまま逃げ出して、その後どうするのか。自分の進む道を見失って、生かされたことに感謝していても、後悔と罪悪感を抱えたまま朽ちていくのが怖かった。
生きていることへの罪悪感に押し潰されそうになりながらも、人を助ける仕事だけは辞めることは出来なかった。それが自分に出来る唯一の償いだと、ただの自己満足に浸っていた。
そう、浸っていたのだ。
「夢見は最悪ね……」
朝、目を覚まし、アンジュは小さく呟く。
久しぶりに見たあの日の夢に、心が引き摺られるようで、目を伏せた。
「今日も仕事なんだから、シャキッとしないと」
そう言って寝台から下りたアンジュは、前を向いた。
◇ ◇ ◇
その報せを受けたのは、正午を回ってすぐのことだった。
カーンカーンと大きな鐘の音が、町中に木霊する。警鐘が鳴り響く中、アンジュたちのいる病院では、すぐに患者の避難が始まった。
「手分けをして、隣町の入口まで患者を運びます! 歩ける方は自力で、その他の方は看護師が付き添って、ベッドごとでも何でも、とにかく避難しましょう!」
ざわざわと、あちこちで不安げな声が上がる。そして落ち着かない患者から、酷く動揺した言葉が飛び出した。
「どうして! 二月前に討伐隊が魔物を一掃したんじゃなかったのか?」
ジェイク率いる魔導部隊が討伐隊としてダンジョンの魔物を倒したのは記憶に新しい。
そして今現在、入院していた魔導部隊の魔導士たちは全員退院し、入院患者は両手で数えられる程度の人数だった。
「今はそんなことを言っている場合ではありません! 避難が先です!」
婦長が大声で叫ぶ。返事をする時間も惜しく、看護師たちは一斉に駆け出した。
「さあ、大丈夫ですよ。ゆっくり、ゆっくりでいいですから、転ばないようにしてください」
気持ちは急いてはいるが、転んで骨折でもしてしまっては余計に時間と人手がかかってしまうと、看護師たちは慎重に患者たちを避難させる。
夜勤の看護師たちも駆けつけ、患者一人一人を丁寧に誘導していった。
幸い、重症者はいない。
病院の裏口では、荷馬車が三台用意され、看護師が次々と患者を乗せていった。その内の一台にアンジュが乗る。牧場出身ということもあり、有事の際は馬の手綱を握る役割を与えられていた。
他の荷馬車には、それぞれ用務員の男性が手綱を握る。看護師も用務員も、全員強張った顔を取り繕うこともせず、ただただ出来ることを懸命にこなした。
「アンジュ、点呼は終わったわ! 出発して!」
「はい!」
数人の看護師が荷馬車に乗ったのを確認し、アンジュは馬を走らせる。患者のことを考えると、余り速度は出せない。それ以前に、町には避難する人たちが道に溢れ、荷馬車は否応なく速度を落とすことになった。
それでも少しずつ隣町へと近づいているのは確かで、だんだんと人が増えていることに、アンジュは一抹の不安を抱いた。
「停まって、アンジュ!」
後ろから、アンジュと同じ持ち場を任されていたマリンが叫ぶ。
その声に応じ、アンジュは荷馬車を端の方へ寄せ、停めた。
「何人か荷馬車に乗せるから、ちょっと待ってて!」
慌ただしく荷馬車から降りる看護師たちに、患者たちは不安げな表情をする。
「大丈夫ですよ。隣町の入口まではもうすぐです。そこまでいけば、司祭様が張ってくださった結界内に入れます」
実際、そう簡単には隣町に入れそうにないことは、アンジュも患者たちも分かっていた。それでも何も言わずに、患者たちは小さく頷く。
足の悪いお年寄りや、小さな子どもを連れて、マリンたちが戻ってくる。荷馬車に全員を乗せ終わると、アンジュは再び馬を歩かせた。
少しずつではあるが、人の波は確実に隣町へと入って行っている。それにホッとしつつ、アンジュは後ろを振り返った。
「良かった、皆もちゃんと付いてきてる」
他の二台の荷馬車を認め、アンジュは大きく息を吐く。そしてどうやら、自分たちが最後尾なのだと気付いた。それと同時に、周囲が暖かい光に包まれた。
「これは! 司祭様の結界?」
「ああ、そうだ間違いない!」
「司祭様! 司祭様!」
辺りが騒然となる。隣町の司祭が、結界の範囲を広げたのだということは、アンジュにもすぐに理解できた。理解すると共に、これ以上先に進む必要もないだろうと、アンジュは荷馬車を停める。
「アンジュ、他の荷馬車の様子を見てくるわ!」
「はい、マリン先輩! お気をつけて!」
周りの喧騒に負けないよう、アンジュは声を張り上げた。そんなアンジュに、遠慮がちに患者の一人が問いかける。
「なあ、看護師の姉ちゃん。医者の先生と年配のおっかない看護師が居ねえみてえだが、置いて来ちまったのかい?」
「え?」
その言葉に、アンジュは耳を疑った。そして後ろの二台の荷馬車へと目を凝らす。
「まさか……」
そこには医院長と婦長の姿はなかった。だが置いて来たわけではない。恐らく二人は、ダンジョンへ向かったのだろうとすぐにアンジュは思い至る。
一年前のあの日も、そうだった。二人は迷うことなくダンジョンに向かってしまった。二人の代わりにと思い立ち、自分たちもダンジョン近くの森まで行ったのだが、それは酷い結末を迎えてしまった。
まるで今朝見た夢が、暗示だったかのように、アンジュには思えた。
「どうして……」
何故、同じ過ちを繰り返すのかと、アンジュは二人に憎悪にも似た感情を抱いた。だがそれは、自身の身勝手な感情だとも理解している。
自分たちの軽率な行動が招いた事態なのだと、アンジュの心は酷く軋んだ。
唇を噛んで俯いたアンジュに、大きな声が投げかけられた。
「アンジュ! 医院長と婦長が居ないの! きっとダンジョンに向かったのだわ! ねえアンジュ! 二人を連れ戻しましょう!」
司祭の結界に祈りを捧げる民の声に負けじと、エレナが声を張り上げる。元貴族のエレナにしては、本当に珍しいことだった。だがそれは、アンジュと同じ結論に至った故のものだった。
怒りなのか、焦りなのか、失望なのか。どれも当て嵌まる感情に、それでも落ち着かなければと、アンジュはエレナを嗜めた。
「待って、エレナ! 私たちまで追いかけて行ったら、あの時の二の舞いになってしまうわ!」
「だから連れ戻すのよ! 二人は徒歩で向かった筈よ! きっとまだ森の中か、森にも辿り着いていないかも! 今ならまだ間に合う!」
必死の形相でアンジュに駆け寄り、手を握って来たエレナに、アンジュは目を瞠る。エレナの瞳には確固たる想いが見て取れたが、その中に恐怖が混じっているように見えたからだ。その証拠に、エレナの手は冷たくそして震えていた。
「分かったわ、エレナ。でも、森の中程まで探して居なかったら、引き返すわよ。それだけは約束して!」
「ええ、ええ。そうしましょう……」
ギュッとアンジュの手を握り、決意よりも恐怖が勝ったのか、エレナの表情が強張った。それでも行くのだろうと、アンジュも覚悟を決める。
馬に乗れるのは、アンジュとエレナしかいなかった。牧場育ちのアンジュは、当然のことながら馬にも乗れる。鞍がなくても。そしてエレナは、いつかは国を追放されるかもしれないと危惧していたせいもあり、乗馬を習っていた。それは逃亡も視野に入れ、鞍がなくても乗れるようにと、随分と無茶な訓練をしていた。
手早く荷馬車から馬を外すと、二人はすぐに馬上の人となる。そのことに気付いたマリンが、二人に向かって声を張り上げた。
「何してるの、アンジュ、エレナ!」
マリンの声に反応し、アンジュが返事を返す。
「先生と婦長を探して来ます!」
「なっ! 待って、アンジュ! 二人は……」
とその時、隣町から兵士が雪崩込んできた。避難してきた町民が、「助かった!」「ありがとう!」と大きな歓声を上げる。
そのせいで、マリンの言葉はアンジュとエレナには届かなかった。
みるみる遠くなっていく二人の姿を見遣り、マリンの顔は青くなる。
二人がどこへ向かったのか、マリンにはすぐに見当がついた。
「すみません、通してください! すみません!」
兵士に助けを求めようと、マリンは必死に人の波を掻き分ける。
一人の兵士の元へ辿り着くと、マリンは形振り構わずに縋った。
「お願いです、助けてください! うちの看護師がダンジョンに向かったみたいなんです! どうか、助けてください!」
マリンの訴えは、周りの人間を黙らせた。そして、困惑が広がっていく。
「どうしてそこまでして、皆を助けようとするんだい? 自分の命まで危険にさらして」
「ああ、そうだよ。親御さんだって、きっと心配する」
「一年前だって、あんたたちはボロボロだったじゃないか」
一年前のあの日のことは、マリンにとっても、トラウマとなって残っている。沢山の兵士を犠牲にして生き延びたことは、重く心に伸し掛かっていた。
青い顔で俯いたマリンは、責められることを覚悟で、頭を下げる。
「お願いです、助けてください」
「話は分かった。すぐに兵を向かわせる」
「あ、ありがとうございます。よろしくお願いします」
泣きそうになりながら、マリンは何度も頭を下げる。
それを見兼ねた兵士は、声をかけた。
「一年前の討伐の時、あんたたちのお陰で、俺の同僚は助かった。本当に感謝してる」
その言葉に、マリンはビクリと肩を震わせた。
そろりと顔を上げると、苦しそうな表情で、マリンは声を振り絞る。
「沢山の人が死にました。あたしたちのせいで……」
言葉を詰まらせたマリンに、兵士が首を傾げる。そしてそれは、周りで事の成行を見守っていた町民たちも同じだった。
「そうなのか? 俺たち軍の方には、殉職者はいなかったと報告が上がっていたが?」
「え? でも、あたしたちを逃がすために、何人かが魔物に襲われるのを見ました。あの人たちはきっと……」
「ああ、なるほど。だが、武闘家は魔導士と同様に闘気で身体を強化したり、生命力を上げることができる。怪我はしただろうが、死んではいない筈だ。それとも、病院に運ばれて死んだ奴がいるのか?」
「いえ! いえ……いません……でした。酷い怪我をした人は沢山いましたけど……」
その時の状況を思い出し、マリンは苦い表情をする。それでも確かに、入院した全員が、完治までとはいかなくても、日常生活に戻れる程に回復し、退院していったのは事実だった。
「実際、あの時あの病院に人員の要請をしたのは軍だ。医師一人と看護師一人を希望した。それなのに、何人かが自主的に森の中で救護に当たってくれたお陰で、死者は一人も出さずにすんだんだ。本当に感謝している」
「ですが、そのせいで…あたしたちを逃がすために……」
「武闘家も剣士も魔導士も、命さえあれば何とか生き延びることが出来る。あの時も魔導部隊が到着するまでの間、あんたたちが頑張ってくれたお陰で誰一人死なずにすんだ」
「魔導部隊……」
マリンはその部隊のことを思い浮かべる。攻撃魔法のみならず、治癒魔法も扱える魔導士たち。千切れた腕さえも再生出来る程の魔力を備えた者さえいると聞く。
だとしたら、とマリンは目を見開いた。
「……本当に、皆助かったの?」
「ああ、あんたたちのお陰だ」
病院内では誰一人、あの時の事を口にする者はいなかった。そしてまたあの時に、アンジュとエレナの同期は全員が退職をした。それ程までに凄惨な出来事だったのだ。
「ああ、良かった……良かった……」
泣き崩れるマリンに、兵士と町民が手を差し伸べる。
だが、この事実を未だ知らないアンジュとエレナは、恐怖を抱えながら、森の入口付近まで辿り着いていた。
「エレナ、ここからは馬では無理よ」
「ええ。歩いて行くしかないのでしょうね」
神妙な面持ちで、アンジュが頷くと、すぐにエレナは馬から降りた。
その躊躇のない行動に、アンジュは震える身体を叱咤して、同じように馬から降りる。
「行くわよ」
エレナの強い意志に引っ張られるように、アンジュも一歩を踏み出した。
森の中は静まりかえっている。虫の声さえ聞こえない。風もないのか、葉の擦れ合う音も聞こえないことに、アンジュとエレナは不気味さを感じた。
「叫んで探すのは、流石に駄目かしら?」
エレナの強張った声に、アンジュは益々恐怖する。
「そうね……得策ではないかも……」
「でも、どこに居るのか分からないし、呼ぶしかないと思うのだけれど」
「ええ、そうかもしれない……でも……」
あの時の恐怖が蘇り、アンジュは否やを唱えようとして、最後まで口に出来なかった。
そんな会話をしていると、森の奥の方から大きな爆発音が聞こえた。
「えっ! 何!」
「大丈夫、ずっと奥の方だから……それに兵の皆さんが戦っているのでしょう。だから平気よ」
驚くアンジュに、エレナが安心させようと言葉を尽くす。だがその甲斐虚しく、バキバキと木々が薙ぎ倒される音がアンジュたちの方へと近づいて来ているのが分かり、エレナの表情がみるみる青くなった。
「そんな! まだ森の入口を入ったばかりなのに!」
確かに、まだほんの少ししか歩いていない。こんなにも人里近くまで魔物が来ていることに、二人は戦慄した。
「逃げるわよ!」
アンジュの手を取り、走り出したエレナは、一年前のことを思い出していた。
あの時、一番後ろを走っていたのはアンジュだった。アンジュは見かけによらず、物凄く足が遅いのだ。それをたった今思い出したエレナは、強く後悔する。
アンジュを連れて来るべきではなかったと。自分一人で来るべきだったと。だがきっと、一人では無理だったかもしれないと、すぐに思い直す。誰かと一緒でなければ、自分も恐怖でここに辿り着くことは出来なかっただろうと。そして馬に乗れるアンジュに頼ってしまった。
甘えがあったのは確かだった。アンジュなら、あの死線を共に潜り抜けたアンジュならば一緒に来てくれるだろうと。自分の浅はかな行動で、アンジュを危険な目に合わせてしまったことを、エレナはとても後悔した。
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