大國さんが作った朝食を全て食べ終えた後、僕は自分の部屋で夏服に着替える。学校にいる、紗夜に会いに行くためだ。

 ……でもその前に、どうにかしてあの人から、アレを入手しないと。

 そう思っていると、部屋をノックする音が聞こえてきた。

「漣くん、ちょっといいかな?」

「なんですか? 大國さん」

 そう聞くと、大國さんは手を合わせて、おねだりするようにこちらに笑いかけてくる。

「ちょっと、お金、くれないかな?」

「……紗夜にお金せびった僕を非難してたのに、大國さんは僕にたかるんですか?」

「だって、しょうがないじゃない! 私の銀行口座、この時代じゃまだ存在してないんだから!」

 その言葉を聞きつつ、僕は既に自分の財布を取り出している。

「まぁ、ご飯も作ってくれてますし、お金をだすのはいいんですけど、何に使うんですか?」

「映画借りてこようと思ってね! ナミネさんが観てるの見てたら、私もこの時代じゃないと観れない映画興味が湧いちゃってさ! だから、TSUTAYAでもゲオでもいいから、レンタルショップの会員証も貸して欲しいんだっ!」

「そういうことですか」

 そう言いながらも、僕は渡りに船だと思っていた。先程考えていた入手したいと思っているアレを持っている人というのは、大國さんのことだったのだ。

 僕は未来人にお金とTSUTAYAの会員証を渡す代わりに、アレを貸して欲しいと頼んだ。大國さんは一瞬キョトンとした顔を浮かべたが、特に害はないと判断したのか、快く僕にアレを貸してくれることとなった。

 僕は大國さんから受け取ったそれを、他の人に見つからないように鞄に入れると、すぐさまその足で学校へと向かう。

 校門をくぐると、グラウンドから野球部の声援が聞こえてきて、それらの間を縫うように、ブラスバンド部が奏でる、蒼天を突き抜けていくような管楽器の音色が、こちらの鼓膜を叩く。

 空からは太陽が強い日差しをこれでもかと地上に降り注ぎ、その暑さで僕のシャツもしっとりと濡れていた。

 ……雨が降った後の次の日は、蒸し暑すぎるよ。

 下駄箱で靴を履き替える前に、その入り口にある蛇口をひねって水を出す。最初の方は管ごと熱せられていたためか、生ぬるいお湯みたいなものが出てきた。しかしそれもすぐに収まり、冷たい水が蛇口から我先にと、競うようにして溢れ出てくる。

 多少カルキ臭さを感じさせるその水を口に含むと、二、三度嚥下して、僕は口元を拭い、蛇口から出る水を止めてから、改めて下駄箱の方へ向かう。下駄箱という影に隠れていたためか、上履きはそこまで暑くなっていなかった。

 校舎の中を歩いていくと、誰もいない静けさを吹き飛ばすような日の光が窓から差し込んでいて、教室の机や椅子から伸びる影が居心地が悪そうに縮こまっているようにも見える。そんな様子を横目に、僕は照り返しの強い廊下を踏破して、理科室の前で歩みを止めた。

 ノックをしようとして、僕は前回気にせず入ってこいと、紗夜に言われたことを思い出す。

 だから僕はノックをせずに、理科室の扉を開いた。

 するとその中で、紗夜が汗を拭いていた。夏服を捲くるようにして、僕の幼馴染は手にしたミニタオルで脇を拭っている。捲れた服の間から素肌が見えて、下着と思われるそれの色が水色だと脳が認識した瞬間、僕は全力で理科室の扉を閉めていた。

『何だ? 漣じゃないか。気にせず入ってこい』

「気にするに決まってるだろ、馬鹿!」

 ちなみに、ここで言った『気にするに決まっている』の主語は、紗夜のことだ。僕と娃の幼馴染は、こういう突発的なトラブルにめっぽう弱い。特に、少しでも性的なトラブルは、かなり苦手な部類に入ることになる。

 小さい頃、娃と紗夜が僕が着替えをしている最中に部屋に入ってきた時があったのだけれど、その時紗夜は茹でダコ以上に顔を真赤にして、ぷるぷる震えていた。そして、そんな状況になったことを、紗夜は頑なに認めようとしなかった。恥ずかしかったのだろう。

 ……見る側でそれだったんだから、見られた側になったら、もっと酷いことになってるんだろうなぁ。

 つまり、平静を装って答えはしたものの、紗夜はきっと、あの時以上に顔を赤くして、わなわなと震えているはずなのだ。

 だから僕は、幼馴染が平常心を取り戻すための時間を、茹だる廊下で待たなければならなかった。

 そして十分と思える時間が経った後、今度こそ僕は、理科室の扉をノックする。

 すると、一拍間があった後で、中から紗夜の声が聞こえてきた。

『き、気にせず入ってこい。中には相変わらず、ボクしかいないからな』

 上ずった声を聞き流すように、僕は理科室の中へ入っていく。

 そこにはこちらに仁王立ちをしている、紗夜の姿があった。ただし、その僕の幼馴染は、こちらに背を向けている。

「……もう少し、時間開けた方が良かった? 紗夜」

「な、なんのことかな? ボクは漣の訪問だったら、二十四時間三百六十五日、いつでも大歓迎だとも!」

 ……テンパりすぎて、まだ頭が回ってないのか。

 まだ顔の熱が残っており、それをこちらに見せないようにしている紗夜の努力を無駄にしないために、僕はひとまず適当な話題を出してみることにした。

「そういえば、紗夜は動物園仮説って知ってる?」

 以前、大國さんにぐぐれと言われた言葉の意味を、僕は紗夜に聞いてみた。おそらく僕の幼馴染であれば、そうした単語は、知っているはずだ。彼女が魔術に傾倒することになったのは、今の科学がどれだけ脆弱なものなのか、全て知りえた上で、科学嫌いとなり、科学を憎むという結果になったからに他ならない。

 だから、大國さんやナミネさんが関わるような、紗夜の嫌いな科学の延長線上にある、SFみたいな単語であれば、この幼馴染なら知っているだろうと、僕はそう考えたのだ。

 果たして、その予測は、どうやらあっているようだった。

「ああ、知っているぞ。保護区仮説とも呼ばれているな」

 新たに出てきた聞き慣れない単語に、僕は首を傾げる。

「保護区? 絶滅危惧種をどう守るのか? みたいな話?」

「違う違う。そういう、地球内の話じゃない。地球外生命体の、宇宙人が実際に存在したら、という仮定の元生まれた仮説だな」

 そう言った後、ようやく紗夜はこちらの方を振り向いた。頬はまだほんのり赤みが残っている。しかし、流石に茹でダコ程ではない。

 幼馴染は顎に手を当て、口を開く。

「宇宙人が実在しているなら、何故宇宙人は地球にやってこないのか? というパラドックスの解釈だよ。解釈は様々だが、宇宙人から見たらこの地球は動物園のようなもので、観察対象にしか過ぎない、というものさ」

 紗夜の言葉を聞きながら、僕はナミネさんに言われた言葉を思い出していた。

 ……あの宇宙人が言っていた『園』って意味は、そういう意味だったんだ。

 だとすると、ナミネさんには、僕や大國さんは、動物園の中のパンダやキリンみたいに見えているのだろう。でも、『デバイス』の中にAIとして蘇った娃は、どんな感じであの宇宙人に観察されているのだろう? 檻の中の動物の説明を繰り返す、自動音声のように見えているのだろうか? それとも、僕らと同じ、動物として観えているのだろうか?

 そんなことを考えていた僕を、いつの間にか完全に通常モードに戻った紗夜が見つめてくる。

「そういえば、漣。お前、AIで娃を蘇らせるために、宇宙人を呼ぼうとしていたな? 未来人から教えてもらった、リストに載っていた映画を揃えることで」

「うん、そうだね。結論から言うと、娃は蘇ったよ」

「本当か!」

 興奮した様子の紗夜が、僕の胸ぐらを掴む。

「ど、どこに? どこに娃が? いや、そもそも人間一人を表現するAIなんて、そんなハードウェアなんて、存在しているのか? 人間がAIを人間のように誤認させるぐらいなら、今のPCでも全然余裕だけど、人一人を本当にそこに存在させるとなると、そんなもんじゃすまされないぞ? マウスの脳をカットして情報化したデータ量でも、二ペタバイト存在すると言われていて、その際記録されることになるニューロンは、十万個とまで言われてるんだ」

 紗夜の言った桁数が、膨大過ぎて、よくわからない。

 僕は紗夜に、首を傾げながら問いかけた。

「そのニューロンって、人間だとどれぐらいになるの?」

「人間の脳だと、約千億個だよ」

「千億個!」

 僕の驚愕の声を聞きながら、紗夜は顎に手を当て、ブツブツとつぶやき始めた。

「これを聞いただけで、本当に娃をAIとして蘇らせるには、途方もないデータ容量が必要で、そしてそのデータを会話をするのに違和感なく超高速で処理するスペックが必要になるんだって、お前でもわかるだろ?」

 紗夜の言葉に、僕は改めて息を呑む。人間の脳は、確か電気的信号を発する神経細胞たちで作られた、ネットワークみたいなものだっていうのは、SFの本か何かで読んだことがある。

 でも、そのネットワークを作るためにどれぐらいの情報量が必要になるのかなんて考えたこともなかったし、その情報量を処理するのが、いかに大変なことなのか、想像したことすらなかった。

 紗夜は苦虫を噛み潰したような顔で、僕に向かって口を開く。

「スパコンなんて、目じゃない。今の量子コンピューターだって、それは不可能だろう。なぁ、漣。娃が表現されているっていう、そのハードウェアは、一体なんなんだ?」

「……その、僕の家にいる未来人が持ってきた『デバイス』に、宇宙人が娃をAIとして蘇らせたんだよ」

 そう言うと、紗夜は弾かれたように僕へ詰め寄ってきた。

「そ、その『デバイス』っていうのは、どこにあるんだ? まさか、持ってきていないだなんて、そんなわけないよな!」

 その、紗夜のあまりにも前のめりなその様子に、僕は僅かに困惑する。

 ……すげー食いつくな、紗夜。

 科学を憎むと言っていたくせに、未来の科学技術には、興味津々じゃないか。

 でも、紗夜がこれほど夢中になってしまうのも、仕方がない事なのかもしれない。

 ……十分に発達した科学技術は、魔法と見分けがつかない。

 確か、SF作家が定義した、クラークの三法則の一つだったはずだ。

 紗夜の姉、義兄と、僕らの両親が死んだあの日から、紗夜は今の科学に見切りをつけ、魔術に傾倒している。逆に言えば、その見切りをつけた科学が魔法の領域に辿り着いたのなら、それはまた紗夜の興味を持つ分野になる、ということだ。

 ……それに、娃を蘇らせた『デバイス』なら、紗夜にとって、それだけで興味を持つに値するものなんだろうな。

 強い意思の光を宿した瞳を僕に向け、幼馴染は僕を揺する。

「さぁ、早く! 娃を出せ! ボクを、もう一度娃と話をさせるんだっ!」

 こちらに向かって手を差し出してくる紗夜に向かい、僕は僅かに首を振る。

「……それは、出来ないんだ」

「何? それは、漣の声紋情報しか娃が認識できないとか、そういう話なのか?」

「違うよ。そうじゃない。娃が蘇った『デバイス』を、僕が今持ってきていないんだ」

 言い終える前に、僕は紗夜に殴られた。不意を付かれた前回とは違い、今回はある程度そうした幼馴染の行動を予測することが出来たので、顔をひねって僕はどうにかダメージを最小限に抑え得ることが出来た。

 でも、続けざまの二発目は、完全に、完璧に、想定外だった。

 体重の乗った、いい右ストレートが、完膚なきまでに、僕の顔面に叩き込まれる。

 そしていつぞやと同じく、僕は実験台の方に吹き飛ばされ、後頭部を強打して、悶絶した。前回のときよりも、五倍ぐらい痛い。

 そんな理科室の床をのたうち回る僕を、怒りの形相の紗夜が見下ろす。そして、僕を床から無理やり引き剥がすように、こちらの胸ぐらをつかんだ。

「持ってきてない、だと? お前、『デバイス』の中には、確かに娃がいるんだろ? それなのに、一度失った相手を、片時も手を放すべきではないそれを、お前は手放したっていうのか? ボクはどれだけ望んでも、その望みは叶わないのに?」

 紗夜の怒りも、僕は十二分に理解できる。朝羅さんたちを蘇らせることが叶わず魔術に傾倒した彼女にしてみれば、娃を蘇らせる方法があり、かつ実際に蘇った姉と僕が、互いにそばを離れるという事実が、受け入れがたいものになるのだろう。

 僕と娃が、片時もそばを離れることを許さないと言わんばかりの幼馴染の眼光に射抜かれながらも、僕は呻くように口を開いた。

「お、落ち着け、紗夜。その『デバイス』を、落としてなくしてしまう方が、問題だろうが! 相手は体がないんだぞ? 迷子になっても、娃は自分で戻ってこれないじゃないか!」

「そんなもん、漣の腹かっさばいててめぇの臓物と一緒に入れとけばいいだろうが! 縫合手術があるだろう、縫合がっ!」

「マネキンにスピーカーくくりつけるのとは、話が全然違うよ! やってもいいけど、やったら今度は僕が死ぬって!」

 それに、腹の中から姉の声が聴こえてくるなんて、猟奇的というか、ホラー以外の何物でもない。

 仮に、マネキンとは言わずとも、娃が自由に扱える肉体が存在していたら話は違うのだろうけれど、それを用意する手段を僕は持ち合わせてはいないし、もしその肉体を手に入れれたとしても、『デバイス』の中にいる娃が、その体をどうやって動かすのか、その手段が全くない。

 殴られた顔に手を当てながら、僕はどうにか紗夜をなだめていく。

「娃が蘇ったのは、スマホサイズの『デバイス』なんだよ。なくしそうで、怖くないか?」

「怖くない!」

 そう、断言された。そして、更に紗夜から、言葉を叩きつけられる。

「そもそも、あれだけずっと一緒に娃といたお前が、たかがスマホをなくすリスクで娃と一緒に行動をともにしなくなるっていう、そっちの方が怪しいんだよ!」

 ……流石、幼馴染。僕のことを、よくわかっている。

 紗夜の言葉を聞きながら、僕はバツが悪そうに頭を掻いた。

「そうだね。確かに、おかしい。あの事故から、恋人という関係になるほどずっと一緒にいた娃と離れているのは、確かにおかしい」

「……その『デバイス』にいる娃っていうのは、本物なんだろうな?」

 僕の行動から、紗夜はそもそも蘇った娃という存在を疑い始めたのだろう。

 再度問われたその問いに、僕は確信を持ってうなずく。

「うん。あれは、あの声は、声だけは確実に娃のものだよ」

「だったらっ!」

「だからだよ! 声だけだから、僕は、僕らは戸惑ってるんだよっ!」

 地球や宇宙のような遠距離ではなく、そこにいるはずなのに、声だけしか聞こえない。

 過去や未来のように時間が違っているわけでもないのに、一緒に食事を取ることも出来ない。

 同じ場所、同じ時間を共有しているはずなのに、僕らは『声』だけしか交わせない。

 それが、たまらなくもどかしくって。

 ……たまらなく、キツイんだよ。

 そう思う僕に向かい、紗夜は諭すような口調で言葉を紡いでいく。

「漣。それは、声『だけでも』共有出来る、って思う場面なんじゃないか?」

「……わかってる。それすら出来ない、紗夜に酷なことを言っているのも、僕は自覚している。でも――」

 でも、だからどうしたというのだろう?

 そもそも、娃をAIでしか蘇らせれないのは、タイムパラドックスが起こってしまうからだと、大國さんは言っていた。

 そしてAIでしか蘇らせないという制限は、その大國さんの要望を受けたナミネさんが、『園』の環境を破壊しないと判断したから、それに従っているのだろう。

 逆に言えば。

 

「タイムパラドックスを起こしてしまうような、『園』の環境を破壊してしまうような『何か』があれば、娃は蘇るはず。そう思わないかい? 紗夜」

 

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