第一章
①
姉が、死んでいた。
学校から帰ってきたら、家で首を吊っていたのだ。
夕日に照らされた姉の影は不思議な形をしていて、彼女の影は足元からではなく、姉の全体重を引き受けているロープから伸びていた。そのロープが巻かれた柱が時折ぎしぎし鳴って、姉の体が揺れていた。姉が揺れるとロープから伸びた影も揺れて、僕は何故だか小さい頃、姉と一緒によく遊びにいった近所の公園のブランコのことを思い出していた。
夕暮れが夜に変わる前に、僕はどうにか警察に電話をかけた。
そこからのことは、正直、あまり覚えていない。
夏の礼服を着た大人たちや、姉と仲が良かったクラスメイトたちがやって来た記憶があるので、きっと葬儀は行ったんだと思う。遅れてきた梅雨が夏休み前に滑り込んできたように雨が降っていて、じめじめしていながらも、棺の中に入った姉の頬はとても冷たくて、触った皮膚はゴムみたいに固くなっていた。
熱が出た時のようにぼんやりとしながら、僕は抱えていた箱を姉が使っていた勉強机の上に置く。そこで僕は、今まで手に持っていた白い箱が骨箱だったと気がついた。
……じゃあ、さっきまで僕、火葬場にいたんだ。
そう思うと、何故だか夏服のカッターシャツが急に煩わしくなり、首元もきつく感じて、息苦しい。僕は首元のボタンを一つ開ける。そのまま姉の部屋を見渡すようにぐるりと一周、視線を向けてみると、あまり姉の部屋で見た覚えのないものが目についた。
仏壇だ。
そこに姉の写真が飾ってあり、写真の中の姉と目があった。毎日見ていたその顔を、僕はもうこうした写真以外で見ることは出来ないのだろう。
そう思った瞬間、唐突に、胃からせり上がってくる嘔吐感に、僕は慌ててトイレへ駆け込んだ。
自分の体の内から食道を通って溢れんばかりに出てくる嘔気を、胃液と吐瀉物と一緒に便座の中へと吐き出していく。鼻をつんとした酸っぱい臭いが駆け抜けて、不快感を増す。引きつく体を抑え込むように、僕は便座を強く握って、トイレめがけて胃の中身を吐き出した。もう僕一人だけとなった家に、自分の嗚咽と、そして雨音だけが響いていく。
胃の中のものを全て吐き出し、どうにか落ち着いた所でうがいをして、涙目になりながら軽く洗面台で顔を洗う。鼻も痛いし鼻水も出てくるので鼻をかみ、僕はもう一度姉の部屋に戻っていった。
その場所は、姉が死んだ場所でもあった。
姉が首を括ったロープが巻かれた柱には、彼女の全体重を引き受けたためか、今でも薄っすらロープの跡が残っている。カーテンが引かれて窓の外が見えなくなった、姉の代わりに姉の写真が飾られてある仏壇が鎮座するこの部屋で、なんだかその跡に、僕の目は吸い寄せられていった。
……僕も、死のうかな。
ふと唐突に頭の中に思い浮かんだ言葉だったけれど、それはなんだかいい考えにも思えた。この世に未練がないのかと自分に問うてみるが、マンガの続きや予約したゲームの存在が頭を過るだけで、逆に言えばそれぐらいしか僕が後ろ髪を引かれるようなものは、もうこの世には残っていない。
……だったら、死んでも、いい、よね?
誰かに許可を取る必要はないのに、疑問形の言葉が脳裏に浮かぶ。それは、仏壇に飾られた姉の写真と、目があったからだろうか?
……でも、姉はきっと、僕を止めないだろうな。
漣が本当に考えて、そうしたいと決めたことを、選ぶといいよ。
姉ならきっと、こう言うだろう。でも、そう言われてみると、本当に考えた末に僕は死のうと結論づけたのか、自信がなくなってくる。そもそも僕は、本当に死にたいのだろうか? いや、そもそも、死ぬことは現実的にできるのだろうか?
……僕が死のうとしたとして、どんな選択肢があるんだろう? どんな死に方を、僕は選べるんだろう?
ひとまず、台所に行ってみる。包丁が当たり前に存在していた。これを使って手首か首元でも切りつければ、僕は確実に死ぬだろう。ガスコンロもあるから、家を燃やしてしまうというのも手だ。
……でもそれだと、近所迷惑だよな。
そう思いながら、次に洗面所に行ってみる。屈んで棚を開け、洗剤を何本か探していく。すると、酸性の洗剤を見つけることができた。台所に塩素系の洗剤があるので、塩素ガスによるガス中毒で死ぬこともできる。他にも、洗面所に水をためてそこに顔を浸すことで、窒息死することもできるだろう。
……でも、それはかなり我慢しないといけなさそうだ。
そう考えると、死ぬためには、結構色々と考えなくてはならないみたいだ。窒息死の方法は、忍耐が求められるので僕にはあっていなさそうだし、ガスも苦しいのはあまり歓迎したくない。そうなると家を燃やす方法も焼け死ぬか一酸化炭素中毒で死ぬかなので、これもあまり受け入れたくない。刃物による出血死も、自分を傷つけるのに、相当勇気がいるだろう。
……そうなると、首吊りって、結構いい死に方なのかもしれない。
首を括った後は首元が圧迫されて、血液が脳に届かなくなり、死亡することになる。死ぬ前に酸欠状態で気絶するので、そこまで辛い思いはしなさそうだ。そう考えると、娃の選んだ選択肢というのは、以外に合理的なものだったような気がしてきた。
……姉の使ったロープ、まだどこかに残ってるかな?
そう思い、姉の部屋を探してみたが、ロープの存在はどこにもない。仕方なく家中を探してみるが、やっぱり見つからなかった。再び姉の部屋に戻ってきて、姉の勉強机の引き出しを開けようとしたところで、僕はあることを思い出す。
……そういえば、警察が証拠品として持ってったんだっけ?
それに気づいた僕は、なんだか疲れてしまって、ため息を吐いた後、自嘲気味に笑った。死ぬために労力を使っているこの状況が、ひどく滑稽に思えたのだ。
……少し、疲れたな。
時計に目を向けると、もう午後七時を過ぎていた。僕は気分転換に夜風にでも当たろうと思い、窓の方、その向こうにあるベランダへと足を向ける。だが、窓を開ける前に、当たり前だがカーテンを開ける必要があった。
だから僕は、カーテンを引く。
そこで僕は、見知らぬ女性と目が合った。
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