PROLOGUE 光の時代
2195-11-5-02:16 TOKYO SHIBUYA
旧世代のイヤホン型サイバーデバイスからノイズ交じりの音声が聞こえてくる。二、三回人差し指で叩くと、掠れた声で雨の予報を流してくれた。音が大きかったり、小さかったりして聞き取りづらいが午前二時二十二分から雨が降る、と言っている。早いうちにメンテナンスに出した方が良いだろう。
近年の大気汚染の影響は酷く、有害物質交じりの雨が降ることが珍しくない。医療処置を受けることができないスラムの住人にはこの上ない毒だ。急ぎ足で目的地へと向かう。
カサブラビア企業圏、渋谷――
スクランブル交差点はメガストラクチャーと企業のホログラム広告に囲われ、空を見上げても雲の動きさえ確認することができない。しかし、旧渋谷駅前に位置する竹下通り周辺は最新鋭とはほど遠い街並みがまだ残っている。
クレープ屋の前を曲がり、通りを外れる。企業時代以前からあるという三階建てのビルの地下。塗装の剥がれた木製の扉を開けると、煙と埃の臭いが混じった香りが鼻腔を刺す。
そこはダンパという老人が一人で切り盛りをしている煙草屋だ。仕事前に一本だけ葉巻を吸いに行く。それが企業圏に来た際の俺のルーティンだった。
「コップサイトは入荷しているかい?」
「グラ坊か。あるよ」
コップサイトは葉巻の銘柄の名前。アストラ社企業圏内にあるコップサイトと呼ばれる小さな田舎町で作られており、花のように少しだけ甘い香りが特徴的だ。
近年は大気汚染の影響か葉の成長が悪く、中々入荷しない貴重な商品になっている。ダンパ爺さんはいつも一本だけしか吸いに来ない常連の俺を気遣い、ストックを置いてくれていた。
「今どきは、葉巻を買いに来る連中も減った。ろくでもない連中が増えたって事だ」
爺さんは蓄えた髭を撫でながら、愚痴を溢した。いつもとは違う会話の切り出し方。それに、何処か深刻そうな雰囲気を出している。
「どうした、爺さん?」
葉巻の先をシザーカッターで切りながら問いかける。爺さんはその様子を見ると、バーナーライターを差し出してきた。
「おっ、あんがと……」
火を貰うと葉巻を一吸い。口内に煙を溜め込み、ポッと音を立てて吐き出した。葉巻は舌で味わう。爺さんの口癖を反芻しながら、残った煙を舌でとろかした。
「美味いよ。爺さん」
「葉巻の美味さを知っているのは、もうこの街にはいないかもしれねぇな」
爺さんは葉巻の先を、カッターを使わずに食い千切った。それをカウンターに置かれた灰皿に向かってプッと吹き出し処理する。
「だったら、スラムに来いよ? 中毒者共で溢れているぜ。きっと、大儲けだ」
「嫌だよ。そいつらはニコチンさえ摂取できればいいんだ。煙草の味なんて分りゃしねぇ。そんな連中に、売りたくはないね。第一、向こうじゃ金はないだろう?」
ポッポッと音を立てながら葉巻を吸う爺さんの姿はそれだけで絵になる。吐き出す煙も輪っか状。見事な吸い様だ。
「基本的には物々交換だ。金を使えるのはドクターに、メカニックに俺みたいなギャングだけだぜ。そいつらと商売するかい?」
「煙草の味分かんならな」
臆することなくそう言う爺さんは、紫煙を吐きながら話を続けた、
「いい客はもう、お前とガイウ、クラボルの旦那だけさ。他に来るのは乱暴な傭兵か、殺し屋ばかりだ。煙草の味を忘れたジャンキー共さ。昔は……『一〇〇年前』はいい客ばかりだった。あいつらが持ってくる酒を、美味い煙草を肴に飲み明かした」
「一世紀前の東京はどうだったんだ?」
「戦争中さ。そのちょっと前まで俺はアスパスト社に雇われた傭兵だった」
「傭兵? 初耳だ」
アスパスト社といえば、世界を支配する五大企業の一つ。一〇〇年前に当時競合相手だった企業に対し、武力行使を行ったことにより勃発した第一次企業大戦は、初の企業間が起こした世界戦争としてあまりに有名だ。
「言ったことなかったか? 背丈の倍はあるサイアームを付けて、最前線で敵を潰していた。敵の身体も、重火器も――ぜーんぶぐちゃぐちゃにしちゃうから、『スクランブル・ダンパ』なんて呼ばれていたよ」
爺さんは身振り手振りでその様子を表現して見せた。古いオイルの臭いが染み込んだサイアームがギシギシと鈍い音を上げる。
「おぉ、怖い怖い……そんな、ダンパさんが何で煙草屋なんか?」
「……嫌になっちまったんだ。大事にしてたもんが、どんどん減っていって、ついには無くなっちまった」
煙を吐きながらそう話す爺さんの目はとても悲しそうだった。
第一次企業大戦はアスパスト社が圧勝したという訳ではない。競合相手との戦力は拮抗しており、両企業間で多大な死傷者を出したと聞く。その最前線で生き残ったダンパ爺さんだが、仲間はきっと――――
「だから、戦場から離れた」
「逃げたんだよ。仲間を失って、苦しくて苦しくて。そんなことを考えていたら、殺した敵にも情が出てきやがった。ったく、身体の六〇%は機械なのに、脳は機械的になりゃしねぇ」
「爺さん、あんた……」
「もうすぐ死ぬんだ。失って気持ちがいいもんなんて一つもないがよ。俺自身の命が失われることにはどこか安心した。気持ちが救われる感覚がある。仲間はいない、常連も消えていく。そんな気分にならなくて済む。医者の話を聞きながら、自分の寿命を指折り数えることに僅かに幸福を覚えた……」
「爺さん、今一四三歳だったよな? 今の状態なら、しっかりメンテナンスすればあと六〇年くらいは」
「傭兵時代の古傷が祟った」
爺さんはそう言うと、ヤニで黄ばんだシャツを捲る。見えたのはサイボーグ化した腹部。そして、それは胸部にまで及んでいる。
「お前の右腕と一緒さ。両腕に、片足、それに臓器のほとんどが機械仕掛けだ。特に臓器。メンテナンス代も馬鹿にならん。今まではクラボルの旦那に頼んで、誤魔化し続けてきたがよ、本来は一〇年単位でアップグレードし続けなければならない。けど、もうその金がないんだ。一か月もつかどうか、だとよ」
サイバーデバイスの発展により人体を改造するサイボーグ化が一般的になった現代、患部を機械に代替する治療法が一般化され、人間の寿命は大幅に伸びた。だが、臓器のほとんどをサイバーデバイスにしている人間は高額なメンテナンス費用を払うことができず、そのまま死亡してしまうケースが非常に多い。その費用は廃れかけの煙草屋の店主にはとても払い切れる金額ではない。
「……そうか。この店はどうなる?」
「無くなる」
「寂しくなるな――なぁ、爺さん」
「あぁ?」
「コップサイト、入荷できるだけ準備しといてくれ」
「ふっ、嬉しいねぇ。最後に買ってくれんのか?」
「上等な酒を用意してくるよ」
爺さんは黄ばんだ歯を見せ、ギッシシっと笑って見せた。その汚い笑みが少しおかしくて、頬を緩めた。外の雨はあと三〇分で止む。今日は特別にもう一本、コップサイトをやった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます