漂泊墓地

 

 それは無記名の墓標、その割れた墓石が散らばる泥の中で目を覚ました。

 それは丸く、小さく、獣としてはあまりにも矮小で、かわいらしかった。


「ワァ……ア……?」


 獣は自身に何が起きたのか、全く理解していない様子だった。

 小さく、短く唸ると、その二本の脚で立ち上がる。


「ン……ウンショ」


 獣は傍らにあった武器を手に取る。

 泥にまみれ、泥と砂のまじった不快な手触りのそれを。

 薄汚れたそれは、妙に獣の手に馴染んだ。


 ――槍だ。しかし穂先はない。

 金属製の棒が二又に別たれ、先端は金属製の蛇の舌の様な形をしている。

 そして、その舌は悪意を具現化したような痛々しい棘で飾られていた。


 これは虜囚を拷問したり、異教徒を生きたまま捕縛する際に使用する道具だ。

 名を「刺股さすまた」と言う。


 獣は体に何も身に着けてはいなかった。手元にあるのはこの刺股だけだ。

 自らの記憶を手繰り寄せるように両手を頭に近付けて、円を描く。


「ウン……ワァ……」


 獣と言えども、まだ「成り立て」の彼には感情の残滓というものがあった。

 ひどく悲しいのだろう。その黒く、小さな目に水滴が生まれ、泥を濡らした。

 しかし泥はそんなことを気にもせず、涙を茶色に染めて、この世界と一緒に、まるで何ごともなかったかのようにふるまう。


(デェェェェーン……)

 ――漂泊墓地――


 獣が流れ着いたのは、リングを求める者たちがまず初めに流れ着く場所。

 死した名もなき獣たちが埋葬される墓地だった。


「ウゥー……」


 獣は唸りを発した。

 何かしらの感情を感じさせるが、言葉にはならない。


 彼は言葉を失っているのだろうか?

 それとも最初から言葉を持たなかったのか?

 ……そもそもからして、何ものであったのか。


「ウゥ……」


 獣は声を発するが、そこに動物的な、きわめて原始的な感情を感じさせる以外のものはない。理性の光があるにしても、それを伝えることはかなわないだろう。


 獣は刺股を手に、とにかく歩くことにした。自分のいるところがどこなのか、全く見当もつきはしないが。このままここにいても誰が迎えに来るでもない。それくらいのことは理解できるようであった。


「ワ!」


 泥の中をはいずり、墓地をすすんださきで、獣は声を上げた。

 墓場の向かい、霧深い崖の向こうに見えるもの、それが目に入ったからだ。


 彼の目の前に現れた物は、かつてこの地を収めた名もなき王の居城だ。

 それが彼の目に入ったのだ。


 しかし、その城壁はうち崩れ、天高くそびえて居たであろう円塔は、そのいくつもが中ほどで朽ち折れている。

 ボロボロになった黒い垂れ旗だけが、かすれ、ほつれだらけになりながらも、かつての意匠を示している。

 プチプリティ、それはいまや獣たちをしめし、彼らの呪いを示す。

 だが、もとはこの王国の名だ。


「ウゥー? ウン!」


 獣はあの城に向かうことにした。城ならば寝床になりうるだろうし、自分のような存在もいるかもしれない。そう思ったからだろう。


 ちいさく、獣としてはあまりにも矮小で、かわいらしかった、その獣の旅はここから始まった――。

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