凍え、溶ける
北緒りお
凍え、溶ける
雪が降り、そして止み、また降り、風に流され、そして、また、止む。
その宿は特急停車駅から送迎バスで一時間半ほど、ネット上では温泉と山菜が客人を迎える宿、という惹句で紹介されていたが、実際に泊まってみると、それ以外のものは特になく、客の存在に一喜一憂せず、静かに温泉宿として数十年以上の時間をやり過ごすかのように佇んでいた。
とりあえずの一泊で部屋を取ったが、想定以上の大雪が降り積もり、このあたりの公共交通機関はほぼ動かなくなってしまった。
旧交の仲間と酒を呑もうかと土日にかけて松本まで足を伸ばし、月曜の朝に間に合えばいいからと夕方まで遊んでいたところに大雪のニュースでにわかに騒がしくなった。急な仕事もあるわけでもなしと、チャットで職場に事情を投げ、雪に阻まれ帰れなくなった旨を伝え、ひとまずは月曜の有給を申請している。
日曜の夜から大雪でバスが動かないとのニュースが流れていたのは知っているが、ここまで積もるのは近年ではあまり聞かないのだという。
雪も誤算だったが、誤算の上乗せは、うかつに移動したことだった。
電車に乗って少しでも東京に近づこうとしたのが良くなかった。普段は客に優しさを見せない鉄道会社が、こういうときに限り安全に考慮し始め、計画的に運転を中止するという決断をしたのだった。
しかも、寝てれば着くだろうと車両の端の席で深く寝てしまっていたのもあり、気付いたときには、電車は止まり、車掌に起こされ雪だらけのホームに放り出された。
駅舎からも出るように言われ、渋々駅を出る。
大雪とは言え、まだ日が暮れるのには早く夕方と言うよりは昼下がりに近い時間帯なのに薄暗い。少しは人が居るだろうと思っていたが、人影はほとんどなく、駅前商店街らしきシャッターの並びの景観が閑散というか殺風景というか、この世から人が消えてしまったのではないかと妙な心配をしてしまうような景色だけがあった。
かろうじて一台、温泉宿の送迎バスがあった。
運転席を覗くとスマホで話し中の運転手さんの姿が見える、なにやら頷(うなづ)いたり道の遠くを見ながら話をしている姿が見え、話が終わりそうなのかスマホを耳に当てながら会釈をするかのような動きをして、顔を上げると。総白髪で雪景色に紛れそうな髪の下にある人当たりの良さそうな顔が見えた。
せめて雪の間だけでも逃れられる場所を探さなければ、と考えるとこの人だけが寄りだ。
電話は終わり、スマホを顔の正面まで持ち上げ、おそらく終話のボタンでも押したのだろう。その仕草をみるとすぐに声をかけた。
すっかりと雪が積もり曇っている運転席側の窓をノックし大きめの声で「すいません、ここらへんの宿を教えてください」と話しかけると、少し驚いたようにこちらを見た。曇って乳白色になってしまった窓のせいでこっちが見えなかったらしい。
車の側面には温泉宿のロゴらしきマークが貼られているが、雪でが着き所々隠れてしまっている。後ろの席に乗るようにと促され、車内に入る。電車から追い出されて表に少しいただけだというのに、すっかり全身が冷え切ってしまい、車の中の暖かさで、一気に体の表面が緩むような気がした。
「止まった電車からかい?」と端的に聞かれ、こちらも端的に「そうなんです。それで宿を探そうと思ってるんですがどこかにあります?」と返事をすると、「そうか」と低くつぶやくと、遠くを見て何かを考え散るようだった。
「ここら辺の宿は、もう埋まっちゃってて、ちょっと離れたところならあると思うんで、ちょっと待って」とスラックスのポケットにさっき入れたスマホを取り出して電話をしてくれた。
電話の途中で会話を中断してこちらをみると「部屋が空いてるらしいから、〝泊まりで〟言っちゃっていいか?」と聞かれたので、激しく頷(うなづ)くそぶりをして、無言のまま二つ返事で部屋を取ってくれと頼む。
現金はいくらかあるはずだけれども、クレジットカードが使えれば、支払うことには困らないだろう、とか、ここからまた山奥に行くことになっても何もない駅前で雪の中にいるよりは断然ましだ、とか、とりとめのないことを考えているうちに電話でのやりとりは終わった。
「うちの宿からもう少し奥の方で、先方にはうちの宿まで迎えに来てもらうから、そこで乗り換えてもらうのでいいかな?」と聞かれ、話してもいいのだがなぜか大きく頷(うなづ)いて返事をしてしまう。
移動の心配がなくなっただけでも大助かりだった。
三十分ほどでこの送迎の宿に着き、その宿の大きさに少し驚かされた。
車止めは路線バスでも入れそうなぐらいに大きく、入り口も古くからある宿なのか、雪でだいぶ隠れているのにもかかわらず、その立派な構えがすぐに想像できた。
車を降りると、送迎のおやじさんが、もう少しで来るはずだから雪が当たらない入り口に入って待ってて、と言ってくれ、誘われるままに中に入った。
エントランスは見渡すほどの広さで雪だらけの濡れた靴で入るのがはばかれるほどだった。
事情を聞いた宿の人がお茶を出してくれ、玄関に近いベンチの端で暖かい飲み物にありつけた。しばらくし、雪で濡れたズボンの裾も乾き始めようかという頃、クラクションの鳴る音が外からする。
カバンを片手に宿の人に礼を言いつつ外に出ると、軽バンに積もった雪を払っている小柄でやや横幅の良い男性が見えた。
「迎えに来てもらった宿の方ですか?」と聞くと「寒い中お待たせしました」とドアを開けてくれる。
社内は暖房を強めに入れてくれたのか、少し暑いぐらいだったが、数歩雪の中を歩いただけでも冷えてしまった身としてはありがたい。
座った瞬間から、なにやら解凍されている気分になる。
ここから、小一時間ぐらい山の方に向かう、という。
ほんの数歩で凍えた体の末端が、車の強い暖房であっという間に緩められ、痛いぐらいに冷え切っていたつま先に温度が戻り、しびれたような感じがあったのですら消え、温風で暖められた靴の表面の温度が伝わってくる。足の指がいままで漫然一体とした感じしかかったのが、それぞれの指の存在を靴下の中で感じ、濡れた靴下の不快感すら感じられるようになっていた。
会話らしい会話をするわけでもなく、宿へと向かっているであろう二車線道路をゆっくりと進んでいく。
電柱よりも高い木々が雪の重みからなのか車道側に傾き、ただでさえ視界が良くないところにさらに覆い被さろうとしている。
車道も初めのうちは、いくらか車が通った跡があったのだが、だんだんと新雪が道を白く塗り込め、電柱やガードレールを目印にしないとどこまでが道なのかわからなくなってきた。雪が強くなっていくにつれ車の速度も下げ、まるで人間が慎重に一歩一歩足を進めるかのようにゆっくりとした運転で宿に向かうのだった。
運転をしている宿の親父さんは「もう少しで着きますが、スリップしないように慎重に行きます」とつぶやくと、ギアを変えた。チェーンを巻いたタイヤが立てる規則的な音でスピードを下げたことがわかり、まだ時間がかかるのかと覚悟を決めたのだった。
雪で時間がかかるから小一時間ぐらい、と聞いていたが、実際には一時間半近く雪の中を走り、やっと宿に着く。宿の周りの木々にも雪が降り積もり、なにやら少しうつむいたような姿勢に見え、薄暗い空と合わせ、なにやら先の見えない重苦しい感じが付け足されたような気持ちになった。
山の中にある宿は、中腹にある地の利を生かして、山の反対側は大きく開け、大浴場や露天風呂なんかも景観を楽しみながら湯につかれる、らしい。
もともと強く降っていた雪は、宿に入って少しもしないで風が出てきたせいもあり吹雪のようになっていた。
雪のせいなのかスマホの電波は届いてはいるが、ネットは不安定でつながったりつながらなかったりを繰り返している。
いつもの習慣で何の気なしにスマホに手を伸ばしても、ネットにつながらないというだけで、普段ならできることが全滅になっている。
部屋に通されてからはスマホがないならばテレビでも見てみようかと点けてみても、タレントか芸人か判らないやつが騒がしいだけで、何も内容があることを言ってなく、水増しをするかのように番組の空騒ぎを眺めたところで、気が滅入り消してしまった。
それならばと温泉につかり戻ってきたところで一時間も経っていない。
温泉宿にありそうなゲームコーナーや卓球台なんかは、宿が小さすぎてない。
充電器につなぎっぱなしのスマホは、バッテリーこそフルになっているが、普段の使い方ではほぼ使い物にならない。
いままで生きていて初めて、空白の時間が生まれた瞬間だった。
無意識にスマホを手に取り〔やることねー〕とつぶやこうとしたが、そもそもつながってない。
写真を撮ってインスタを立ち上げたまではいいが、やっぱりつながってない。
なにか来てないかとLINEを開くが、つながってるわけがない。
無意識に指が動くことがすべて塞がれたようなものだった。
八畳ほどの部屋に申し訳程度に旅館らしい備品、お茶やグラス、それに洗面セットなんか、をつけた部屋の中には、内線電話とエアコンやテレビのリモコン、冷蔵庫とその上に館内放送と称したラジオっぽいのがあるぐらいだった。
ポッドキャストはいくらか聞いている物の、ラジオは初めて触れる。
なんとなくのイメージで、ラジオは局を変えるのにつまみを回したりボタンを回したりして選ぶというのは知っている。が、目の前にあるボタンで何が流れるのかは皆目見当がつかなかった。
ためしに五つほど並んでいるボタン順に押していく。
一つは音楽が流れている局で何度合わせてみても落ち着いた感じの、それこそ喫茶店のBGMのような主張しないストリングスの音楽が延々と流れる。もう一つは落ち着いた感じの男性が話をしている局で、退屈の中にさらに退屈の風を吹かすような印象だった。次の局はガチャガチャと男女の雑談のようなのが流れている。さらにもう一つ押してみると、サーという砂の流れるような音が続き、最後の五つ目は男性が二三言曲について紹介をすると音楽を流すという物だった。
殺風景な部屋の中で音も何もないのは隔離されているような気持ちになるので、最後の局を流しておくことにした。
知らない曲を聴くともなしに流しておきながら、ごろりと横になる。
浴衣の裾ははだけ、風呂上がりのすねが少し寒いような気がしたが、気にせずぼんやりとしてみる。
また、無意識にスマホに手を伸ばそうとしたが、少しの自制をする。
考えてみたら、通勤中でも電車の中でスマホをいじるか寝るかしかしていない。手元にスマホがあってもネットにつながらなければ何もできない。
退屈と空白の時間のなかに放り出されたとき、自分でできることが何一つない。
スマホを持ってない時代は何をしていたかを考えてみても、PSPを手にしていた記憶しかない。小学生より前の記憶なんてほぼ出てこない物だから、デバイスが使えなくなると、完全に時間を持て余し、せせらぎのようにいつも通り流れている時間ですら持て余すようになっていたのだった。
何かないかと部屋を出るが、たぶん泊まり客は俺一人なのもあり、がらんと何もない。
雪で他に客はいないらしく、廊下の明かりは所々消してあり、調理場の方から少しだけ音がしている。調理器具が立てる音や、合間合間にラジオらしい音が紛れ込んでいる。
受付まで歩くと、大雪で帰れないかもと宿の主人と話をしている中で、万が一バスが動かなくなっても連泊をして問題はないし、食材はあるから決まった時間に出しましょう、と心強いことを言ってくれていた。
受付の隣には自販機と椅子とテーブルが置いてあり休憩室みたいなスペースになっていて、地元の観光案内らしいリーフレットとかが置いてあった。
部屋を出てもやることがないのがはっきりした。
とりあえず、明日も動けない前提にした方が良さそうだった。
やることもないので、オヤジと無駄話をする。
やることないっすねー、と言うと、ああ、ここら辺は温泉に入るか山菜を食べるかぐらいしかないですからね、テレビも局がないしラジオぐらいしか娯楽がないですからね、と帰ってくる。ここら辺の子供はネットとやんないんすか、と聴くと、うちには小さい子供が居ないから、と返答に困ってるような口ぶりで、おやじさんのケータイ、つながります、と聞くと、近くにある携帯電話のアンテナもやられてるってラジオで言ってましたね、と帰ってくる。
話を弾ませるつもりもないが、一問一答みたいなやりとりはこっちが疲れるだけなのだが、合間合間にラジオが出てくる。
ラジオ好きなんすか、と聞くと、好きなわけではないがこっちが退屈しているときに耳を傾ければいいのでちょうどいい、と言う。
こちらもやることがないので、おすすめの局はあるんすか、と聞くと、少し考えて、好きと言うよりは習慣でNHKを流しっぱなしにしている、と言う。
まだ八時を回ったぐらいの時間にあまりにもやることがなさ過ぎると、少しでも何かあれば飛びついてしまいたくなるような衝動に駆られ、刺激の中毒になっているのではないかと自分で自分のことが心配になるほどだった。
オヤジによると、NHKは部屋のラジオの三番目の局という。
しばらくし、夕食を済ませ、結構な空白の時間がある。
やることがないから風呂に行く、という人生の中でいままでやったことのない行動に出てみた。
強い決意がある行動ということもなく、ただただ浴室に行き温泉につかっただけだ。
かけ湯の余韻が肌に残るうちに温泉に浸かる。
温泉目的ではなかったのもあり、適当に宿を選んだのだが、源泉をそのまま引き込んでいるという温泉は評判がいいのだという。
興味がない俺からしてみたら銭湯との差がいまいちわからない。
それでも、さほど広くはない浴場から曇ったガラス越しに見える、雪で起伏しかわからなくなった庭を眺め、どうやって持て余している時間をやり過ごそうかと考える。
寝るのが一番だが、まだ、眠くはない。
散歩でも行こうにも、そもそも外に出られない。
荷物は必要最小限しかないからゲームなんて持ってきていない。
テレビを見るのには、あのざわざわとうるさいやりとりが我慢できない。
結局のところ、風呂に入って、少し呑んで、それで寝るという選択しぐらいしかなかった。
やることがない。というのは、本当にやることがない。
何をしていいのかかわからないから、部屋の中で一人酒を飲みながら静かにしているが、どんなにゆっくりしようとしても十分もたたない。
スマホの時計を見て、アンテナのピクトの横に時間が出ているが、動いてないのかと思うぐらいに時間が動かない。
なにしろ落ち着かない。
静かな部屋の中で、空白を申し訳程度に埋めるためにラジオをかけているが、その内容は頭に入らず、なにか刺激があることがないかと無意識にスマホを取り出す。
相変わらずネットは反応せず、通知なんかはあるわけがない。
宿の手配ができたのは運が良かったが、ここまで何もないところとは想像がつかなかった。
もしあのとき、送迎の車を見つけなければ、この大雪の中で居場所もなくさまようことになる。
何もないという退屈の時間と、雪に埋もれるのを天秤にかけたら今の状況のほうが断然良いのだが、それはそれとして、退屈という魔物を目の前にすると、雪だらけになって駅前をさまよってる方が楽しいんじゃないだろうかと思う節がある。
理性が温泉宿を歓迎し、感覚が温泉宿にしかめっ面をしているような気持ちだ。
宿に着いてから何度目かの温泉に入る。
浴場と庭を隔てるガラス張りの壁の横に扉があり、外に出られる。
面白半分で、雪を直接感じようと考えた。
送迎の中で、雪と車の暖房とで何度も体が冷えたり温まったりしている。
その凍えた感じを、すぐに暖まることができる環境でやるのは贅沢なんじゃないか、と、退屈にうんざりした頭が急に思い立ったのだった。
それじゃ、温泉でこれでもかと言うぐらいに暖まり雪の中にダイブしてみよう。と、一人小規模なプロジェクトを立ち上げる。
そのためには、とにかく体の奥の奥から暖まり、体中が熱の塊になるぐらい湯につかる必要がある。
普通に風呂に入るときは、しっかり暖まろうなんてのは意識したことはないのだが、いまはとにかく体を茹でるかのように暖まりたい。
まずは指先が湯の中でも暖かくなり、つま先から太ももが暑く感じはじめ、腹の中が暖まりきると、胸の奥が熱を持ち始めたように感じた。
それこそ、心臓が一度動くごとにお湯のようになった血が体の中に送り出されているように、体の端から端まですべてが暑い。
お湯から染みこんできた熱が行き場を失って体中を循環して、頭の方まで流れ込んでくる。頭はというと、まるで熱にうなされている時みたいに自分の呼吸が暑く、上あごから舌の先から、すべてが熱の塊になっている。
意を決して湯から這い出て、雪が降り積もる庭に出る。
暖まりすぎたのもあり、少しふらついて歩いているが、誰も見ていないのをいいことにタオルで前を隠すこともせず、おもむろに庭へと続く扉を開く。
さっと一吹きする雪をなでてきた風が冷たく、そして気持ちいい。
さほど広くもない庭の真ん中まで行くと、地面に背を向けて、そのまま天を仰いで大の字に横になる。
その瞬間、頭や首筋、それに背中に当たる雪が気持ちいい。
さっともう吹きした風が腹をなで、早くも体の表面が冷え始め、つま先の熱は消え始めていたのだった。
凍え、溶ける 北緒りお @kitaorio
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