第3話 悪食と豊穣
「フアニアッ! お父さんが!!」
翌朝。夜明けを告げる雨が降り注ぐ中、アルの悲痛な声でフアニアは目を覚ました。
昨夜遅かったせいでまだ頭がぼんやりとする中、何とか体を起こすと、隣でアルがバルドルに声をかけている。
「お父さん! どうしたの!? ねぇ!」
「!?」
尋常ではない空気を察し、さすがのフアニアの眠気も吹っ飛び、すぐさまバルドルに近寄る。毛布を被るバルドルの顔色は悪く、額には汗がびっしりと噴き出していた。アルの声かけにも苦しそうに呻くだけで反応がない。
「見せて!」
「あれ? ……フアニア少し大きい?」
どうやら寝ている間に無事に少し大きくなったようだが、今はそんなことにかまっている場合ではなかった。
バルドルの手をとると、肌は熱を持ったように熱い。見える位置に傷はないが、フアニアの鼻は血の匂いを嗅ぎ取った。
「アル、手を貸してもらえますか!?」
「もちろん!」
バルドルの体は大きい。二人がかりでバルドルの姿勢を横に向けると背中が少し赤い。服をめくると、肩から斜めに巻かれた包帯には血が滲んでいた。
「これ……お父さん、やっぱり怪我してたんだ」
血の気が引いた顔でバルドルの背を見つめるアルに、ナイフを取ってもらうようお願いする。ナイフで包帯を切って傷口をあらわにすると、傷口がどす黒く変色していた。
傷口の様子からして普通の傷でないことは、フアニアにもすぐわかった。切れて膿んだ傷とは違う。毒が使われていそうだ。
毒が使われているのでは、昨日採取した薬草だけでは対処できない。
フアニアが唇を噛みしめ、何から対処すべきか頭を巡らせている隣で、アルはぽろぽろと涙をこぼしながら、バルドルに何度も声をかける。
「お父さん……お医者さん呼んでこようか? 町に行けばいるよね!?」
けれど熱と痛みで意識が
「町は駄目です」
「どうして!? お父さんが死んじゃうよ!」
「……町には……傷つけた人がいるはず。お医者さんを呼んだら、もっと危ないことが起きるかもしれないです」
アルにもフアニアの言いたいことがわかったのだろう。絶望したように表情を歪め、大粒の涙をこぼしてフアニアの手を握りしめる。
「じゃあ……どうすればいいの? お父さんも、このままお母さんみたく花になっちゃうの?」
普段しっかりしているアルがまるで子供のように泣きじゃくる。
親を失う恐怖で心が塗りつぶされていくのが、目に見えてわかるようだ。
フアニアだってこのままみすみす死なせたりはしたくない。
「……雨は駄目、か」
夜明けと共に降る雨には浄化の力たあったはずだ。けれど、それは神々がいた頃の話で、神がいなくなったのに浄化の効果が残っているとは思えない。神はそれほど優しくない。
それに、すでに陽はのぼり雨はやんでいる。
不安そうに震えるアルの手を力強く握りしめ、落ち着かせるように声をかける。
「何とか……私も頑張ってみます。だから、アル。協力してくれますか」
何度も力強く頷くアルを抱きしめると、フアニアはアルに役目を与える。
怖い時や不安に襲われた時は、何か目的があった方が落ち着くものだ。
「薬草を探してきて欲しいです。けばけばした赤紫の花が先端についた植物です。あるかはわかりませんが、できれば根っこからまるごと採ってください」
成長した影響で思い出すことができた薬草だった。解毒の効果があるはずで、バルドルの毒に効くかはわからないがないよりはいい。昨日の薬草採りの時には見かけなかったので、生えているかは正直わからない。
「探してくる!」
アルはすぐさま天幕を飛び出していく。それを見送り、フアニアも作業にとりかかる。
木桶を手に川に水を取りに行く。布を濡らして、まずは患部を拭いて綺麗にしていった。
幾らか血が固まり血が止まっているところもあるが、一番傷が深い場所はまだ血がにじみ出てくる。
昨日少し成長しておいて良かった。川にうっすらと映った姿を見るに、五、六歳程度にはなってくれたようだ。そのおかげで水もしっかり運ぶことができた。
バルドルの様子を見ながら、隣で薬草をすりつぶす。傷口に薬を使いたいところだが先に解毒しなければ、いくら他の薬を使ったところでも効果がない。
抵抗力が弱まる可能性もあるが、熱があがりすぎているので、熱冷ましに効果のある薬草を煎じる。何が人間には毒になるかはわからない為、口にいれながら慎重に確かめていく。
「バルドルさん、わかりますか?」
声をかけると多少身じろぐものの、薬を飲める状態ではない。
フアニアは爽やかな香りがする薬草を煎じて水に溶かすと布に浸した。薬草が染みこんだ布を口元に押しつける。
「少し、息を吸ってください」
言葉を認識できるかはわからないが声をかけるのはやめなかった。
唇に押し当てるように、何度も薬草を染みこませ口元に当てる。最終的には口元に布を噛ませておく。
神々の力なら治療など施さなくとも簡単に治せるのかもしれない。彼らがこんな治療をしていた記憶は無い。
では、この治療の仕方の知識は一体誰のものなのだろう。
血で汚れた包帯を洗いながら、ふとフアニアは困惑する。
薬草の知識は神々由来なのは何となくわかる。しかし、神がそれらを自分達の為に活用することはほとんどなかった。
「…………?」
けれど、新たに沸いた疑問に頭を悩ませているほど、悠長な時間はない。頭を振って疑問を打ち消すと、汚れた水を取り替えに外に出る。汚れた水を土の上に捨て、川で木桶をよく洗ってまた水をくみ直す。汚れた包帯が乾くように木の枝に干して天幕に戻る。
少しずつだが、薬草の効果が出始めたのかバルドルの息が少し整ってくる。
様子を見つつ、同時に食事の支度もする。薬草を探しに行っているアルの為に、スープぐらいは作っておいてあげたい。どれぐらい食材を使っていいのかわからない為、少なめに作る。塩も貴重な為、味付けは戻ってきたらアルに頼むことにした。
昼を知らせるように大地が軽く揺れる時刻になる頃、アルが森から戻ってきた。泥だらけに汚れたアルの手には、植物が握られていた。
「……これしか見つからなかった」
暗い顔でアルが手にした草を見せる。花は散り、茶色く枯れかけてはいるが目的の薬草だった。時期的には少し遅めかもしれないとは思っていた。けれど、どこかにあればという希望でアルにお願いしたのだ。
「ありがとう。見つけてくれたんですね」
「でも、これは薬になるの?」
種子も薬効はあるが、今回は生の葉っぱを使いたかったので、確かに枯れてしまっては使えない。
「使えるかもしれないので、とりあえずもらっておきます。アルは川で綺麗にしたら、スープの味付けを頼めますか?」
答える気力すら無くなってきたのか無言で頷くアルの姿に、フアニアは胸が張り裂けそうになる。
手の中にある薬草を見つめながら、フアニアは必死に考える。
せめて苦しんでいるのさえ楽にしてあげれば――。
一瞬、バルドルの苦しみを食べることを考えたが即座に切り捨てる。
知識が増えたことで、前回の失敗の原因がわかった。
人間の中身を食べる。それは記憶など一部を食べるわけではなく、最初に示されていたように人間の感情だけを食べることを指していた。
男の中身を食べた時、フアニアと関わったことだけを忘れるように、彼がフアニアに対して抱きそうな気持ちを指定して食べた。本来ならしっかり指定すれば果実のように目に見えるように食べる対象がわかるようだが、あやふやなまま食べたので、想定外の影響が出たようだ。
つまり、都合良く綺麗に食べられるわけではない。だから、昨夜の
今、バルドルの苦しいという感情を食べれば、バルドルは苦しみから逃れられるかもしれない。けれど、それはバルドルが抱える何か別の苦しみすら忘れることになりかねない。それを勝手にフアニアが判断して食べていいとは思えなかった。
わざわざ苦しむような記憶など必要ない、とフアニアの中で、神の倫理が問いかけてくるが、彼らは神ではないし人間だ。そんな倫理観で苦しみから逃れても幸せだとは到底思えない。
それならば、今フアニアが他にできることはないか。幾ら考えても良策が思い浮かばず、悔しさに唇を強く噛みしめる。
昨夜の男ならば何か思いつくのだろうか。
全てを見透かしたかのような視線と声を思い出し歯がゆくなる。知識の根源は同じはずなのに知識に対する理解度が違いすぎる。彼にあってフアニアに足りないもの。
『食べて自分で学べ』
男の言葉を思い出し、フアニアは覚悟を決める。
知識は常に自分の記憶の底にある。教えを
「フアニア……?」
天幕に戻り無くさないよう薬草を置くと、アルの荷物から彼女の服を1枚拝借する。今着ていたワンピースと取り替えると、体に比べて大きいため肩から落ちかける。それを手で押さえながら森へと向かう。昨夜埋めたばかりの酒瓶を取り出し、川に戻って瓶についた土を洗い流す。
「何してるの?」
フアニアのことが気になったのだろう、アルが様子を見にくる。不安そうに揺れる瞳を勇気づけるよう、にっこりと微笑む。
「必ず、助けてみせます」
突然成長することでアルがフアニアに対し嫌悪感を示すかもしれない。それでも良かった。元々人間と一緒にいられると思っているわけではない。
フアニアは人間ではない、世界を食べる悪食だなのだ。
「さて、飲みますか!」
片手で瓶を掴みガラス栓を引き抜き、フアニアは瓶をぐっと傾ける。
「っ……!?」
「フアニア!!」
かなり強い酒らしく、喉を焼け付くような感覚が襲う。水も喉元を潤すまでは感覚があるので、酒も喉を通り過ぎるまでは消えないようだ。
小ぶりの瓶の為、口を離さず一気に飲み干した。ぷはぁっと大きく息をついて口を拭うと、一瞬目の前がくらりと揺れる。
「きっつ! でも、美味しい……っ!」
果実から作られたらしい酒は僅かに甘く、なおかつコクがありしっかりと舌に味が残った。最後の一滴まで堪能していると、頬が熱を帯びる。
お酒のせいで体が熱いのか、それとも体が急成長している証拠か。うっすらと汗をかきながら、瓶を片手にフアニアは口元を緩ませる。
「……さぁ、来い! どんどん大きくなってくださいよ」
けれど、予想より早く成長が止まる。手を見ても大人と言えるような雰囲気ではない。川に身を乗り出して水面に反射する自分の姿を見て愕然とする。
大きくはなったが見た目的にはアルとさほど変わらない。お酒さえ飲めばもう少し大人になるまで成長を遂げるかと思ったのに完全に予想外だった。服の丈はちょうどよくなったので良かったとも言えなくはない。
だが、知識の幅が確実に広がったのを実感する。頭の中にある本棚の数が増えて、しまって読めなかった本を自由に取り出せるようになった感覚だった。以前よりも遙かに頭の中がすっきりとした感覚だった。
「フアニアなの?」
困惑した様子でフアニアのことを見つめるアルに、何も答えずお願いする。
「アル……さっきの薬草を持ってきてもらえますか?」
「えっ……?」
「助けたいのでしょう?」
フアニアの言葉に、アルははっとしたように急ぎ天幕へと戻っていく。フアニアも天幕の方に向かうと、薬草を手にしたアルが天幕から飛び出してくる。
「これをどうするの?」
枯れた薬草を手に戸惑うアルにフアニアは小さく頷く。
それは、悪食のもう一つの役目。
――
世界を汚す元凶を絶ち、食べることで豊穣をもたらす存在。
豊穣の女神の妹である、慈愛の女神の願いによって付け足された力。
『もし、人間が失った他者を思いやる心を取り戻した時、その深い愛が恵みをもたらしたら素敵だと思わない? お姉様』
『あなたは本当に優しいのね』
『お姉さまのお心もわかります……。でも私、必要なのはやっぱり愛だと思うのですよ。愛の力は偉大なんですのよ』
その後すぐさま審判の神にそんな物無駄だと一蹴されていた記憶もあるが、最後まで慈愛の女神は譲らなかったようだ。
豊穣の女神の条件は満たされていないので、フアニアに豊穣の力は宿らない。
けれども、慈愛の女神の条件なら満たせるかもしれないと思い至った。フアニアに対して惜しみなく食事を分け与えてくれた彼女ならば。
薬草を大切そうに掴むアルの手を優しく包み込むように両手で握りしめ、以前より近くなった顔をそっと見上げる。
「この薬草に力を取り戻す為には、神の力を借りないと駄目なんです」
「……神様に祈るの?」
フアニアは小さく首を振って否定する。
「人が祈ることは赦されていないんです。だから、代わりにアルがずっと心の中で謝りたいと思っていることを教えてください」
「……謝りたいこと?」
「私の予想だけど……アルの心の中で、ずっと重く引っかかっていることがありませんか?」
アルと長く一緒にいたわけではない。それでも、一緒に過ごした間に気がついたことがあった。フアニアの髪を結うとき、昔の話が出た時、時折見せる表情が子供らしくなく、何かを抱えているような気がしていた。
アルは苦しげに眉をしかめ目を伏せると、ぽつりぽつりと零すように教えてくれた。
「……お父さん、わたしのせいで苦労してばっかりなの。わたしが産まれた時、お母さんの花と一緒に村に戻ってきたって。お母さんの話をする時、父さんはいつも寂しそうだった」
消え入るような声に、フアニアの心も引きつれるように痛む。
「村を離れることになった時だって、いつだってわたしの為に一生懸命で……お腹を空かせないように、怪我しないようにって無茶ばっかり。きっと、わたしが心配するからきっと言えなかったんだよね」
ぽたりと大粒の涙が宝石のように流れ落ちる。枯れた薬草を手に、辛い心を絞り出すように、アルは抱えていた気持ちを吐き出していく。
「わたし、何とか役に立とうってがんばって……! でも、空回りしてばっかりで。だから、神様はわたしからお父さんまで連れて行っちゃうの……?」
一人置いて行かれる恐怖に染まったアルの目から、次々と涙が流れ落ちる。涙はしずくとなり、彼女の手を握るアルの手を濡らした。
「神様、ごめ……ごめんなさい……」
アルの中で重くのしかかっていた深い家族への思いやりが、長い年月をかけて彼女を追い詰めていた。自責の念に駆られるまでに、彼女は一人悩んでいたのだ。
フアニアはアルをそっと抱きしめ、僅かに背伸びをして彼女の額に口づける。
神に祈りの言葉は届かないけれど、フアニアの”お腹の中”ではまだ繋がっている。
「いただきます」
人間の中身を食べる。本来の使い方。
フアニアの視界のなか、彼女が背負う必要のない罪が彼女の告白によって明確となり、枝葉を伸ばす新芽のごとく形作る。一口程度の深紅の果実が枝葉に実るのを見届けて、フアニアは果実を口にする。
普段とは違い消えずにお腹の中までしっかりと届いた果実が、次第に熱を帯びていく。それらを体で感じ取りながら、フアニアはアルの手を包み込む。暖かな力が手に集まりほのかに光を放つと、枯れていた薬草が瞬く間に色を取り戻していった。
「フアニア……?」
目を丸くして自分の手を見つめるアルの体から次第に力が抜けていった。食べた反動かはわからないけれど、崩れ落ちるアルの体を支えてそっと横たわらせる。静かな寝息をたてるアルを運ぶことができず、その場に寝かせると、とってきた毛布を被せた。
フアニアはすぐさま薬草を手に天幕に戻ると、鮮やかな色味を取り戻した薬草の葉を煎じて解毒薬を作った。布に染みこませ傷口に押し当てる。はじめこそ傷口がしみたのか、一瞬辛そうな様子を見せたバルドルだったが、次第に呼吸が落ち着き顔色も少しばかり良くなった。
山場を超えたことで緊張が解けたのか、フアニアにもどっと疲れが襲う。バルドルの手を取り握りしめると、僅かにまぶたが震え、ゆっくりと目が開かれた。
「バルドルさん!」
「……ったく、ガキが……酒くせぇ匂いさせやがって」
「これは……」
かすれる声で指摘されフアニアが言い淀んでいると、ふっと笑って、震える手で頭に手が置かれる。大きな手で何度かぽんぽんと優しく叩かれた。
「たすかった……」
「っ!!」
僅かに口元を緩ませ笑うバルドルに、フアニアは初めて涙を流した。バルドルの手を強く握りしめ、声も出さずに静かに泣いた。
この時ようやく気がついた。
アルの為だけではなく、フアニア自身も彼に亡くなって欲しくなかったことに。
その夜。フアニアは天幕の中でアルに問い詰められていた。
正面に座ってふてくされたように睨むアルの視線から目を逸らしつつ、どうごまかすか考えあぐねる。
「フアニア、説明してくれるよね?」
「えっと……何を、ですかね?」
「昼間のこと! それにこんなに大きくなって、私ともう大して違わないじゃない! 昨日までは小さかったのに」
どう説明すればいいのか。素直に
絶対に逃がさないと意気込むアルの雰囲気に気圧されていると、側で寝ていたバルドルが手を貸してくれた。
「フアニアは……俺たちとは種族が違うんだ。この辺りじゃめったに見かけないが、話はきいたことがあるだろ?」
「お話に出てくる、神様と仲良くしてた人達の話?」
「そうだ。だから、まぁ……ちょっとばかし成長が早かったりもするだろう」
バルドルの言葉にアルだけでなくフアニアも驚いた。
この世界に人間以外が残っているとは思わなかった。彼らも一緒にいなくなったのだとばかり思っていたし、バルドルがそんな風にごまかしてくれるのも意外だった。
「そっか。だから、あんなこともできたんだね。フアニア、すごいね!」
きらきらとした眩しい目で見つめられ、フアニアは申し訳なさに背中に汗をかく。神聖視されるような存在ではない。悪食はむしろ真逆ではないだろうか。
「ったく騒いでないでお前らも寝ろ」
静かに寝かせろと言われると、アルもさっさと寝床に戻った。フアニアも疲れていたのでアルの隣で毛布にくるまる。寝返りをうつとアルと目があい、ふふっと微笑まれる。
「ありがとう」
消え入るような小さなお礼が、フアニアはどこかこそばゆかった。
翌朝。動く気配を感じて起きると、バルドルが天幕にいなかった。アルはよほど疲れたのかぐっすりと寝息をたてている。起こさないよう気をつけてバルドルを探しに外に出ると、夜明けの雨が降り注ぐ中、川の近くで体を拭いていた。
夜明けの雨は濡れないとはいえ、昨日あれだけ寝込んでいたばかりだ。呆れながら近づくと、ようっと声をかけられる。
「早起きだな」
「よく動けますね」
「丈夫なのが取り柄だからな。まぁ、昨日はちと危なかったかもしれねぇ」
「……そんな軽く」
「お前が悪食で助かったよ」
彼の言葉に、フアニアは驚くよりもやはりという気がした。
川の水で顔を洗いながら、フアニアは平然を装いつつ問いかける。
「悪食のこと知ってるんですね」
「農民の間じゃあ、作物を食い荒らすのは虫と悪食って言葉があるくらいだからな」
「虫と一緒にされるのは少し不満です……」
食い荒らすのは一緒かもしれないけれど、虫と同列になるのは非常に悔しいが反論のしようが無い。
「そりゃそうだ。まぁ、悪食なんて伝説の生物に近いから想像したこともなかったさ。まさかこんなちんちくりんだとはな」
笑いながら頭をがしがしと撫で回され、またもや長く伸びてしまった髪が乱れた。抵抗しつつ軽く睨み返すも効果はなく、バルドルは笑って軽く流し、フアニアの隣に腰を下ろした。
「いつ気がついたんですか?」
「初めから。あんな三歳児いねぇよ」
「…………」
「それに、夜な夜な腹をすかして一人で食ってたろ。初めて見た時は思わず笑いそうになったわ」
見られていたとは迂闊だった。食べることに夢中で気が回っていなかったのだろう。あまりの情けなさに少し反省する。
「何で黙っててくれたんですか?」
気がついていたのにずっと黙っていてくれたことになる。世間一般では化け物扱いされているような悪食と何故一緒にいてくれたのだろう。隣に座るバルドルを見上げれば、少し悲しげに細められた瞳と目があった。
「アルが笑ってたからな」
「?」
「まぁ、ちょっとした昔話だ」
バルドルはそう言って、彼ら親子にあったことを教えてくれた。
二人はここから離れた農村で暮らす親子だった。隣村一番の美人であるイザベラに惚れ込んで結婚し子供ができた。けれど、その年は不作で食料がぎりぎりでイザベラの体は少し弱っていたらしい。
「町は少し遠くてよ。馬車に乗せるのも不安で。ちゃんと報告さえすりゃあ村で出産してもいいはずなんだ。だから俺は村長に村で産ませてくれって頼んだんだ。けどな、それなら余計に町の方が安全だって押し切られて……俺は村からあいつを見送ったんだ」
人も薬もそろってる。村よりいい。バルドルもそう自分を納得させて、イザベラが帰ってくるのを待っていた。しかし、村に帰ってきたのは産まれたアルと花だった。
「産後不良だって言われた。手はつくしたってな。元々弱っていたし、その可能性も考えていなかったわけじゃねぇ。それでも俺は……最期に側にいてやれなかったのが悔しかった」
ぎりぎりと音が聞こえそうなほど噛みしめるバルドルに、フアニアは何も言うことができなかった。
「絶望して俺も死にたい気分だった。けど、俺にはアルが残されていたからな……死ぬことなんてできなかった」
バルドルはアルを大事に育てようと決意して、一生懸命に育てた。お腹をすかせないように、寂しい思いをさせないように。仲良く暮らしていたのだという。
けれども、作物の育ちは悪く、税はあがり暮らしはきつくなる一方。村には不満がたまっていき、ある時村民の怒りが爆発し、徴税に来た徴税官に怒りをぶつけてしまったという。
「あの時は誰もが腹をすかせていた。自分達の腹を満たす麦すら満足にとれないのに持っていかれるからな……」
「それは……辛いですね」
「あぁ、腹が減るってのは辛いもんさ。でも、あいつらにはそれが通じなかった。数日後、村は盗賊に襲われた」
「え」
「びっくりするだろう。俺もわけがわからなかった。たまたまその日、近くの森に良い獣が出たっていうから何人かで狩りに出ていたから助かったけどな。村に戻った時には兵士が来て盗賊を捕縛した後だった。アルも藁の中に隠れていて無事だった……」
相変わらず人間は変わらないと、フアニアは思ってしまう。神がいた時からどれほどの時が過ぎたのかはわからないが、やることが全く変わらない。
しかし、どうにも腑に落ちない。あまりに手際が良すぎる気がした。
「兵士が捕縛するまでが早すぎませんか?」
「おかしな点はそれだけじゃねぇ。その後、盗賊の処分をどうするのかってなった時に、農民が減ったら収穫が減るからって、捕まえた盗賊をこのまま村で農民として労役させるってなったんだ」
「おかしくないですか!?」
「おかしいさ。おそらく全て仕組まれたんだろうな。子飼いの族を使って面倒な人間を殺してすげ替える。生き残った奴らは選択するしかなかった。殺した奴らと平然と暮らして農民を続けるか。村を捨てるか。俺は……アルを守る為、村を出ることにした」
フアニアは人がどの様にして暮らしているか知らないが、旅をするのが大変なのは二人を見ていればわかる。食べるものも、寝る場所も。確保するのだって簡単ではない。
「……辛いだろうに、アルは無理して明るく振る舞ってくれてよ。自分は大丈夫だからってな。でも、村にいた時みたいに無邪気に笑う回数は減っていたんだ。そんな時、お前を連れてきた」
「……私?」
「あんな風に子供同士遊ぶことも久しぶりだったからな。妹ができたみたいだって笑ってた」
遠くを見つめるバルドルの眼差しは優しい。その眼差しだけで、どれだけ彼がアルを大事にしているのかわかる。
「悪食だと知って迷わなかったわけじゃねぇ。でもな、おんなじように腹すかして、上手いものに目輝かせてんの見てたら、ただのガキじゃねぇかって。アルが笑ってるなら悪食だろうが、んなこたあ小さいことだってな」
ふっと鼻で笑うバルドルの視線とかちあう。
「お前を見てたら化け物じゃねぇことぐらいすぐにわかったさ。食い尽くすことだってできるのにそんなことしねぇし、隠れて食うぐらい腹をすかせても他人の飯を盗らねぇ」
「それは……悪食だと知られたら危ないと思ったからで……」
「まぁ、それは正しい行動だ。だからこそ俺はお前に感謝してる。アルを笑顔にしてくれてありがとうな……。腹が空いてるのに、お前はよくやってるよ、フアニア」
「ッ……!」
バルドルの大きな手で両手を握りしめられる。まだほんのり熱を帯びた手のひらにつられて自分の目まで熱くなる気がした。
フアニアの中の人間に対する忌避感が薄れるわけではない。それは神の知識として根強く根底にある。
けれども、大切にしたいという気持ちも僅かに育ちつつあった。
「さぁ、そろそろ朝飯にするか」
傷が痛むのか、バルドルが顔をしかめながらも腰を上げる。天幕に戻ろうとする彼の背にどうしても尋ねなければならないことを思い出す。
「町長と何があったんですか」
ぴたりと足を止めたバルドルがゆっくりと振り返る。口元に浮かべた笑みとは対称的に目の奥は笑っていなかった。
「なんもねぇ。ちともめただけだ。気にするな」
毒を使われておきながら何もないわけがないが、話す気はないらしい。フアニアもそれ以上追求せず、彼の後を追いかけた。
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