トラディーからの旅立ち

第一章 全勝と任務

 快晴の初夏、南半球のどこかにあるこの島国は、肌寒い空気に包まれる。


 まだまだ未文明の島国、ここアウスリアには、まだ電気やガスはなく、車も銃火器もない。北には砂漠が広がっているといい、南は氷地だという。


 だという、と伝聞調子なところから、この島の東海岸に位置する、首都、と言うべきなのか、中心となる城や城下町のあるこの町、トラディーに、この国の各所の地理情報さえ集まっていないことが分かる。町として、国として、まだまだ未成熟であった。


 そんな初夏のある日、それはサーヤにとっては人生をかけた実技試験日だった。おまけに今は、最終試験の、さらに最終戦の直前だった。


「なぁ、辞退してくれよ」


 彼女の将来を決定づける決戦会場である城の大広間、そこに通じる廊下で待機中の対戦相手である彼は、二人きりになったときにそうこっそりとサーヤに言った。


「わたし、四勝しているんだけど。なんでリタイアしなきゃいけないの」

「分かっているだろ、わざわざ言わなくても。女が採用されるわけがないってことくらい。

 俺はまだ勝ってないんだ、頼むよ」

「勝てばいいだろ、みっともない」


 サーヤは目も合わせずに、肩甲骨を寄せるように胸を張って体を伸ばしている。さすがに四試合を経ると、少し体が重くなってきたな、と、肩もグルンと回した。


「あのさぁ、お前の試合は見てないけどさ、俺とお前はやり合って、疲弊して、お互い怪我もして、その結果、お前は絶対に採用されないなんて、馬鹿馬鹿しいだろう。

 賢くいこうぜ。絶対無理なんだから」

「ごちゃごちゃうるさいな。五勝して落とされたら、じゃあなんでそもそも軍学校に入学していいんだ、おかしいだろう、ってなるだろう。とにかくあと一勝する。それで隊員になる。

 百人が百人無理って言うなら、百一人目になってやる」


 生意気だな、と言いたげな彼に向かって、サーヤは人差し指を向けて、さらにたたみかけた。


「登用されるかどうかも大事だけど、今ので気が変わった。わたしをバカにするなら、絶対にあんたには勝つ。五勝目、いただきます」


 そう啖呵を切ったそのとき、大広間につづく扉の向こうで悲鳴が響いた。


 サーヤたちのもとに係員が出てきて、今の試合で、模擬刀とはいえ、当たり所が悪かったか頭を切ってしまい、治療に時間がかかると説明した。医者も通るから少し別の場所へ、と促された。


 十分くらいの中断かな、と、サーヤは廊下をぶらぶらと歩いた。少し言い合って熱くなってしまったので、熱を冷ますには丁度いいや、と、深く長く息を吐いた。


 先日給仕の服で歩いた廊下を、今日は軍学校の戦闘服通りのファッションで進んだ。軽微とは言え、全身に鎧をまとっている。男と同じ戦闘服を着ていても、長いまつ毛や、細い曲線を描く首筋から、やはり一人の少女に見えてしまう。


 ふと立ち止まったサーヤは、おや、見覚えのある廊下だな、と首をひねった。そして思い出した。一週間前にも通ったところじゃないか、と合点がいった。


 そうそう、この細い通路に、偽団員がいて、と、そっと通路を覗き込んだ。


「また、お前か」


 低い、聞き覚えのある声と共に、身構える前のサーヤは後ろから蹴飛ばされた。


 ◆


 不意の出来事だったけど、なんとか前回りで受け身をとれた。クルンと回りながら、足を床について、バランスをとるころには模擬刀を抜刀できていた。


「この前の、偽団員」

「いい蹴りだったぜ、この前は。今の俺の蹴りの数倍はな」


 そう言いながらも、彼は短いソードを抜いた。刀身はわたしのものとあまり変わらなさそうだが、模擬刀と真剣とでは、明らかに分が悪い。


 こいつは、先週、ジョルド様が連れて行った偽団員だ。そこから脱走してきたのだろうか。たしかに、一週間前よりもやつれている。


 つま先が浮いたと思うと、勢いよく飛びかかってきた。でも、かわせないスピードじゃない。縦に勢いよく振られた斬撃を、なんとか身をよじってかわして、


「偽団員! 偽団員! 誰か!」


 と大きく叫んだ。ここは城中だ。警備なんてどこにでもいる。


「心配するなよ。ジョルドコーストだったか、すぐに俺を探してやってくるさ。

 それでも、逃げ切るくらいは簡単さ。お前を殺したあとでも、な」


 あの日のわたしの蹴りを、相当根に持っているのだ。


 でも同時に、彼は相当弱っている。一撃だけでも与えられれば、その隙をついて逃げられる。そのうちに、誰かが助けに来るだろう。


 せめてこれが真剣だったら。いや、仮定の話は、お昼間にすることじゃない、寝る前の妄想タイムで十分だ。今持ち合わせているもので、目に入るものでこの場を乗り切る。


「さーて、復讐はじっくり時間をかけるのが最高なんだが、いつ見張りが来るか分からんからな。

 短期戦のコツを教えてやるよ。明確な殺意だ。」


 そう言いながらも、ソードを何度も握りなおして、なかなか飛び掛かってこない。彼も相当疲弊しているのだ。


 この一週間、いったいどんな拷問や仕打ちを受けたのだろうか。でも、彼は偽団員だ。情けはかけられない。右手に力を入れた。模擬刀の柄がギリギリと小さな音を立てた。


 ぶっ倒すための一撃じゃなくていいんだ。隙をつくる一撃でいい。


 今はわたしの方が早く動ける。素早くしゃがんで、通路の赤い絨毯をつかんで引っ張り上げた。


「絨毯を引っ張ってよろめかせようっていうのか? なめるなよ、馬鹿力女!」


 偽団員は軽くジャンプしてしまった。それで良い。べつに足元を不安定にさせようっていうのが目的じゃないから。


「将来が決まるってときに、邪魔をするな!」


 引っ張り上げた絨毯を両手で絞るように握りしめて、うぉりゃあ! とぶん回して、ロープのようにして、しならせながら彼の脇腹に叩きつけた。この前の蹴りもそうだが、予想していない攻撃というのは、たとえ格上の相手にでも、一発は入る。


 長い絨毯伝いではあるけど、脇の骨がきしんだ感覚がはっきり手に伝わった。彼は血まじりのつばを吐きながら、廊下の壁に叩きつけられた。


「またか! 一度ならず二度も、うっとうしい! これくらいで!」


 彼は勢いよく立ち上がったけど、弱り切っていた体には十分な一撃だったようで、その場に倒れこんでくれた。わたしも息が上がっている。


「明確な殺意、だったっけ? 殺意なんて安売りできない。あんたなんか、怒りで十分」


 通路から廊下にでて、左右を見渡した。誰もいないが、大広間に向かって走ると、係の人がまだいた。


「すみません、あっちに、偽団員が」

「あぁ、サーヤさん、ですか。どこに行っていたんですか。不戦敗ですよ」

「不戦敗! え?」


 不戦敗どころか、今まさに戦ってきたわたしに、係員はまったく訳のわからないことを口にした。


 ◆


「ああー! くそっ!」


 控え室に入ったサーヤは思い切り壁を殴った。壁にはヒビが入った。無駄な一敗をした、と、彼女の十六年の人生で一番の後悔をした。


 四勝一敗は、合格ラインとしては十分だ。二勝で指名されることは珍しくなく、一方で四勝で指名されないことは前例がない。なのに、試合放棄、という印象が悪いと言われれば反論は難しい。ムダな不合格の理由ができてしまったことにいら立っていた。


 噂はサーヤも耳にしていた。女性隊員を採用するとなると、宿舎も、規律も変えなければならないから、採用するコストに見合わない、という話はあった。だがそれも、全勝すれば話は変わると思っていた。


 五勝まで、あと一歩だった。


「男に生まれていたら、四勝でも絶対に隊員になれていたのに」


 そんなもしもの話は無意味だとサーヤは十分に分かっていたが、それでも考えてしまう。


「誰を恨めば? 父さん? 母さん? 絶対に違う。この国? 少し違う気がする。

 あのギダンインだ。あいつがいなければ、絶対に受かっていた。あの野郎。くそ野郎」


 結局その日、城の中庭を出るまでに、サーヤに指名が入ることはなかった。明日には今回の試験による入隊は締め切れられるので、これで終わりだ。試験はまた来年だ。


 軍学校の同期もサーヤを励ました。それでも、みな心の中では、


「全勝していても、女が合格になることはなかっただろうなぁ」


 と、哀れんでいた。誰もが、彼女の合格を信じていなかった。


 サーヤが城を出るころ、彼女が殴った壁のヒビは、崩れ落ちて穴になっていた。それを見れば、もう少しサーヤの評価は変わったかもしれない。


 寄り道をする元気もなく、サーヤはまっすぐ家路についた。


 あきらめて給仕を目指そうか、いや、稼ぎは少し落ちるだろうが、商店街で働く方が息苦しくないかもしれない、父さんと母さんを少しでも楽にさせられるなら、そのどちらでもいい、と、考え事をたくさんしても、まだ家に着かないくらいには、サーヤの家は町の端っこにあった。


 商店街をやっと抜けるころ、彼女の背後から車輪の音が近づいてきた。商店街も端に差し掛かると、石畳の舗装はなくなり、砂利道になる。ガタガタと左右に揺れる車室は、あまり上等なものではない。


「ベル・サーヤくんだね」


 布で顔を隠した男がそう呼びかけ、中に入るようサーヤを促した。もしかして急遽入隊が決まったのか、とサーヤは小躍りして中に入った。


 外装とは裏腹に、室内は華美なものだった。眩しいランプが室内を必要以上に真っ白に照らして、陶器のように光沢のある壁面に反射した。座椅子はサーヤのお尻一つぶん沈み込むほど柔らかく、そして反発して体がふわりと浮くほど弾力があった。


 上等な車室には、サーヤと、顔をかくした男との二人きりだった。彼がスルスルと布を外すと、それは、この国で一番の有名人、そして権力者であった。


「シャドニー王!」

「うん、声量を抑えて」


 国の行事のたびに、城の一番高い展望室から手を振っている、あのシャドニー王だ。


 いったいなぜ? わたしの入隊は、王様が登場するほどのイレギュラーな採用なのか? とサーヤは不審がった。若く、まだ三十五歳の王は、サーヤが予想していないことを話し始めた。


「西の古城、プレインコースト城を知っているか?」


 何か、隠密の話をされる、とサーヤは身構えた。


 入隊前で正式に情報がまわっておらず、唯一、男子寮に入れずに実家に住んでいたこともあり、彼女へ情報を漏らしても機密性は高い。わたしの入隊の話ではないな、でも、相当シークレットな話なのは確かだ、と、サーヤは姿勢を改めて正した。


 ただ、家族を楽にさせるために、たくさん稼げる隊員になりたかっただけのサーヤは、今、この国が転覆する危機を救う役目を、この突然現れた王に託されようとしている。


 そしてその役目を聞かされることで、この島で起きている、あるいは埋伏している、洗いざらいすべての事象に、サーヤは出会う運命となってしまう。


「そこにいる、私の妻と娘を、連れ戻してほしい」


 古城へ、王妃と王女を? 膝に添えていた両手の力が抜けて、その代わり肩にさらに力が入ったサーヤは、えっと、えっと、と、ちゃんとした言葉が出てこない。


「連れ戻す、って、お二人はお城にいるのでは?」

「メルボネに、誘拐されたんだよ」 


 唐突なこのシャドニー王の任務の説明をするために、少しだけ、この国の軍事組織の話をしなければならない。


 国軍は、王・シャドニーの下で運営されるとはいえ、当然だが王はその軍隊の現場や詳細は把握していない。


 そんな中で、現場から叩き上げた荒くれの十人の団長からの信頼を得るためには、厚待遇の師団長の存在が不可欠だ。その待遇に恩を返すように、師団長は王の意向をくみとり、ごろつきの団長たちを統べる、というのが、この国の理想的な形だ。


 王と師団長とはまさにパートナーとも言えた。師団長メルボネは前王の下、この町トラディーの守護をやり抜き通した。誰もが、次の王になってもメルボネは歴任すると思っていた。


 それだけに、この度世襲した王、シャドニーの人事は、国を、いや城や軍学校を騒がせそうになった。


 そもそも、メルボネとシャドニーとの馬が合うはずがなかった。


 メルボネは、このトラディーの繁栄さえ守れば、この島全体のことなんてどうでも良かった。国軍とは言っているが、実質としては城下町であるトラディーがトラディーだけを守る、あるいはそのちょっぴり周辺の地域を守るための軍と言う方が正確だった。


 一週間前、サーヤが城の外を眺めていたが、その時に見えた北の砂漠、西の平原、そのどちらも、ここトラディーには情報がない。当然、地図もない。メルボネが師団長である限り、積極的にこの島の地理を把握することはあり得ないだろう。


 一方で新しい王シャドニーは、地図作りをはじめ、この島全体の統治を進めようという姿勢を示した。偽団員騒ぎは王の耳にも届いており、島全体の治安維持が喫緊の課題だ、と掲げるシャドニー王とメルボネとは、当然理解しあえるわけもなく、平行線をたどっていた。


 そして、二人の仲を完全に分かつ政策を、シャドニーは考えた。師団長の世襲制を廃止にしようとしたのだ。


 そして、団長の一人、アヌボットを師団長に任命しようとしていたのだ。それも、研究所上がりのミラウにも、副師団長という新たなポストを与えようとしていた。


 その人事を先に唯一知ったメルボネは面白くなく、アヌボットとミラウに、隊員を一人もあてがわずに、北と南、それぞれ最酷地に単身で任務をあてた。左遷だ。


 事情を知らなくとも、あまりに、何かしらの怨恨によるものと分かりきった左遷だったため、他の団長もさすがに賛成する者はいなかったが、先王の覚えもめでたいメルボネに反抗するのは得策ではなかった。


 さらに、シャドニーの家族、つまり王妃と王女は、人質のように西の古城に送還された。今やこの国の世継ぎがメルボネの手中にあると言っても過言ではなかった。


 あまりに徹底的な采配に、軍学校ではもっぱら、この国が王派と師団長派とで二分されるのではないか、と危惧されていた。この日の登用試験を無事開催しきれたのが奇跡とも言えるほど、軍組織は動揺していた。


 ◆


 目の前に座る王様は、ご自身の置かれた状況をざっと説明された。どこまで信じていいのかは分からないけど、家族を人質にとられているのが事実なら、それを材料に、王様は退任を迫られるのだろうか。退任、というのは、命を奪われるということだろうか。


「アヌボット様を師団長に任命しようとしたのは、旧体制にメスをいれたい、というようなことですか」

「きみの頼みでも、あまり多くは語れないが。

 国の地図さえ完成していないのは、果たして国を統治していると言えるのだろうか。

 北の八一砂漠を抜けたら見えるという、絶景の岬を知っているか?

 西の平原の先に見える山脈からは、このトラディーはどう見えるか知っているか?

 南の氷地を抜けた先に何があるのか知っているか?」


 トラディーの中だけで、これまでの十六年の人生は完結していた。でも、王様の頭の中では、この島全体を、より広い世界を見ているのだ。


「このトラディーには、この島のことをまだまだ伝聞でしか知り得ないという、中央政権とは思えない情報力の弱さがある。メルボネが師団長のままでは、この方針はずっと変わらないだろう」

「アヌボット様なら、変わるんですか?」

「必ず変わる。多くは語れないがね」


 多くを語らないのはいいけれど、重要なところを少し語らなさすぎる気がする。


「アヌボットとミラウは、必ず生きているはずだ。そして事情を話せば、きみの味方になってくれるだろう。決して遠回りする必要はないが、もし出会えば、わたしの名前を出せばいい。

 どんなリスクを負ってでも、改革は断行しなければならない。しかし、後継ぎの娘をメルボネ側に管理されていては、いざというときに私が殺され、幼い娘を利用した傀儡政権を樹立させられる危険がある。なんとか、家族を解放する。改革は、それからだ」


 そう言うと、王様は懐から封筒を差し出された。


「西の古城では、団長のパディントンが警備にあたっている。その封筒の中身は、警備任務の終了と、トラディーへの護送命令だ。それさえ彼に渡れば、わたしは自由に動ける。

 期限は一か月だ。ゆっくり歩いても、十分に間に合うだろう」


 淡々と話す王様だ。地図もないのに、一か月で十分ってどういうことでしょう? とはとても聞けなかった。命令を断れば、次はわたしの家族も危ないだろう。断るという選択肢はない。


「これは、わたしが、そうした政治に巻き込まれるという危険はないでしょうか」

「ない。断言するよ。多くは語れないがね」


 根拠がなさすぎる。もし、この王様と同じことを友人が言っても、絶対に信用しない。でも、この言葉は信用するとかしないとかではなく、従うしかないのだろう。


「成功すれば、きみの隊員登用も、なんとかなるだろう」


 ここまでは消極的な理由だったので、その一言は、十分すぎる見返りだった。


「恐れ入ります! わかりました! 引き受けさせていただきます。何人での任務でしょうか」

「一人だ」


 そして不十分すぎる回答だった。


「一人、って、わたしだけ、ですか?」

「悪いとは思っている。だが君も知っての通り、わたしに直轄の軍隊はいないから、君につける者はいない」


 下を向きながらそう話す王様に、この落胆をそのまま伝えるほどわたしは世間知らずではない。そして、今さら断るということも当然できない。


 それでも、次になんと言っていいか、言葉がみつからない。そうして黙っていると、先に王様から口を開かれた。


「いや、でも、そうだな。

 うん、分かった。わたしの身はわたしが守る。段取りがつけば、一人、つけられるかもしれない」

「本当ですか! その方というのは」

「多くは語れないよ」


 あまり長く外に出ていると怪しまれるから、と、話はそこで切り上げられた。これが資金だ、と渡された革袋は、片手ではとても持てないほど重く、中から金属がすれる音が聞こえる。これは大金だ、と中身を確認しようとしたものの、先に馬車から降ろされてしまった。


 ガラガラと未舗装の道を戻っていくのを見送った。馬車が去る通りの先に、夕日が沈もうとしている。今日という一日は一生忘れられないのだろうな、と思った。


 厄介な政治に巻き込まれないなら。そして、王様の支援の下、この美しい大地を旅できるというなら、さらに、無事成功すれば隊員になれるというなら。前向きになれる仕事だ。封筒を握りしめて、革袋を抱えて、駆けるように家に戻った。


「ただいま!」

「おかえり、元気だね。合格したの?」


 ううん、と言うと、一瞬、ほんの一瞬だけ、母さんがほっとした顔をした。そしてすぐに、


「頑張ったじゃない。えぇ、四勝もしたの? すごいことなんでしょう。一生、誇ればいいじゃない」


 と、全身で力強く抱いてくれた。


 あの顔は、わたしが隊員になることを、心からは望んでいなかったのだろう。少しの稼ぎだけで、この家はおそらく助かる。命の危機に身を置くリスクを冒してまで大金を稼ごうとしていたわたしのことを、ずっと心配してくれていたのだろう。


 でも、それを今日まで一言も言わなかった。ありがとう、母さん。


 わたしは、ドサリ、とさっきの革袋をテーブルに置いた。


「試験には落ちちゃったけど、見て。試験で頑張ったから、お金が出たんだよ」

「これは、サーヤ、大金すぎるよ。本当にたくさん」


 喜ぶ母さんと父さんを見て、わたしが旅費として袋から取り出すのは、数枚の金貨だけにした。


「母さん。働き口は見つけるからさ、ちょっとだけ、旅に出てもいいかな」

「そう。どれくらい?」

「これだけお金があるから。それで、一か月だけ」

「それはちょっと長いんじゃない? まぁ、これだけあればお金はなんとかなると思うけど」

「これだけで大丈夫だって」

「大丈夫じゃない、と、思う」


 何か言いたがっているのは分かったけれど、母さんはすぐに首を縦に振ってくれた。四年間も通った軍学校での成果が出なかった、さぞ落胆しているだろう、と気をつかってくれたのだろう。騙すようで気は悪くなったけど、隠密の任務なのだから、仕方ない。


「でも、父さんにはちゃんと確認をとりなさい」


 そう言われて、一番奥の部屋に入った。


 父さんは、働いていない。奥の部屋でじっとしている。この家が貧乏なのは、それが一番の理由ではあると思う。でも母さんは、どうしても家から出られないから、と言っているし、父さんは十分にわたしを愛してくれていたし、恨むなんてとんでもなかった。


「町から外に出るのかい」

「うん、一か月」

「長いね。サーヤ。目を見せて」


 父さんはわたしの目をよく気に掛ける。


「薄いブルー、美しい。サーヤは本当に良い目をしている」

「父さんの、翡翠みたいな緑の目もキレイだよ」

「いや、サーヤは母さんに似てキレイだ。うん。そうだね。行ってきなさい。南には行くかい?」

「ううん、どこかは内緒だけど、行かないと思う」

「そうか。サーヤ。この大地をうんと見て回りなさい。きっときみの財産になる」


 西の山脈を越えれば古城がある、という話しか知らされていない。地図もない。確かに、ちょっとこの町を出るということに、こんなにも情報不足というのは、国として未成熟なのかもしれない。


 わたしのこの一か月の旅行で、見るもの、感じるもの、その全てを王様に話せば、それはわたしの財産だけではなく、アウスリアの大いなる発展につながる気がする。わたしは、今、大いなる任務を背負った。


 いや、ちょっと大きく考えすぎた。わたしは、この島のヒーローになんてなれなくていい。ただ、確実に、父さんと母さんを幸せにする。そうだな、この家のヒーローになれれば、それで十分だ。


 この封筒と、数枚の金貨、それと、王様がつけてくれるという、用心棒と一緒に、わたしは明日、この町を出る。成功させれば、隊員になれるだろう。それに、王様の置かれているこの国の危機も解決できるかもしれない。


 その上、いまだ全貌が見えないこの島の地図作りにも役立つかもしれない。おまけに、未知のキラキラした場所を観光しながら、島めぐりをできるのだ。


 ほんのちょっぴり、実技試験のことを忘れられそうだ。

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