第2話 安曇野・松本旅②
さて、松本駅に着くと、私は脳内シミュレーションの通りにロッカーに宿泊用荷物を詰め込んだ。コインロッカーは小さいサイズで500円。300円くらいだろうとたかをくくっていた私は思わず「たっっか!」と目玉が飛び出た。だが抜かりはない。このために100円玉をたくさん持ってきたのだ。
じゃりじゃりと小銭を放り込み、鍵を閉める。ミッションのひとつはこれで終了だ。
それから大糸線に乗り、穂高駅までさらに輪行である。だいたい30分もあれば着くだろう。
はやる気持ちを抑えながらオレンジさんを背負うと、なにか違和感がある。
私の脳内で誰かが語り掛けてくるのだ。これは時折空想上の生物として、オレンジさんが静かに口を開いている状態だ。オレンジさんはその明るい色合いからは想像もつかないような淡々とした声色で、私の胸の内に言葉を紡ぐ。
「時間を見たほうがいいよ」
時間?
ああそういえば、時刻表を見ていなかったような。数年前に松本に来た時も同じようなことをしたなぁ。確かあの時は、ちょうどよく電車が来たのでほとんど待ち時間がなかったと思うが――。
改札を通りオレンジさんを置ける場所まで移動すると、スマホでぽちぽちと現在地を入力した。
「……わお」
そこで気づいたのだが、次の電車の時刻はなんと一時間後だった。
盲点だった。地方の電車は一時間に一本しかない場合があるということをすっかり忘れていた。地方出身者のくせに、都会の感覚に慣れてしまったが故の失態だ。
私はしばらく硬直したが、最終的に「まあいいか」ということにした。旅にはこういう失敗はつきもの。大体にして、私はすでに地図を家に忘れているではないか。むしろ待ち時間が一時間でよかったではないか。下手したらもっともっと長く待たなければいけない場合だってある。
そう、一時間だけだから――
そのとき、ぽつんと何かが頬を濡らした。天気雨だった。そういえばほんのり空気は冷たくて、変に上がってしまったテンションを冷ましてゆくかのようだった。
なんだか物悲しくなって、私は思わず声を上げる。
「ふ、ふんだりけったりだ!」
***
安曇野に着いてからも天気雨は降りっぱなしだったので、私は駅前の喫茶店でカレーを食べて待つことにした。
ヴィーガンでも食べられるきのこと豆のカレー、それからどっしりとした甘みのチーズケーキ。オレンジさん、まだ外に出られず輪行袋で待機中である。
この喫茶店には地域の芸術家による展示スペースが用意され、本日はなにやら雑誌の取材を行っているようだった。老齢の女性が小さな絵画を携えながらにこりと微笑んでいるところを写真に収めていた。
ほー、と思っていると、ちょうど雨が止んだようだった。
私はお会計を済ませ、店の前でオレンジさんを展開する。ハンドルを伸ばし、車体を大きく後ろに曲げてやり、ねじで固定してからペダルを下す。慣れれば三十秒もあれば終わる作業である。
輪行袋を手早くまとめてサドルに固定すると、ようやく外に出られたオレンジさんンも心なしか嬉しそうであった。
ふと視線を感じて顔を上げると、ほかの観光客がこちらを見ている。この視線は慣れたものだ。むしろ見てくれ、うちの子はかわいいのだ。
むふむふと鼻を膨らませつつ、私はオレンジさんにまたがると軽やかにペダルを漕ぐ。
さあ、ようやく私の旅が始まった!
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