7.誘拐

 それは突然の出来事だった。


「ここ、どこよ?」


 アンジュはゆっくりと身体を起こすと、床に寝ていたことに思い至る。だがその床には白いシーツのような敷物が敷かれ、その上で寝ていたことが伺えた。


「これで気を遣ったつもり?」


 見たことのない部屋で目を覚ましたアンジュは、何故こんなところに居るのかと、記憶を辿る。

 早朝、当番である寮の玄関の掃き掃除をしていた。その後裏の庭に行き、花壇に水をまいていた。そこで記憶が途絶えている。

 特に身体が痛むこともなく、乱暴にここへ連れて来られたわけではなさそうだと、自身の下にある敷物を見て、改めてアンジュはそう思った。


「誘拐ってやつかしら……」


 アンジュの了承を得ていないのだ、拉致監禁は決定的だと結論付ける。

 そして何故、と思った瞬間には、答えが出ていた。

 『貴族のいざこざ』

 そう考えて、アンジュはげんなりとしてしまう。

 そんな思考の渦に呑み込まれていたアンジュの耳に、騒がしい音が届いた。ドタドタと足音が響き、アンジュの部屋へと近づいて来るのが分かる。

 誘拐犯との対面かと、アンジュは身を固くし、固唾を飲み込んだ。


 バンっと勢い良く開けられた扉から入って来たのは、濃紺の髪に少し吊り気味の目をした青年だった。

 身に纏っているのは、魔導部隊の制服であるローブだ。そのローブの胸には、ジェイクと同じ隊長職である刺繍が施されていた。

 軍人である隊長職は、どの部隊でも必ず貴族が務めるのだとエレナから聞いていたアンジュは、それを見て項垂れる。間違いなく、『貴族のいざこざ』だったと。


「起きたか、アンジュ・ベント」

「はい、見ての通り起きています」


 落ち着き払ったアンジュの返答が意外だったのか、青年は目を見開く。


「それで? オールディス様のことで誘拐されたのでしょうか?」


 アンジュとしては、誘拐されて酷い目に遭うという心配はしていなかった。寝かされていた床にシーツを敷く心遣いに、縛られてもいない。怪我もなければ痛むところもないのだから。

 その心配よりも、早く開放してほしいという願望の方が強かった。勤め先の病院は、今現在、満床状態なのだ。仕事は山程ある。こんなところでグズグズしている暇はないと、アンジュはさっさと要件を聞き出したい思いでいっぱいだった。


「いや、ジェイクのことじゃない。エレナ・リドリーのことで相談がある」

「エレナ? 相談?」


 全く予想外の名前が出てきたことに、アンジュは驚くと共に困惑した。何故エレナのことで誘拐されなければならないのかと、疑問を浮かべる。だが『相談』と言われたことに、すぐにその疑問も晴れた。職場でエレナと一番親しいのは自分だ。そしてジェイク・オールディスと『交際』をすることになった自分ならば、間に入ってもらうのに丁度いいと思われたのだろう。

 目の前の青年がジェイクのことを呼び捨てで呼んだ時点で、彼がジェイクの友人で、貴族なのは間違いないと、アンジュは面倒なことに巻き込まれたことに溜息を零した。


「相談ですか。まさか、元貴族のエレナに、結婚を打診するおつもりではないでしょうね?」

「そ、そうだ」


 虚をつかれたように目を瞠った青年に、アンジュはスッと目を眇める。


「結婚相手に苦労していることは、オールディス様から聞きました。ですが、婚約破棄をされたエレナに、貴族である貴方が受け入れられるとは思いません」

「もう、一年以上前の話だろう。いい加減、立ち直っている筈だ」


 貴族特有の上からの物言いに加え、エレナの気持ちなどまるで尊重しないその態度に、アンジュは腸が煮えくり返った。


「なるほど。エレナの感情云々よりも、ご自分の立場を優先されると。そんな自分本位な方に振り回されてきたエレナのことを知っていて尚、そんな言葉が出るのであれば、間違いなくエレナは貴方を拒否するでしょうね」

「ち、違う! 待ってくれ! そうじゃない! 俺は、俺は……」


 勢い良く否定をするが、最後の方は尻窄みになる。言い訳がましい青年の言葉など聞く耳を持たないと、アンジュはさっさと開放するように要求する。


「今現在、病院は満床状態です。貴方も魔導部隊の方ならご存知ですよね。人手はいくらあっても足りないくらい忙しいんです。ですから、早く開放していただきたいのですが」


 淡々とそう告げるアンジュに、青年は何故かうんうんと唸っている。

 何をそんなに苦悩しているのかと、アンジュは訝しげに青年を見遣った。そして青年は、意を決したように拳を握り、声を大にして叫ぶように言った。


「一目惚れだったんだ! エレナは俺が必ず幸せにする!」


 ギュッと目を瞑り、勢い込んで言う青年にアンジュは呆然とする。そしてガックリと項垂れた。


「何なの、この国の貴族は。一目惚れしやすい種族なの? そうなの? そうなのね」


 額に手をやり、疲れたように呟いたアンジュだったが、ここで事態が急変する。


 バタバタと慌ただしく廊下を駆けてくる足音に気付き、誰かが助けに来たのだろうかと、アンジュは開け放たれている扉へと期待の目を向けた。

 だが、部屋に飛び込んで来たのはアンジュの天敵とも言える人物だった。


「ハロルド様! 貴方は何ということを!」

「セバスチャンか。どうした?」

「どうしたではありません! 何故このようなことを!」

「ジェイクに頼んでも会わせてもらえなかったからだ」

「だからといって、このようなこと、許されることではありませんよ!」


 酷く焦った様子のセバスチャンに、アンジュは思わずほくそ笑む。天敵が窮地に立たされたことに、『ざまあ』と心の中で舌を出した、最低な女、アンジュである。


「何を正義ぶっている。誘拐でもなんでもしたら良いと言ったのはお前だろう?」

「違います! そう脅せば良いと言ったのです。誰が本当に誘拐しろだなんて言いますか!」


 そのセバスチャンの言いように、『お前のせいか!』とアンジュの怒りが爆発した。


「なるほどね~。仕える主を裏切るとか、執事として最低ね。よくもまあ、オールディス家もこんなのを雇ってるわね。底が知れるわ」


 ギュッと眉根を寄せたセバスチャンの表情は、アンジュの意に反して、苦しそうなものだった。そのことに、アンジュは戸惑う。だが、自分の置かれた状況を考えると、どうしても許すことが出来なかった。


「今回のことは、平民の権利を行使して、訴えさせていただきます」

「……承知しました……」


 あっさりと頭を下げ、了承するセバスチャンに、アンジュはまた混乱する。あの日、ジェイクの実家で見せた悪態はどうしたのかと訝しむ。いくら主人の意向だからといって、ここまで従順になるのかと、仕事への意識の高さにアンジュは思わず感心した。


 そんな二人のやり取りに、居た堪れなくなったハロルドと呼ばれた青年が間に割って入ってきた。


「すまないと思っている。訴えてもらっても構わない。だがどうか、エレナとの間を、取り持ってはくれないだろうか」

「ハロルド様……」


 眉根を下げてセバスチャンがその名を呼ぶ。何かを言いかけたセバスチャンは、結局言葉にできないまま、口を閉じた。それには構わず、ハロルドがアンジュに頭を下げた。

 それにアンジュは遠い目をする。


「本当に、この国の貴族はどうなってるのよ。平民に簡単に頭を下げないで。心臓に悪いわ」


 アンジュの物言いに、沈黙が降りる。

 とその時、ハロルドの顔色が一気に青褪めた。


「早いな。もう嗅ぎつけたのか」

「まさか、ジェイク様ですか?」

「ああ」


 ハロルドと同様にセバスチャンも顔を青くさせる。そしてアンジュを見遣ると、焦ったように声をかけた。


「アンジュ・ベントさん。ここを出ますよ。さあ、お早く。私に付いてきてください」

「? オールディス様が来たのでしょう? 何故ここを出る必要が?」

「早く出た方がいい。あれは一度箍が外れると、見境がなくなる」


 早口でハロルドがそう言った後、ドオンッと、外から大きな爆発音が聞こえた。

 次いで地響きで建物がガタガタと揺れる。


「なっ、何?」


 後ろにある窓の外を見ようとしてアンジュが立ち上がると、セバスチャンが大声でアンジュを静止する。


「顔を出しては駄目です! さあ、ここを出ますよ! 急いで!」


 切羽詰まったその様子に、アンジュは危機を感じ取る。扉の前でセバスチャンがアンジュに向けて手を伸ばした。それに促され、アンジュは扉へと一歩を踏み出した。だが、ハロルドがその場から動こうとしないことに気付き、声を張り上げた。


「何してるの! 行くわよ!」

「俺は大丈夫だ。早く行け」


 落ち着いた様子でアンジュに逃げるよう促すと、ハロルドはバッと窓に向かって駆け出した。


「ちょっと! ここ一階じゃないわよ!」


 窓の景色から、明らかに二階以上だと分かり、アンジュは慌てて止めに入ろうとした。だがそれよりも早く窓から飛び降りたハロルドに、アンジュは心臓が止まりそうになる。


「セバスさん! さっきの人が窓から落ちたわ! 応急処置をしないと!」


 既に廊下に出ていセバスチャンに、アンジュが叫ぶ。セバスチャンという長い名前を呼ぶのも面倒だと、適当に短く呼んだ。


「ハロルド様は大丈夫です! それよりも早く外へ!」


 大丈夫なわけないでしょう!と思いながら、急いでハロルドのもとへ行かなければと、アンジュは駆け出した。だがアンジュは足が遅い。とても遅い。そのせいか、外へ出てすぐにハロルドの姿を探すも、窓の下にはいなかった。


「なっ! どこへ?」


 足が折れているかもしれないのに、無理に歩いて悪化したら大変だと、アンジュは辺りを見回した。

 そんな中、二度目の爆発音が響く。


「きゃっ!」


 その場で頭を抱えてアンジュが蹲ると、腕を掴まれ、強引に引き上げられた。


「こっちです! 早く!」


 そう言って、バシャバシャと川に入っていくセバスチャンに、アンジュは訳が分からずただされるがままに川へと入っていく。

 少し奥まで川を歩き、大きめの岩の陰に身を隠す。首まで水に浸かるように言われ、アンジュは素直にそれに従った。本当ならば強く拒否をするところだが、顔面蒼白で、震え上がっているセバスチャンを見遣り、その気持ちは吹き飛んだ。

 大の大人の男性がここまで震え上がるのだ。まさか魔物が?とアンジュの脳裏に一年前の光景が蘇る。


 病院近くのダンジョンで、魔物暴走(スタンピード)を起こす予兆があったあの時、討伐隊が組まれ、アンジュの勤める病院にも応援要請があった。

 アンジュたちは独断でダンジョン近くまで行き、賢明に応急手当をしていた。

 結局魔物が溢れ、自分たちも逃げ出したのだが、その際に囮になった何人もの兵士が亡くなった。

 そのことを鮮明に思い出し、アンジュは唇を噛んむ。自分たちを逃がすために囮になったのだ。亡くなった兵士たちに申し訳ない想いが迫り上がり、ぎゅっとアンジュは胸を抑えるように拳を押し当てた。


 その時、ドオンッという音と共に、森の木々が吹き飛んだ。と同時に、ハロルド目掛けて何かが飛んで来る。それが巨大な大木だと認識すると、アンジュは恐怖から堪らず目を伏せる。


「ハロルドーーーー!」


 だが次いで聞こえてきた怒気を含んだその声に、バッと顔を上げた。

 そしてその声の主を見遣り、首を傾げる。


「オールディス様?」


 轟音と共に現れた人物に、アンジュは先程ジェイクが来たと言っていたことを思い出す。そして理解する。森を破壊しながらこちらへ向かって来ていたのは、魔物ではなく、ジェイクだったのだと。


「貴様、ベントさんをどこへやった!」

「安心しろ。傷一つつけてはいない」

「当然だ! 傷など付けてみろ、お前を嬲り殺してやる!」


 目の前で言い合いを始めた二人に、アンジュはドン引いた。内容が余りにも物騒すぎて、「あれ? 二人って友人じゃなかったの?」とアンジュはセバスチャンに問いかけた程だ。


「二人は幼馴染みです。仲はとても良いですよ。まるで兄弟のように」


 震えながら、俄には信じられないことを言うセバスチャンに、アンジュは益々首を傾げた。

 もう一度、喧嘩中の二人に目を戻すと、ジェイクが『闘気』を練っていた。そしてそのまま拳を地面に叩きつけると、闘気の塊がハロルドに一直線に向かっていく。ほんの一瞬の出来事ではあったが、その闘気をハロルドもまた闘気で弾くと、先程までいた建物に当たり、その建物は木っ端微塵に吹き飛んだ。


「……」


 アンジュは絶句した。あの建物は、煉瓦作りの中々に頑丈そうな建物だったのだ。それが霧散した闘気が当っただけで粉々になったことがたった今自分の目で見たばかりだが、信じられなかった。

 余りにもあり得ない光景に、アンジュは声も出せない。だがそんな驚きなど吹き飛ばすように、二人が戦闘を始めてしまう。何度も繰り出される二人の闘気に、辺りは木や建物の残骸、そして地面が抉れて酷い有様になっていた。

 その光景を見て、何故逃げなければならなかったのかを漸く理解したアンジュは、セバスチャンに礼を言う。


「ありがとうございます。あそこに居たら、死んでたかも……」


 青い顔でコクリと頷いたセバスチャンに、アンジュは助かったという実感が湧いたせいか、心に余裕が生まれた。 

 そして思わず疑問を口にする。


「オールディス様も、ハロルド様も魔導士なのよね? 何で武闘家が使う『闘気』で戦ってるの?」

「二人の父親が、共に武闘家だからです」

「父親が武闘家だから『闘気』が使えるのね。でも何で魔術じゃなくて闘気で戦ってるの?」


 セバスチャンが険しい表情で口を噤む。それを不思議に思いながらも、二人の会話が急に大きくなり、意識がそちらへと向いた。


「謝ってるだろう!」

「謝って済む問題じゃない!」

「だったら素直に俺に会わせれば良かったんだ!」

「誰が会わせるか!」

「俺だってエレナに会いたいんだ! お前も恋をしたって言うのなら、俺の気持ちも分かるだろう!」


 その言葉を聞いた途端、ジェイクの闘気がみるみる萎んでいく。


「それは……」

「もう、ずっと会えていないんだ。ずっとだ」


 血を吐くように紡がれた言葉に、ジェイクが息を呑む。


「すまない……」


 二人で俯いて、それきり何も話さなくなったところを見遣り、アンジュがセバスチャンにそっと尋ねる。


「終わったのかしら」

「恐らくは」


 二人の様子をジッと見つめ、アンジュは大きな溜息を吐き出した。


「私、今日は本当に忙しい日だったのよ」

「ハロルド様が、すみません」


 小さくアンジュが呟くと、セバスチャンが申し訳無さそうに謝った。


「まだまだ私は新米で、先輩方にどれだけ迷惑をかけるか、あのお坊ちゃんは分かっているのかしらね」

「面目ないです」

「一番迷惑を被るのはエレナなのよ。あの子は責任感が強いから、同期である私の仕事を、進んでやろうとする筈だわ」


 ザバリと川から身体を引き上げると、アンジュは二人に向かってずんずんと歩いて行く。その後ろからセバスチャンが驚いたように、アンジュに静止の声をかけた。


「まだ駄目です!」

「何が駄目なのよ! いつまでもこんなところに居られないのよ!」


 先程の恐怖はどこへやら、アンジュは今、自分の置かれている現状にはたと気づき、声を荒げる。早く仕事に行かなければと、ここがどこだか分からないが、二人に聞くのが手っ取り早いと、その歩みを止めずに近づいた。


「ベントさん! ご無事で!」


 アンジュの姿を見た途端、ぱああと顔を輝かせたジェイクに、アンジュはジトッとした目を向けた。そんなアンジュの目など気にしていないのか、ジェイクが驚いたように、声を上げる。


「べ、ベントさん! びしょ濡れじゃないですか!」


 自分の着ていたローブを急いで脱ぎ、アンジュの身体へ優しくかける。

 ワタワタしているジェイクに、アンジュは驚きの表情を見せた。それはジェイクの身体を見たせいだ。

 ローブの下に着ていたのはごく普通の白のシャツだ。そのシャツの上からでも分かるほどに、筋肉のついた身体が目に入る。


『あれ? 彼って魔導士よね? 闘気も使えるけど、本職は魔導士よね? なのになんで? 身体が凄すぎるんだけど?』


 実際、入院している魔導士たちは、身体強化が使えることもあり、体型はごく一般的で中肉中背だ。それなのに、闘気が使えるからといっても、武闘家以上に筋肉のついたジェイクの身体に目を瞠る。そして徐に、アンジュはジェイクの顔へと目を向けた。そのかんばせは目がクリッと大きく、とても可愛らしい。身体と顔のギャップの凄さにアンジュは思わず赤面する。

 この世界は魔物も多く出る。文明もそこまで発達していない。そのせいか、男は力仕事が多く、こういった逞しい男はモテるのだ。そしてアンジュも前世の記憶があっても、心と身体は現地産だ。そのため、否応なくそのギャップにときめいた。

 『これがギャップ萌ってやつ?』と、驚くほどにときめいている自分に困惑しつつ、ローブを貸してくれたお礼がまだだと気づき、慌てて口を開いた。


「ローブをありがとうございます。しかも、濡らしてしまって……」

「い、いえ! お気になさらず!」


 顔を真っ赤にして礼を言うアンジュに、負けじとジェイクも赤面する。

 何度も言おう。アンジュは顔が良いのだ。そんなアンジュが頬を染めて礼を言えば、惚れている男などいちころだ。

そんな二人を見遣り、ハロルドが呆れたように割って入った。


「ジェイク、お前、その女のことになると途端にポンコツになるな。濡れたままだと風邪をひく。乾かしてやったらどうだ?」


 その言葉にジェイクはハッとして、すぐに魔法をアンジュにかける。

 刹那、アンジュの服と身体が乾き、ジェイクが申し訳無さそうに謝った。


「すみません。気が利かず……」

「い、いえ……」


 その行動にアンジュは固まった。魔法ってこんなことも出来るのかと思う反面、こんなことに使っちゃ駄目でしょうと、魔導士が如何に貴重な存在かを思い出す。

 この世界の人間はほぼ全員が魔法を使える。しかも、地水風炎氷光闇聖と、全属性全てだ。だが魔力量の問題で、殆どの人間は生活に使える程度しか魔法を使えない。

 だから魔物と戦える程の魔力量を誇る魔導士は極少数で、そしてその魔導士の扱う魔法もまた貴重なのだ。

 そんな稀有な魔導士による魔法を施され、アンジュは堪らず恐縮する。だが次のジェイクの一言で、アンジュの表情が抜け落ちた。


「でもどうしてびしょ濡れに? それにセバスチャンも。何かあったのですか?」


『あんたのせいでしょうが!』と心の中でアンジュは盛大に悪態を付くが、何とか声に出さずに堪えた。


「危険を感じましたので、川に入りました。破片などが飛んで来ても、川に潜れば『多少』は水がクッションになりますので」


 セバスチャンが淡々と告げるも、『多少』を強調したことに、アンジュも心の中で大きく頷く。先程の戦闘を見る限り、こちら側に闘気や瓦礫が飛んで来たならば、水の抵抗など意味を成さないことは明白だった。それでも、防御が出来ない以上、川に入るのが最善の策だったのだろうと、アンジュはセバスチャンの判断にとにかく感謝した。


「ああ……すみません」


 しゅんと肩を落とし謝ったジェイクに、アンジュの怒りも霧散する。一応助けに来てくれたみたいだし、と思いながらも、そんなに簡単に頭を下げるなと心の中で絶叫していた。


「俺もすまないと思っている」


 場の雰囲気を読んだのか、ハロルドも素直に謝った。


「ええ、それはさっきも聞きましたから、もう謝罪は結構です。そして、謝罪を受け入れます」


 これ以上頭を下げられては敵わないと、アンジュが謝罪を受け入れると、その場の三人が顔を見合わせた。そしてハロルドが疑問を口にする。


「貴方は本当に、平民なのか?」

「は? 平民ですけど?」


 なにを当たり前のことを、とアンジュは眉間に皺を寄せる。


「そうか」


 『謝罪を受け入れる』という言葉を、平民が使うなどおよそないだろうと、ハロルドは訝しげにアンジュを見遣る。それはセバスチャンも同様で。ジェイクだけが場違いにも誇らしげにアンジュを見つめていた。


「さて、少し質問をさせて頂いてもいいでしょうか?」


 眉間に皺を寄せたまま、アンジュがハロルドに向かい合う。

 謝罪を受け入れてもらったとはいえ、気不味い思いもあるハロルドは、素直に頷いた。


「ああ、何だ」

「エレナとはどこで知り合ったのですか?」

「彼女が亡命をして来た時だ。一応、護衛として呼ばれた。複雑な事情だったからな。追手が来る可能性もあったし」

「なるほど、そこで一目惚れを?」

「ああ」

「では、エレナのどこに惹かれましたか?」


 その質問をした途端、ハロルドの頬が朱に染まる。

 それを見たアンジュは、一目惚れが嘘ではないことを確信した。


「真面目なところだ」

「他には?」

「努力家で、困難を乗り越える強い意志を持っているところだ。そんな彼女を支えたいと思っている」


 顔を赤くしながらも、しっかりと言い切ったハロルドに、アンジュは小さく息を吐き出した。


「そうですか。良かったです。エレナのこと、ちゃんと分かっていて好きになったのですね。でしたら、もう応援するしかないですね」

「えっ! それじゃあ」


 前のめりになるハロルドを、アンジュはすぐに手で制す。

 

「間には入りますが、エレナの気持ち次第です。それによっては、会えない可能性もあります」

「それは勿論だ。だが、きっと会うだけなら大丈夫だと思う」

「随分、自信がお有りですね」


 ここで、静かに聞いていたジェイクが話に割って入ってきた。


「彼女が病院で働き出してすぐに、ハロルドはわざと怪我をして入院をしたのです。その時に、良い関係を築けたみたいですよ」


 ニヤニヤと笑うジェイクを他所に、アンジュは気になる言葉を見つけ、首を傾げた。


「わざと怪我を?」


 ここで今度はセバスチャンが会話に加わる。


「はい。ジェイク様とハロルド様は、魔力量が高いせいで、怪我をしても自己回復力が早く、ジェイク様に腹に穴を開けてもらいましたが、一瞬で塞がってしまうので、苦労していましたね」

「ああ、最終的には、俺自身が傷口に腕を突っ込んで、何とか入院にまでこぎつけた」


 その話を聞き、アンジュは顔を顰める。普通、そこまでする?と、アンジュはドン引きしていた。そんなこととは露知らず、アンジュのその表情に、勘違いをしたセバスチャンが慌てて言葉を付け足す。


「病院側の負担もしっかりと考慮して、入院患者が少ない時に、計画的に実行しました。入院も二日と短い期間でしたし」


 先程のアンジュの『忙しい』という発言を受け、セバスチャンはハロルドの印象をこれ以上悪化させないために、必死に弁解をした。それが功を奏したわけではなかったが、アンジュの表情が和らいだ。それにホッと息を吐き出したセバスチャンに、今度はジェイクの表情が険しくなる。ジトッとした目でセバスチャンを見遣るジェイクに、アンジュはまた顔を顰めた。


「オールディス様。私を助けに来て下さったことには感謝します。ですが、あなたも少しは反省してくださいね」

「えっ!」

「森をこんなに破壊して……。木が資源だということは勿論ご存知ですよね? それに動物たちの住処も奪ったことになるんですよ」

「うう……すみません」


 辺りをグルリと見渡して、ジェイクがガクリと頭を落とす。

 そんなやり取りの中、セバスチャンが関心したようにボソリと呟いた。


「猛獣使い、現る」

「は? 猛獣?」


 小さな声ではあったが、アンジュはしっかりとその呟きを拾う。アンジュは地獄耳なのだ。


「いえ、こちらの話です」


 セバスチャンが焦ったように誤魔化す。それでも、ハロルドが思わず同意するように頷いているのを見て、益々猛獣って何?と疑問を浮かべた。そしてジェイクへと顔を向ける。何故か、ジェイクは嬉しそうにモジモジとしていた。

 訳が分からず、首を傾げるも、今はそれどころではないと、アンジュは漸く目的を思い出した。


「はあ……。とにかく、私は仕事に行きます。きっと皆、忙しい思いをしているわ」

「ああ、それならば問題ない。王都の病院から看護師の応援を頼んである」

「え?」

「案外、彼女たちが来てくれた方が助かると、喜んでいるかもしれないな」


 真顔でそう言ったハロルドに、アンジュの顔が引き攣った。


「ベントさん。ハロルド様は良かれと思って応援を呼んだのだと思います。それと、今の発言は全く悪気はないのです。ただそう思ったことを述べただけですので、どうかお気になさらずに」


 ハロルドの印象が一気に悪くなったであろう言葉に、セバスチャンは必死に言い募る。だが悪気は一切ないと言われても、アンジュのプライドはズタズタだ。


「ふんっ! 悪かったわね! どうせ私は半人前よ!」


 そのアンジュの台詞に、ハロルドが顔を青くした。

 アンジュの機嫌を損ねて、エレナと会えなくなるのは困ると、慌てて謝罪の言葉を投げる。


「す、すまない。俺はいつもこうなのだ。何故か相手を怒らせてしまう。言葉には気をつけるように言われているのだが、如何せん、無意識で……」

「尚、質が悪いわ!」

「すまない」


 そんなこんなでアンジュは漸く病院へと辿り着く。そしてハロルドの言った通りになっていた。


「まあ、アンジュ。今日は臨時でお休みしたんでしょう? 明日も休んでいいわよ」

「あら、アンジュ。あんたが来ない代わりに、王都から応援が来てるのよ。すごい助かってるから明日も休んだら?」

「あれ、アンジュ。辞めたんじゃなかったの?」


 酷い言われようにアンジュの心が折れそうになったのは言うまでもない。



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